第6話

 再び目を覚ましたのは、看護師が、

「夕食の時間ですよ」

と呼びかけられ、番茶と共に夕食を運んできてくれた時だった。

時計を見ると、五時半。夫が帰ってから、すでに一時間近くが経っていた。

お腹はあまり空いていなかったが、食べなければ身体が回復しないと思い、一口でも多く食べようと口に運ぶようにした。しかし、半分も進まないうちに、箸が止まってしまう。それでも頑張って食べようと試みるのだが、必要以上食べるとせっかく食べたものを吐き出してしまいそうな気がして止めた。それに下腹が張って、何となく重苦しい気分に襲われたことも影響していた。

 食事が済むと、わたしはトイレに行きたくなった。

 個室だったので、室内にもトイレはあったが、今の自分の体力を知っておくのも必要かもしれないと思い、気分転換も兼ねて、部屋の外にあるトイレに行くことにしたのだった。

いざ、ベットから降りようとすると、思いのほか身体がだるい。手足の一つ一つを、意識して動かさないと、ふわりとどこかに持って行かれそうになる。

 あらためて、気を引き締め、背筋を伸ばし、床に両足をつけて立ち上がってみる。

すると、不意に視界が閉ざされた。すぐにベット脇の手すりを掴む。そして再び視界が明るくなるのを待った。

 徐々に足下が見え始める。わたしは、再び視界が暗くなるのを覚悟で、用心深く摺り足で一歩踏み出した。すると今度は、膝が震え崩れ落ちそうになった。それでも、他人に頼ることが嫌いなわたしは、廊下の壁の手すりにつかまりながら、一歩ずつゆっくりと歩みを進めていった。

 二十分かかって、ようやくトイレにたどり着いたころには、背中は汗だくで、下着がピッタリと肌に張り付いていた。

 ドアを開けて、便器に腰を下ろす。ひと安心したからか気が抜け、すぐに目の前が暗くなった。

ー貧血……。

 そう感じたわたしは、膝頭に顔を当てる位に頭を下げると、ゆっくり深呼吸をする。動悸が激しい。

 数秒後には、頭に流れてくる血の暖かさが感じられた。遠のきそうになった意識も、戻ってきたようだった。鼓動も正常になってきている。

 そんな時だった。

 ドアの外から、ヒタヒタという足音と共に、二人の女の人たちの声が、聞こえてきたのだ。

 どうやら、トイレの用が済んで、手洗い場の方に行こうとしているらしい。

「ねえ。四十六号室の奥さんの話、知ってる?」

「ああ、昨日の昼、流産で入院した奥さんの事でしょう」

 その話の内容から、わたしの事を言っているんだとすぐにわかった。

  話しているのは、この病院の看護師たちなのだろう。というのも、ここの職員は患者たちと共同でこのトイレを使っているからだ。

「なんだ。知っているのね」

 話を始めた看護師は、相手を驚かそうと思っていたにもかかわらず、その楽しみがフイになったからか、心なしか声のトーンが下がった。

「詳しい事はわからないけど、死産だったんでしょう」

 自分の子を流産していたのは知っていたが、その話を聞いて初めて死産だったことが分かった。

 だが、話はそれだけでは終わらなかった。

「そうなのよ」

口火を切った看護師は、その受け答えから、相手がはっきりしたことを知っていないと嗅ぎ取ったらしく、再び言葉に力が入り始めたようだった。

「でもね。それだけじゃないことも知っているかしら。生まれた赤ちゃんに、少しおかしなことがあったのよ」

ーえっ。夫はそんなことを一言も言っていなかったわ。

その時、わたしの脳裏に、夫に触れようとして手を差し伸べた瞬間、手をポケットに隠したさっきの場面が浮かんできた。更に、いつになく取り乱していた今日の夫の姿が浮かんできて、

ーあの動揺は、わたしが流産したことや過去の話を聞いたことが原因だったわけではないのかもしれない。もしかしたら、これからの話に関係があるのではないかしら。

という思いが働き、次の言葉を待ち受けた。

「ええっ。どんなこと。どんなことよ」

聞き役の看護師が、興味津々に目を光らせ、近寄っていく姿が目に浮かぶようだった。

「内緒の話よ。わたしも担当の先生が、不思議がって、友達の先生に話しをしているのを小耳に挟んだだけなんだから……」

「わかっているわよ。秘密は守るわ」

「あのね。あの人の赤ちゃん。といってもまだ三ヶ月位の大きさだから、一センチにも満たないんだけど……実は……顔が無かったみたいなのよ」

ー顔が……無いって……?

