第4話

 手の幻影に悩まされた日から一週間、何事もなく毎日が過ぎていった。ただ手首の傷がなかなか治らないことを除いては……。そのため毎朝、

ー今日は医者に行ってこよう。

と思うのだが、家事に追われると、つい行きそびれてしまう。

ー大したことはないわ。赤ちゃんに影響があ るわけでもないんだし……。

と、思っていることが、足を向けようとしないことに繋がっているのかもしれない。

 その日も、わたしは家事に追われていた。

 朝から、溜まっていた三日分の洗濯をしていたのだ。

 洗濯槽の中では、水流に泡立てられた洗剤が、白い紫陽花の花を咲かせていた。

 その花を横目で見ながら、休むことなく次の洗濯物の準備をしていると、モーターの音の他に、カチカチと何かを叩く音が聞こえてきた。

 不思議に思って洗濯漕を覗くと、ワイシャツの襟が、吸水口に絡まっている。そのため、袖口のボタンが、水流に流されて、洗濯槽の壁に小刻みに当たり、音を立てていたのだ。

 そこで、絡まっている部分を取り外そうと、洗濯槽の蓋を開け、モーターの音が聞こえなくなるのを待って左手を中に差し入れた。急に流れをせき止められた洗濯水は、高波となって肘近くまでせり上がってくる。すると、流されていたワイシャツ袖口が、まるで蛇のように手首に絡みついてきたかと思うと、数珠繋ぎの小さな手に変化した。しかも、かなり強い力で、わたしを洗濯槽の中に引きずり込むもうとしたのだ。

ーママ……。【自分ダケ幸セニナルツモリナノ】

 慌てたわたしは、すぐに洗濯水から手を引き上げる。一緒に引き上げられた数珠つなぎの手は、雨だれのように洗濯槽の中に次々と落ちていった。そして、再びワイシャツの袖口に変わった。

 そのとたん、スーッと視界が暗くなって、急に息苦しさに襲われた。

 わたしは、立っていられなくなり、崩れるようにその場にしゃがみ込むと、ゆっくりと身体を仰向けに横たえた。

 喉元のボタンをはずし、胸をはだけてみたものの、上手く呼吸できない。

 額から後頭部へと冷たい汗が、止めどなく流れ落ちていくのがわかった。

 気を緩めると、すぐ意識が遠のいていきそうになり、それに抗うように、

「ヒクッ。」

という音を立てて、大きく息を吸い込む。そのおかげで身体に空気を多く取り入れることに成功したからか、気分が少しすっきりしてきた。

 やがて、冷汗でぴったりと背中にくっついているブラウスの肌触りが感じられるようになってくると、体力の方も徐々に戻ってきたように感じはじめた。

ーどうにか、気を失うことは、避けることができたみたい。

 わたしは、もう一度、大きく深呼吸をした。

 それから、自分の体力を確かめるために、上半身に力を入れて、ゆっくりと身体を起こしてみる。視界が、天井から正面の横壁へと徐々に移っていく。同時に貧血も押し寄せたきたことから、そのまま頭を垂れたままにして床に伸びている足下を眺めた。

 深いため息が、わたしの口から漏れ出ていく。わたしの頭の中に、さっきの手の幻影が、思い浮かんできた。

ーまただわ。またあの手が現れた。

 わたしに取り付いて、なかなか離れようとはしてくれない幻影の手に対して、わたしは、恐怖というよりも苛立ちが募っていく。

 というのも、この手が、なにかわたしに災いをもたらすような気がしてならないのだ。特に、今のわたしにとって「幸せ」の象徴である赤ちゃんに、何らかの悪い影響を及ぼすのではないかと思ってしまうからだ。

ー眩暈したのは、大丈夫かしら。赤ちゃんに 何も影響がないといいんだけれど……。

 わたしは、何とかこの状況から抜け出せる手はないものだろうかと思いつつ、左腕の袖口で、額に浮かんだ汗を拭った。

 すると、左手首の傷跡が、それとなく眼に入ってきた。

 傷口は、しっかり塞がっていて、瘡蓋になっている。その瘡蓋を稜線にして、両側の皮膚が腫れ上がり、小さな山脈になっており、裾から裾までの幅は、五ミリ位あって、楕円形の赤痣になっていた。

