切り抜き的短編集

@McCoy

第1話 Tesoro - 1

 雨がひどくなってきた。

 ずんずんと大股で歩いていた僕は、ポケットに入っているスマホがまたもやバイブし始めるのを感じた。歩くペースを落とし、唇を噛む。が、顔を上げると、前の信号が丁度青に変わったところだったので、やはり無視することに決めた。

 遠くで雷が鳴っている。と思ったら、頭上でぴかりと光った。傘越しにもわかる鋭い輝度に、やれやれと思う。今夜は全てがこの調子なのだ。前寄りに傾けた傘をしっかり握り、土砂降りの中、足を速めて進む。


 繁華街には空間を埋め尽くすようにたくさんの広告があった。ビルの屋上看板に並ぶホストクラブのランカー達、巨大なデジタルサイネージに映る新作VRゲームの広告、リニューアルセールを告げる垂れ幕に、『薄毛は治療できます』と書かれた医療機関の広告。家電量販店店頭の、最新大画面4Kディスプレイには、国内大手ヘアケアブランドのCMが流れる。


宙に浮かぶ乳白色の球体。

そこから現れ出た女性。

彼女が濡れたように輝く黒髪をほどくと、肩へとしなやかに流れる髪から零れ落ちた光が、一面を清らかに、柔らかに照らしていく。


 それが、自分の携わったものであることにはすぐに気付いた。気付かぬわけはない。約2か月の間血反吐を吐きながら制作し、ようやく完納した代物だ。


 伝統素材の使用を謳ったその商品のコンセプトはこうだ。

 『ラグジュアリーな和の美に包まれた日常』

 『使う度、髪も意識も磨かれる』

 ――――明らかに、壮大過ぎる。

 けれども、こういう過大オーバー広告クレーム気味のコンセプトをエモーショナルに振り、ちょうどいい具合のビジュアルに落とし込むのは、(本意ではないが)僕の得意とするところだ。とりわけこんな風に、女性の官能に訴えかけるような表現が求められる場合、そこは、僕の領域だ。


 画面を見るうちに、素材の表現に偏執的なまでのこだわりを見せたクライアント担当者の顔が浮かび、前髪にぐしゃりと指を通す。

「厳選された素材を使いました」「自信作なんです」と現場で力説していた彼女が、プライベートであの製品を使うことは、恐らくないだろう。SDGsの取り組みで知られるアパレルの服を着、打ち合わせにスムージーを持って現れる人物だ。SNSにボトルの写真をUPするだけでストーリーを纏えるような、(具体的に何を原材料としているかはわからないがとにかくケミカルフリーでオーガニックの)プレステージ製品を愛用しているに決まっている。


 ふうぅ、と胸元に溜まった毒気を宙へ吐き出す。

 ――それが、何だと言うのだ。

 どのみち彼女は、あの製品のターゲット像から外れている。何ら問題はない。

 ただ、僕らのような仕事に就く者からすれば、中身の差とは、重要でありつつも、決定的な要素ではなかった。真珠エッセンスであれエシカルであれ、そのままでは単なる記号に過ぎない。大事なのはそこから得られる価値を、誰に向けどう伝えるかだ。勝負は15秒間。視る者に、それが自分にとって必要で価値あるものだと思わせることが出来るか。僕らの主眼は、常にそこにある。


 苛立ちの原因が、ユーザーへの共感性に欠けるブランドマネジャーにないことは明らかだった。このタイミングで思い出したので、イライラが増しただけだ。ポケットの中で、スマホが震え続ける。

 水溜まりを走行する車や街の喧騒をBGMに、雨に洗われる大通りを闊歩する。交差点を渡り、表通りから一本中に入った小路を歩けば、目的地は、すぐそこ。細い路地に連なるいくつもの看板と扉。漏れ聞こえる酔客たちの愉快気な声。この雨だから、みんな店に入っているのだろう。通りに人影はない。