「顔が無いって、どういうこと……?」

「うーん。わたしもよく解らないんだけど、よく脳みそがないとか、手がないなんていうのは、薬害の影響で現れることがあるでしょう。今回の場合、それとは違うみたいなのよね。頭はあるんだど……鼻も口も目もないのよ。どちらかというと、お化けの『のっぺらぼう』みたいなかんじらしいわよ」

ーわたしの子が……わたしの子が、鼻も目も口もないの!

「そんな事ってあるの……。からかわれたんじゃないの」

「ううん。わたしもそう思ったんだけど……、でもそのあとの言葉が、印象深くて……。というのはね、先生が言うには、顔の表面が、カッターナイフのような刃物で削ぎ落としたみたいに、平たくなっていたというのよ」

「えーっ。なあにそれ!」

すると、わたしの脳裏に、水の渦に巻き込まれて流されていったあの肉片の姿が浮かんできた。

わたしがその肉片に向かって意識の焦点を合わせていくと、肉片の朧気な映像は、徐々に明確化され、血と共に刻みつけられている皺と陰影が現れた。その姿は……。

ー赤ちゃんの顔!


 いつの間にかわたしは、自分の部屋に戻り、ベットに座っていた。どこをどう歩ってきたのかわからないが、とにかく用を済まして、なんとか戻って来ることができたらしい。しかし、それまでの記憶が、抜け落ちている。

ー今、わたしはベットにいるんだ。

という意識がはっきりとしてくると、

『顔のないわたしの赤ちゃん』

という言葉を、心の中で何度も反芻していることに気がついた。

ーわたしは、また自分の子を殺してしまったのかしら・・・。

落ち込んでいく自分の気持ちの奥底に、夫の顔が見え隠れしていた。

 素早く引いた手。苦しみが見える眉間の皺。

ーあの時の脅えたような振る舞いは、このことが原因だったのだわ。夫は、どう思ったのだろうか。

 妻には、結婚する前に彼氏がいて、その子どもを堕ろしていた過去があった。

 その妻は、今度は、中絶した赤ん坊の亡霊に脅かされている。

しかも、せっかく出来た赤ちゃんをその亡霊の為に流してしまったのだ。更には、その赤ちゃんは、世にも稀なケースで流産したときている。

 普通の幸せな結婚生活を送れると思っていた夫にとって、今回のことは、大きな衝撃であったにちがいない。

 なぜ、自分は、こんな目に遭わなければならないのだろうか、と思っていることだろう。

 その思いは、わたしに対しての憎しみに変わっているかもしれない。というのも、こんな苦しみを味あわなければならなくなったのは、わたしと結婚したためだからだ。

 その上、できた子が奇形だったということで、これから子どもを持とうとするたびに、恐怖に脅かされることがつきまとうことになったのだから・・。

ー夫は、わたしと離婚したいと考えるだろうか。

 ふと、

『 ショックだったのは、事実だよ。だからといって、 今すぐ俺は離婚しようとは思っていないよ。僕とつきあう前の話だし、もう終わってしまったことなんだから……。ただ、このことを受け入れるために、一人で考える時間を少しくれないか』

と、言った夫の姿が浮かんできた。


ー夫は、あなたとやり直すつもりでいるわ。

=夫ハ、アナタト離婚スルツモリデイルワ。


ー夫は、この不幸を引き受けるつもりでいるのよ。

=夫ハ、負ワサケタ苦痛ニ耐エラレルモノデスカ。


ー奇形の子を持った不幸は、二人に責任があると思っているのよ。

=奇形ノ子ヲ持ッタコトハ、夫ニトッテハ『汚点』デシカナイノヨ。


ー夫を信じている。

=甘イ考エハオヨシナサイ。

 わたしの中で、二つの思いが交差していく。


『仕方がないことなんだ』

  病室から出て行く時、夫の言った独り言が、頭の中に蘇ってくる。

ー夫は、今、自分を納得させようとしているのではないかしら。

 結婚した事で、家庭を守る立場になった夫は、今回のことを、自分が家庭を守っていけるかいけないかの試金石だと思ってくれているのかもしれない。だからこそ、自分を納得させようとして言った言葉だったのではないだろうか。