 その傷跡を見ていると、自分の身体の一部とは思えない、なにか別の物のよう思えてくる。

 ちょうど、一年前に見たアレのように……。


 腰に、鉄の鎖でも巻き付けられたような鈍痛が続く。目の前には、青白い蛍光灯が光っている。辺りには、機械が作動しているのか、うねりのある羽音のような音が、絶え間なく流れ続けいる。

「気がついたのね」

 四十代の半ばを越えた女性の声が聞こえてきた。

 その言葉に反応し、声が聞こえてきた方向に首を傾けると、傍に看護師が立っているのがわかった。彼女が話したらしい。

「手術は、終わったわよ」

 まだぼんやりしていた頭の中に、その言葉が現実として入り込んでくると、麻酔で眠り込む前に見た、柔らかな、それでいて冷たさを感じさせる足枷が、急に思い浮かんできた。

 すぐさま、

ーいや!

という拒否反応が、身体中からわき上がってきた。それは、夢見ががった世界から現実の世界へとわたしを引き戻し、赤ちゃんを堕ろしたという現実を目の前に突きつけてきたからだ。

 堕胎したことが、重苦しくわたしにのしかかり、心を締めつけていく。わたしは、ともすると声をあげてしまいそうになるのを黙って堪えた。

 すると、傍にいた看護師が、

「お腹の赤ちゃんはどうします。持って帰って御供養されますか。それとも、こちらでの処理を望まれますか」

と、苦悩しているわたしのことなど、お構いなしに、事務的な調子で訊ねてきた。

「…………」

 突然の話に、判断がつかなくて、黙っていると、

「一応、本人の意向を聞く事になっているのよね……。ちなみに、付き添いの男の人は、病院の方で始末して下さい、と言って帰ってしまいましたけど……」

と、付け加えてきた。

 その言葉に、わたしは、自分がいっきに奈落へ突き落とされていくのを感じた。

「あの人は、帰ったのですか」

「ええ。用事があるからと言って……。ああ、会計は済まされていったようですよ」

と、返事が帰ってくる。

ー金を支払えば、済むという問題じゃない!

 付き添いをすることは、堕胎する条件だっのだ。あの男に、自分が犯した行為の責任を感じさせたいと思ったからだった。にも関わらず、平然と破って帰っていたことに、驚きとともにあきれ果て、あの男に対する恋心が、陶磁器を壊したときのように、一瞬にして砕け散っていく。

 あんな男を愛してしまった自分の情けなさ、そして命を奪ってしまった赤ちゃんに対する申し訳なさが、怒りと共に止めどなく胸に溢れてきた。

「どうしますか。」

「…………」

 自分が決断したことなので、後悔から泣くことだけはしまいと、強く心に思っていた。ことが済んでも、冷静に対処しようとも思っていた。

 しかし、男が帰ってしまったという仕打は、わたしを、孤独感に陥れ、そこに様々な感情が入り込んで、思いっきり泣き叫びたいと思いこそすれ、何の判断もすることできない。

 言葉が出てこない。

「どうしますか。ちょっとショックだったことは分かるけど、そのままにはしておけないんですよ」

 看護師の言葉には、苛立たしさが感じられた。とはいえ、そのことが、わたしの心を一層波立たせることはなく、それどころか、自分の感情が、クールダウンしていくのが分かった。

ーそう。何だかんだと考えても、このことを決断したのは、自分なのだ。あの男の仕打怨んで、堕胎したことの罪をあの男に押しつけて逃れようとしてもダメなんだ。

自分が決めてしたことなのだから、きちんと自分が引き受けなければならないことな

んだ。

と思うと、

「……任せします。でもその前に、一度その姿を見せてもらえませんか?」

と、言えた。

 済んだことを、いじいじと考えていては、先へは進めない。もう過去には戻れないのだ。また、たとえ過去に戻ったとしても、男が勝手に帰ったこと考えてみれば、男のところへ戻る場所なんてないことは明らかだった。