 スマホが再び震え出し、空に目をやる。こめかみに指を押し当て、落ちてきた前髪を指先でなぎ払う。

 この調子では、あと5回はかかって来るだろう。肩を落とし、大きく息を吐いて、諦めて電話に出る。

「Ma che vuoi? (一体何?)」

「Dai... Ti prego, ascoltami!(ねえ……頼むよ、話を聞いてくれったら!)」

 Gino(ジーノ)は、まだ食い下がってきた。

 そこから続く彼の長い言い訳を、傘の先から雨の雫が滴るのを眺めながら、聞く。少しのやり取りがあり、幾つかの本質的な問いに対する返答で、話が平行線であることを確認した後、僕は、短く告げた。「Basta!(もう結構!)」

「Sarebbe meglio non vederci più.(僕たち、もう会わない方がいいと思う)」

 そう言って電話を切り、気を静めるためにゆっくりと息を吸い、吐き出したとき、それまでかすかに聞こえていたテナーサックスの音色が、前方でぶわっと広がるのを感じた。

 店のドアが開き、人がばらばらと出てきた。家路につく数人の客を、一人のバーテンダーが笑顔で見送っていた。

 軒先で傘をたたんだ僕は、通りへ出た彼らと入れ違いに、店の中に足を踏み入れる。入るなり、カウンターの内側に視線を走らせる。探していた姿はすぐに見つかった。

「よう。いらっしゃい」

 声をかけられ、ささくれ立った心に、ほのかな温もりが宿る。


 店のマスターであり、多くの崇拝者ファンを抱える迷える羊たちの庇護者、トシさんは、今日も快活に常連客と談笑しながら、てきぱきと店を切り盛りしていた。スポーツマンらしい精悍な顔つきに、筋肉に覆われた堂々たる体躯。自分はこの雄々しい酒神バックスを眺めるためにこの店に通っていて、そんな客は他にも大勢いた。

 洋服越しに浮き出たたくましい背中のラインを惚れ惚れと見つめていると、背後から、若い男の声がかかった。

「いらっしゃーい。雨、ひどかったでしょ。ああ服濡れちゃってますね、これ、使ってください」

 そう言っておしぼりを手にしたのは、愛らしい顔立ちをしたこの店のアイドル、バーテンダーのRioリオだ。眩しいような笑顔を見せ、こちらへやって来る。

 ありがとう、と礼を失しない程度に微笑み返し、差し出されたおしぼりを受け取る。Rioは、僕をカウンター席へと案内する。「こちらへどうぞ」

 空模様のせいか普段より空いていたが、奥のカウンター席はいつも通り満席で、通されたのは両隣が空いた入り口側の席だった。少し距離を置いた正面に、陽気に笑うトシさんの横顔が見える。いい席だ。椅子を引くRioの顔を見て、今度はしっかりと微笑みかけた。「ありがとう」

「どういたしまして。……そんなに嬉しそうにされると、けちゃうけど」

 苦笑の混じったその言葉を受け流し、椅子に腰を下ろす。カウンター席が水を打ったように静かになった。店に入った時から感じていた食い入るような視線が、より強くなる。今この瞬間、カウンター席に座る男のほとんどが、控えめに、もしくはあからさまにこちらに目を向けていた。

 それがどんな種類の視線であれ、今夜の僕には無用だった。ただ、温かい人の心遣いを感じられる場所で、美味しいお酒に酔いたいだけだから。

 数秒後、カウンター席に談笑の声が戻った。上着を椅子に掛け終えた僕は、ポケットからスマホを取り出す。途端に、またしてもそれが振動し始めた。目を閉じ、息を吐く。それからバイブも切って、裏返しにしたスマホを視界の隅に置いた。


