第5話

 気がつくと、そこは病院だった。傍らに夫が座っていた。

「あなた」 

「気がついたのかい」

「わたし、どうして……」

 鮮血で染められた記憶が蘇り、同時に手首の傷のことが思い起こされた。

 左腕を持ち上げてみると、手首に白い包帯が綺麗に巻かれてある。

ーあれは、夢ではなかったのね。

 ベットに横たわったまま、あのときの出来事を思い起こしていると、

「なんだか嫌な予感がして、仕事を早引きしてきてよかったよ。帰ったら、君が急に倒れてくるし、床は君の左手首から流れ出た血で真っ赤に染まっているし、慌てて救急車を呼び君を運んだんだ。いったい、どうしたっていうんだい」

と、夫が、少しきつい調子で、わたしを問い詰めてきた。

ー夫が詰問してくる気持ちはわかる。でも、どう答えていいのだろう。傷口が赤ちゃんの目になって、わたしを見つめてきたことから、それを取り除こうとして行ったことなのだという話を、はたして夫は、理解し信じてくれるものだろうか。

 そう考えて、黙っていると、

「何とか言ってくれないか。黙っていては、わからないじゃないか。自分で手首を傷つけるなんて、自殺するつもりだったのか。そんなに、今の暮らしが苦痛だったのか」

と、夫は、いつになく荒い言葉の調子で迫ってきた。更には言いながらイスから立ち上がっている。

ー夫は、わたしが自殺しようとしたと思って怒っているのだわ。でも、それは違う。とはいえ、どう説明すれば……。

 わたしは、すぐに夫の間違いを正さなければという思いと、どう説明すればわかってもらえるだろうかという思いの狭間で煩悶し、自分が精神的に追い詰められていくのを感じた。

 そしてついに、

「違うわ。死ぬつもりなんてない。でも、わたしには、赤ちゃんの亡霊がつきまとって離れないの」

と、口走ってしまったのだ。

「赤ちゃんの亡霊……。亡霊って、どういうことなんだ!」

と、驚く夫の声。そして、奇妙なものでも見た時のような顔つき。

 夫のその声を耳にした時、わたしは、

ーしまった。

と思った。このことは、言ってはいけない事なのだ。

「……ごめんなさい。黙っていて……わたし……、あなたと結婚する前に、前の彼との子どもを堕ろしたことがあるの」

「…………」

 夫は、静かにイスに座った。

 おそらく、大きな衝撃を受けたのに違いない。

 自分の愛する妻が、結婚前とはいえ、別な男に抱かれ、その上子どもまで孕み、堕胎していたことを聞かされてショックを受けないはずがない。しかも今日、初めてそのことを知ったのだ。

 とはいえ、夫の子どもを妊娠中の今、簡単に離婚することはできないと思っているだろう。つまり、これからも結婚生活は、続けていかなければならないということだ。だとすると、夫は今、わたしの過去の出来事に対して「許す」という事を前提に、自分の気持ちに折り合いをつけなければならないと考えているのだ。

 そんな煩悶していることが、下を向いて何も言わない夫の姿からひしひしと伝わってきた。

 数十分の間、沈黙が続いた。

 それは、わたしにとって、詰られるよりも辛い時間となった。その間、わたしの目からは、止めどなく涙が流れ出ていった。

ーこの涙は、わたしの「幸せ」が流されていく涙なのかもしれない。

 そう思うと、心はますます鬱いでいき、その苦しみから逃れようと、わたしは泣きながら、切れ切れに言葉を発していた。

「黙っていて……ごめんなさい……。騙そうと思って……いたのではないの。わたし……あなたとの……暮らしを壊したくなかったから……。だって……わたし、今幸せだと思っていたから……」

 夫は、たどたどしく話すわたしの言葉を、最後まで目を閉じて聞いていた。

 わたしが、すべてを話し終えると、夫は俯いていた頭をもたげ、天井を見上げて大きくフーッと溜息をついた。

 それから、意を決したように、わたしの方を見つめ、

「悪かったね。君を責め立てて……。嫌な事を言わせてしまったよね」

と、いつもの穏やかな調子で話し出した。

 その柔らかな言葉の調子に、本来ならば慰めを感じるものなのだろうが、言葉の中にどこか夫の諦めの気持ちが含まれているような気がして、わたしの涙は止まることはなかった。