ー次のステップをもう踏み出している。それを決断したのは、自分なんだ。

 そう考えると、過去は清算するしかないわけで、そう思えたことで、病院で供養してもらうことに決めることができた。

 しかし、我が子の最後の姿だけは、見なければならない。見るのは、自分に課せられた義務だと思った。なぜなら、自分の幸せのために見捨てしまった赤ちゃんに、母親の顔を見せて成仏を祈るのは、わたしがこの赤ちゃんにできる唯一のことだと考えているからだ。

 それに、壊れてしまった愛の欠片を見つめることで、騙されて浮かれていた自分の馬鹿さ加減を、自分自身に思い知らせる良い機会と思った。

ー今度こそ、失敗はしない。もう騙されるものか。わたしは、幸せになるんだ。

 そう自分に誓いながら看護師の方を見ると、看護師は怪訝そうな顔をしている。そこで、わたしが不思議そうに見つめなおしていると、看護師は言っていいものかどうか迷っていたようだったが、

「やめておいた方が、いいと思うんだけど……」

と、わたしの意向を確かめるように言った。

 しかし、わたしが返事をしないで黙っていると、決心が変わらなそうなことを感じとったのか、それ以上は何も言わず部屋から出ていった。

 

 一人残されたわたし。

 わたしの周囲には誰もいない。甘えられる両親も、そしてお互い愛を育んできたと思っていたあの男も……。

 あの男に勧められたとはいえ、今日、中絶したことは、自分が決断したことだ。

ーわたしは、自分の幸せのために、この子を殺したのだ。わたしは、男との愛を引き留めるために新たな生命を宿らせ、今また自分の幸せのためにその命を奪った。

 自分の都合で命を弄んだその贖罪は、この後ずっと先も自分が引受なればならないことなのだということを、閑散としたこの部屋の中で、あらためて実感していた。

 そんなことを考えていると、さっきの看護師が、蓋付きの白い筒型の陶磁器を持ってやって来た。

「あたしは、トラウマになるかもしれないから見ない方がいいと思うんだけどね」

 そう言いながら看護師は、陶磁器をわたしの膝の上に置く。

 蓋を取って覗くと、薄暗さの中に、天井の蛍光灯の光を受けて、赤黒い泥のような水面が見えた。その上に一センチにも満たないピンクの肉片が、その姿を舌先のようにのぞかせていた。更に眼を凝らして注意深く見ると、その肉片には、小さな手のようなものがついていて、今まさに泥沼から這い出ようとしているかのようだった。

ーでも、生命はすでに消えているはずだ。動くことは、無いのだ。そして、それを決断したのは、わたしなんだ……。

 自分の罪の深さが胸を刺し、重苦しい痛みが身体の体の隅々まで広がっていく。その後、スーッと気が遠くなった。


 わたしに、現実が戻ってくる。

ー少し眠ってしまったらしいわ。

 額に手を持ってくると、左手首の傷跡が、ふと眼にとまった。前と同様に、傷口は、周辺の肉を引きつけて、山脈を形作っている。

ーそう。この姿が、あの血の泥沼で喘でいた 胎児の姿を思い起こさせたのだったわ。

と思い出した。だがすぐ、

ー全然似てないわよ。何を考えているの。

と打ち消して、あの時のことは、もう終わったことなのだと自分に言いきかせる。

ーうじうじと考え過ぎないことが大事なんじゃない。今は、目の前の幸せを掴み取っていくことが大切なはずよ。傷口は、明日お医者さんに見てもらうこと。それで、終わり。

 そう決めつけることで、気分を変えるよう努めた。そうすることが、今の幸せを確実に掴むことになり、不幸に終わった過去を消し去ることになると思ったからだ。

 このままでは一層気が滅入ると思ったわたしは、過去の事を思い出す発端となった傷口の応急手当をしておこうと、ゆっくりと身体を起こして立ち上がり、救急箱がある居間の方に移動した。