 夫にとってみれば、今回のことは、雨の日に車が跳ね上げていった泥水を、全身に浴びせかけられたようなものだろう。その車の運転手がわたしであり、泥水は中絶したことや奇形の子どもを孕んだことだ。

  突然泥水を被ってしまい、苦悩している夫。

 でも、そんな夫にわたしは今、不思議と親しみを感じ始めている。それどころか、わたしの心の扉は、夫に向かってようやく開かれたような気がするのだった。

 それは、夫が、もしかしたらわたしの流産は、自分に責任があるのかもしれないと思い悩んでくれることで、わたしが抱いている堕胎の贖罪を一緒に背負ってもらえる相手として、夫のことを考えられるようになったからではないだろうか。

ーとすれば、今度こそ「 家庭の幸せ 」というものを掴めることが出来るかもしれない。

と思った。とはいっても、それは夫が離婚を決断しない事が前提だ。わたしへの強い愛情があって、これからもこの家庭を守っていこうという気持ちを持ち続けてくれなければ意味がない。

ー夫は、離婚しないと思うだろうか。こんなわたしでも、わたしを離したくないと思うくらい愛しているだろうか……。そしてわたしは、夫にとってそれだけの価値のある女になっているのだだろうか……。

夫との今までのやりとりを、何度も思い巡らしてみるが、結論がでることはなかった。

気がつくと、日が長くなったとはいえ、太陽が沈みかけ、すっかり空が橙色に染まっている。

 ふと、何かの気配を感じ、部屋の左隅に置いてある小型の戸棚を見ると、その上に背丈が三十センチくらいの人形のようなものが乗っている。

ーあそこに、人形はなかった気がしていたけれど……。

そんなことを考えていると、その戸棚に夕焼けの光が長く差し込んでいき、徐々にその姿が明確化してきた。

 人形は、鼻や口はないが、緑色の眼を持った一、二歳の痩せこけた幼児のようで、夕日によって身体を橙色に染め上げられながらひっそりと佇んでいた。更にその幼児は、施しものをもらう時のように、胸のあたりで、両手をお椀のように形作っている。それは施しを受けようとしているのではなく、わたしに手の中のものを見て貰もらおうとしているようだった。その証拠に、その両手をわたしに中身が見えるようにゆっくりと傾けていった。

 わたしは、それを見てはいけないものだと感じ取っていたが、そこから目を離すことができなかった。

 掌の中には、小さな青白く光る破片が見えた。その破片を見て、

ーあの破片は、わたしの手首から削って流した肉片……わたしの赤ちゃん……。

と思った時、その破片は、アメーバーのように外側の輪郭が四方八方に小さく伸び縮みし始めると、表面がでこぼこに変形していった。その後、盛り上がった部分から、小さいながらも、鼻、目、口の順で形が作られていくと、最後には、赤ちゃんの顔のレリーフができあがった。

 やがて、その小さな目の瞼が、少しずつ開いていく。奥に見える眼球は緑色で、その視線は、わたしを捕らえて離さない。その眼は、手首にできた傷を思い起こさせた。

 目が開いていくと次は口だった。一文字になっていた口は、次第に力なく開き始めていき口元が少し右に歪む。

 その目つき、そしてその口元。それは、別れたあの男にそっくりだと思った。

 やがて、その口から、聞き覚えのある声が流れて来る。

【ママ。ママヲ、マダマダシアワセニハ、サセナイヨ】

※「君ガ望ンダ幸セニナレタノカイ?」

 あの男と同じく、皮肉たっぷりな口調の言葉が聞こえて来た。

 わたしは、それに対して、何か言い返そうとしたのだけれど、幼児の姿は、聞くことを拒むように、夕暮れの闇の中へ、ゆっくりと消えていった。

 まるで、堕胎した時、逃げ帰ってしまったあの男のように……。

ーまた、一人ぼっちにさせられた。

 言いようのない孤独感が襲ってきたが、わたしは、奥歯をグッと噛みしめると、

ー負けないわ。

と、強く思った。


                      完

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煩悶 @takih

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