「いいの。わたしが悪いんだから……。でも、許されることではないわよね。離婚されても仕方ないと思っている……」

 夫は再び溜め息をつく。そして俯き、次の言葉を探していた。

「ショックだったのは、事実だよ。だからといって、今すぐ離婚しようとは思っていないよ。僕とつきあう前の話だし、もう終わってしまったことなんだから……。ただ、このことを受け入れるために、一人で考える時間を少しくれないか。それに……」

夫の言葉は、そこで区切られた。言っていいかどうか、躊躇っている。

「それに……何なの……」

と、わたしが促すと、夫は意を決したように、

「それに、僕たちの初めての赤ちゃんも流れてしまったし……」

と言った。

「えっ」

 わたしの身体の中を電流が鋭く突き抜けていき、自分が、深く暗い谷間に突き落とされていく気がした。

ーだから夫は、珍しくきつい調子で責めたてたのか。

幸せの翼が、子どもを流産ともに、自分の背中から端折られた気がした。

【ママバカリガ、幸セニナルナンテ、不公平ダヨネ】

※「結局、オ前ハ俺カラ離レラレナインダヨ」

という声が聞こえた。

「……ごめんなさい……」

 それだけが、ようやく言えたわたしの言葉だった。

「……いや……もう仕方がないことなんだと思っている。縁が無かったんだ。感情的になってすまなかった」

今度は、夫のいたわりの言葉が、素直にわたしの心に入ってきた。

ーわたしは、わたし自身の後ろめたさからとはいえ、こんなにも優しい夫になんて冷たい態度をとってきたのだろうか。

 そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、もっと自分を包んでもらいたいという気持ちが強くなって、いつになく夫の腕にそっと手を伸ばした。

 すると、夫の手が素早く引っ込み、ズボンのポケットに隠されたのだ。

ーえっ。どういうこと。

 思いがけないその行為は、わたしを一気に不安の渦に陥れた。

「わたしを許してはいないのね」

 その言葉に、夫ははっとして、驚くようにわたしを見ると、

「病人に無理をしてもらいたくないと思っているだけだよ」

と言ってわたしの頬に軽くキスをした。でも、それは本心を見透かされたことを隠そうとする行為に思えた。

ーわたしの思い過ごしなのだろうか。

 そんな事を思っていると、夫は再びイスから立って、

「じゃ、今日はこれで帰るよ。明日また、会社の帰り道に寄ってみる」

と言った。それから鞄を引き寄せ、ドアの方を向くと、

「そう。仕方がないことなんだ」

と、自分を納得させるように独り言を言って、部屋の外へと出ていったのだった。

ーあれは、わたしの思い過ごしなのだろうか。まるで汚いものに触れられまいとするかのように、わたしの手を避けられた気がしたのだけれど……。

 そう考えれば考えるほど、自分で自分の首を絞めていくようで、ますます気が鬱いでいくのだった。


ーだめ。もっと気持ちを楽に持つのよ。

=モウダメナノダワ。 モウ終ワリヨ。


ー今回、新しい赤ちゃんは流れて行ってしまったけれど、このことで、取り憑いていた赤ちゃんの亡霊も一緒に去っていってくれたと思えばいいじゃないの。

=赤チャンハ、流レテシマッタノヨ。ツマリハ、 夫トノ唯一ノ絆ガ切レテシマッタトイウコトヨ。ダカラ夫ハ、アナタガ差シノバシタ手 ヲ避ケタノヨ。


ーいったん手にしていた幸せは、消 えてしまったけれど、これから先の幸せ全てが、なくなったわけではないわ。

=モウ幸セナンテコナイワヨ。ダッテ、アナタハ呪ワレテイルンダモノ。アナタガ、殺シテシマッタ赤チャンニネ……。自業自得ヨ。


ー赤ちゃんは、夫とまた作ればいいのよ。わたしは、まだ若いんだから、これからも子どもを作ることができるはずだし、夫は、まだわたしを愛しているんだから……。

= コンナコトガアッテ、コレカラ先、本当ニ赤チャンヲ作ルコトガデキルノ?アナタハ、マダ夫ガ愛シテクレテイルトデモッテイルノ……。


ー本当にこれからも夫は、わたしを愛してくれるかしら……。

 わたしは、塞いでいく気持ちを断ち切ろうと、

ーいいえ、夫は、わたしを愛していると、強く思うことが大事なのよ。

と、考えてみる。でも、何度も不安が頭をよぎっていくのだった。

 そんな交錯していく気持ちの戦いに疲れ果てたわたしは、いつの間にか寝入ってしまっていた。



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