「ディアナ?」

 カウンター越しにかかった声に、目を上げる。

 中に戻ったRioが、スマホケースの背面にデザインされた彫像に視線を注いでいた。

「……よくわかったね」

「ルーブルで?」

「いや。二年前、上野でルーブルのイベントがあったんだ。その時のグッズだよ」

 答えてから「Rio、ミモザをくれる?」と頼む。女子みたいなオーダーだと自分でも思ったが、とにかく自分を甘やかしたい気分だった。

 目の前で、オーダーしたカクテルをRioが作っているのを、見るともなく眺める。

 この青年をどのように定義したらよいのか、わかりかねていた。

 初めは普通に今時の、陽キャでパリピな若者だと思った。が、すぐに印象が変わった。働きぶりは相当に真面目で、よく気が回る。同世代の客と、流行りのジョークやショート動画のミーム混じりのやり取りをしていたかと思うと、品のよい物腰で、年配の常連客の対応も卒なくこなす。

 奔放さについての悪名は、この街に入り浸っているわけでもない僕ですら耳にしていた。実際、gabbyには、彼とのワンナイトを狙って訪れる客が引きも切らない。とは言え僕自身は、彼がその手の誘いに応じるのをこの目で見たことは一度もないから、噂にどの程度尾ひれがついているのかは判然としなかった。

 そして今、Rioの口から出たのは、ルーブル美術館所蔵の彫像の名だ。

 不意をつかれた。彼が、僕の分野フィールドに踏み込んでくるとは。


「繊細で優雅な月の女神。ゆうさんにぴったりだ」

 出来上がったカクテルを注いだフルートグラスにオレンジを飾って、Rioは、涼し気な流し目をこちらに向けた。どうぞ、と差し出されたそれを受け取る。

「仕事でちょっと関わりがあって、その記念にね。深い意味はないよ」

「へえー。悠さん、どんなお仕事しているの?」

 問われて、一瞬返答に詰まった。ひっそりと自嘲しながら、答える。

「この頃はまだ現場のデザイナーだったんだ。今は諸々の調整役が主になっちゃって、何の仕事なのかうまく説明出来ないけど」

僕は広告代理店で働くアートディレクターだ。ADの仕事に調整事は付き物なのだが、僕の場合のそれは、そんな次元には収まらない。

「それって、管理職ってこと?すごいなあ。悠さんは周りをよく見てるから、そういうの上手そうですもんね」

 ――僕のことなんて、何も知らないくせに。

 無邪気さがかんに障り、独りでに口が動いた。「――何もすごくなんかないよ。ただちょっと語学が出来るから、便利に使われてるってだけ。会社が外資に買収されて、いきなり新規の外資系案件が増えちゃって、そういう手がかかって面倒なやつを全部押し付けられてるだけなんだ。僕の本業がデザインの監修だってこと、もしかしてみんな忘れてるんじゃないかと思うよ。毎日異文化間の摩擦の調整で、僕自身よくわからなくなってきてるぐらいだし……」

 一気にまくしたててから、我に返って口をつぐむ。

 しょうもない八つ当たりをしてしまった。社会に出て間もないような、こんな年若い青年に対して。

 恥ずかしさに動揺し、上目遣いに見上げると、Rioは眉を上げ、まん丸の目でこちらを見ていたが、すぐに、あははと笑ってみせた。

「そうなんだ」と彼は朗らかに言った。「お仕事、大変ですね。いつもお疲れ様です」

 お道化たように大げさに敬礼するRioに、ばつが悪かったもののいくらか気が楽になり、曖昧に微笑んでみせてから、手元のカクテルを飲む。


 テーブル席からドリンクのオーダーが入って、Rioは無駄のない動きできびきびとそれに対応し、カクテルをどんどん作り上げていく。テーブルにいた若い常連客の一人が、手伝うよとトレーを持ってカウンターの横に立った。Rioと掛け合いながらカクテルを載せていくその姿を何の気なしに見た僕は、男性と目が合い、その鋭い眼光に目が覚める思いがして、慌てて目を逸らす。