 救急箱から赤チンキを取り出すと、プラスチックの赤いキャップを外し、半球型のスボンジの頭を、傷口にボンポンと叩き込む。すると、痛みで熱くなっていた手首に、ひんやりとした心地よい冷たさが染み渡ってきた。

 ところが、次の瞬間、電気に触れたような痛みが手首に走った。

ー少し強く叩き過ぎたのかしら。

 見ると、瘡蓋に裂目ができ始めている。

 両側の皮膚を引っ張っていた瘡蓋が、赤チンキの液体に浸されてふやけ、両側の皮膚に引っ張られて裂けた始めたのだ。

 瘡蓋は、徐々に開いていく。その裂け目をじっと見ていると、奥に緑色のビー玉らしきものが見えた。それは、まるで小動物の眼球のように動き、一端わたしを見つけると、その視線はわたしを捉えて離さなくなった。

 得体の知れない恐怖が、わたしを取り囲んでいく。

ー何、何なの?

 そう思ったが、声が出ない。

 足下から恐怖心が、せり上がってくる。

 傷口を見ているから怖いのだと思うものの、わたしは、その緑色の球体から目を離すことができないでいた。目を逸らしたら、その一瞬をとらえて危害を加えてきそうな気がしてならなかったからだ。

 突然、球体の奥から緑色の光が放たれる。その輝きは、心の奥底へと入り込むと、

【自分ダケ、幸セニナルツモリナノ】

【ママハ、ボクヲ殺シタンダヨ】

【自分ダケガ全テナンダネ】

と、抑揚のない機械的な声が聞こえてきて、容赦なくわたしを責め立てる。

 それに対して、

ーわたしが悪いんじゃない。わたしが悪いんじゃない。

と、わたしは、まるで叱られた子どものように、その言葉を反芻することしかできなかった。

【ジブンガシタコトジャナイカ。逃ゲルナンテヒキョウダヨ】

【ズルイトオモワナイノ】

【愛シテイタンジャナイノ】

 いくつもの声が、何度も何度も頭の中に聞こえてくる。

「うるさい!黙ってちょうだい!黙ってて!」

 そう言い返しつつも、わたしは、傷口から眼を逸らせることができないでいた。この苦しさから逃れようとしたのだと思う。わたしは、

ーこの傷口があるから、声が聞こえるんだ。

という思いに駆られた。そこで、その瘡蓋を削り取ってしまえば、声は聞こえなくなると考え、削り取ってしまおうと台所へと駆け込んだ。

「こいつを、削り取ればいいのよ……。そうすれば、静かになるはずだわ。削り取れば……。削り取れば……」

と、そんな言葉を呪文のように言い続けていたわたしは、キッチンシステムの棚から、手探りで包丁を探し当てると、直ぐ手に取って、傷口のある左腕に押しつけた。

 それから、目を閉じ手首の瘡蓋に向かって一気に刃を滑り下ろした。

 次の瞬間、

【ギャアー!】

という叫び声があがり、その声は、わたし自身が一枚の共鳴板になったかのように身体全体に響き渡ると、その場に釘付けにさせられた。

 うっすらと目を開けると、ステンレスの流し台に、血まみれになった肉片が、まるで命を持った一つの生き物のように、ピクピクと動いているのが見える。その動きは「命」を、強く主張しているように見えた。

【タスケテ。死二タクナイ!】

 わたしは、すぐさま水道の蛇口を一杯に開き、強い水流の力をかりて、それを吸水口へと押し流した。

ー流れて!流れて行って!わたしの目の前から消えて!

 その言葉に呼応するように、脳裏に暗闇に落ちてく胎児のイメージが広がっていく。

ー何も見なかった。何も起こらなかった。

 わたしは、その言葉を心の金庫に押し込もうと、何度も繰り返す。そして、全てはわたしの悪い幻想なんだと思い込ませるように努めたのだ。

 ピンポン。

 突然の玄関のベルが鳴った。

「おーい。今帰ったよー」

と夫の声。

ーああ、あなた。今……。

 緊張の糸が解けたらしい。わたしは、血に染まった赤い意識が、真っ白な空間の中へ四散していくのを感じた。

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