 席にドリンクを運び終え、カウンターに戻ってきたRioは、僕の手元を見てきらりと目を輝かせた。

「もうグラス空いてる。悠さん、次、何にします?」

 僕はちょっと考えて、答える。「ネグローニを」

 さっと眉を下げたRioが、すぐに微笑んで「了解」と返し、スローイング用のティンを取り出すのを、黙って眺める。

 彼が何を期待していたかはわかっていたが、素知らぬふりをした。XYZエックスワイジー。入り口側のカウンター席に並ぶ男たちの手元に一度は置かれたであろうカクテルだ。

 gabbyでRioに誘いをかける男は、XYZを頼むのが暗黙の決まりごとだ。誘いに応じる場合はRioがコースターに連絡先を書いて渡す。どうしてそんなややこしい手順を踏むのかと思うが、そうやって皆の前でわかりやすく儀式をする方が、却ってトラブルを防止できるらしい。

しかし僕は今まで一度もXYZを頼んだことはない。したがって、Rioは一夜の相手に僕を指名することは出来ない。

「ほんっと鉄壁。いつになったら頼んでくれるんだろ」

 スローイングしながら聞こえよがしにぼやく彼を、無視する。

「一度ぐらい試してみたって罰は当たらないと思うけれど」

 引き続き無視して、チェイサーの水を飲む。

 このところ、僕はこうしてこの気まぐれなアイドルに口説かれていた。

 そのせいで、彼のタニマチ的常連客の一部に目をつけられる羽目になった僕が恨み言を言ったため、Rioは店の中で常に僕を手元に置き、しっかりとガードしている。おかげで今の所、僕に向けられた敵意がそれ以上の何かになったことはない。が、だからと言って、彼に感謝するのも理不尽な話だ。

 奥のカウンター席に目を向ける。トシさんは、常連客の話に時折頷きながら、オードブルを盛り付けていた。

 あの人だったら良かったのに、と思う。独り占めは出来ないだろう。でも、間違いなく本物の愛をくれる。

 Rioはあまりに若い。一時いっときは夢中になるかもしれない。だがすぐに冷め、遊び仲間の元へと戻っていくだろう。紛い物はもうたくさんだ。僕の心を満たすのは、嘘偽りのない、本物の輝きだけだ。


 ネグローニのタンブラーが差し出された。受け取ろうと伸ばした僕の手に軽く触れ、Rioはにこりと微笑みかけた。

「さっきは悠さんのこと少し知ることが出来て、嬉しかったです。もっとたくさんお話聞かせてほしいな」

強かな若者に、僕はすげなく答えた。

「悪いけど、僕、年上のひとが好みなんだ」

「わかってます」肩をすくめ、Rioは背後を振り向いた。客の輪の中で話に相槌を打っているトシさんを見ながら言う。「でもトシさんは、博愛主義だから。悠さんには向かないんじゃないかな」

真っ白なクロスを手にし、目の前に居座りグラスを磨き始める彼に、仕方なく口にする。

「Rio、言ってなかったけど、僕付き合ってる人がいるんだ」

「――既婚者の彼?」

手元に視線を落として静かに言うRioを、驚いて見た。

「ごめんなさい。さっき、電話で。僕、大学でイタリア語履修してたから」

「聞いてたの?」

「ドアを開けたら悠さんがいたから、気になっちゃって……単語がいくつか聞こえただけで、ちゃんと聞き取れたわけじゃないんですけど」

ため息をつく。まさか、イタリア語の会話を聞かれるとは。

「……イタリア語の成績は良さそうだね」

嫌味を言う僕に、Rioは神妙な顔つきを見せたが、裏返しで置かれた携帯にちらりと目を向けてから言った。

「でも、終わりにするんでしょ?」

「君には関係ないだろ。放っといてくれよ」

言い返した後すぐに、大人げない自分の言い草が情けなくなり、グラスの中身を一息にあおる。ジンが喉を伝い胃に流れ込み、火をける。カンパリのほろ苦い後味がした。


「Rio!」と背中で誰かが彼を呼び、「はあい」と返事をしたRioが、トレーを手にし向かう。

空になったグラスをカウンターに置き、前を向いたまま、僕は、遠ざかっていく気配を見送った。

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