第3話
翌日、夫の腕に抱かれて眠ったわたしは、あの幻影に脅えることもなく、さわやかな朝を迎えることができた。
夫を仕事に送り出す頃には、気分は一層晴れやかになっていた。
そこで、それぞれの部屋に残っている塞いだ雰囲気を一新しようと、その日は、早朝から掃除を始めることにしたのだった。
まず始めに、ガラス窓を開け、朝日とともに新鮮な空気を部屋いっぱいに入り込ませた。吹き込んできた風は、隅に蹲っていた埃を一気に舞い上がらせると、それを日光が雲母のようにきらめかせる。
そこを、掃除機で、ギューンという音と共に吸い込ませていくのだ。その時の快感といったら、何とも言い表すことができない。
磨りガラスのように白くくすんでいた絨毯も、掃除機の吸引力で、本来の鮮やかな色を取り戻していき、同時にそれは、自分の気持ちも洗われていく気がした。
ー嫌な思い出も妄想も、全部吸い取ってくれればいいい……。
そう思った時だ。
左手首に電気に触れたような痛みが走り、持っていた掃除機のホースを落としてしまった。
ーどうしたのかしら。
同時に「左手首」というフレーズが、昨日の傷を思い起こさせた。気になりだしたわたしは、恐る恐る昨日貼った傷バンソウコを剥がしてみる。
傷口は塞がっていたものの、全体が腫れて盛り上がり、小さな山脈を形作っている。
指で擦ってみると、さっきのビリリッとした刺激とは違って、今度は、疼くような痛みが内側に走った。
ー大丈夫かしら。一応、消毒はしたんだけれど……。
そこで、左手の指先に力を入れて、手を握ったり開いたりすることを繰り返してみる。手首も軽く回したりしてみた。
けれど、さっきのような痛みは、起こらなかった。
ー少し神経質になりすぎているんだわ。気分を楽に持たなくちゃ。赤ちゃんに悪い影響を与えてしまうじゃない。
そう自分を戒めてみるが、そう思えば思うほど、昨日の事が思い起こされてくる。
そこに、電話の音がした。
受話器を取って、耳に当てると、
「僕だよ」
「あっ。貴方なの」
夫の顔が浮かび上がる。
※ キツネ眼ノ男ノ顔ガ浮カビ上ガル。
「どうしたの」
「いや、今少し休憩時間なものだ から、昨日の事が気になって大丈夫なの」
※「イヤ、子ドモ件ガ気ニナッタモノダカラ。ドウスル気ダ。産ムノカ?」
夫は、昨日私を抱いたことで、赤ちゃんに影響があったのではないかと思い、心配して電話をしてきたのだろう。
※アノ男ハ、ワタシガ産メルハズガナイト承知シテイナガラ、訊ネテキタ。最終決断ヲワタシニサセル事デ、責任逃レヲスルツモリナノダ。
「ええ。大丈夫よ。あなたに添い寝したもらったせいかしら」
※「産マナイワ。産メルワケナイコトヲ貴方ハゴ存ジデショウ」
と、わたしはちょっと茶目っ気を交えて答えた。昨日の事を揶揄して、困らせたくなったからだ。電話の向こうの夫の顔が、赤くなっていくのが、眼に見えるようだった。
※ 二年前リワタシハソウ答エテイタ。静カニ床ノふろあーノ汚レヲ擦リ落トシナガラ……。ソコハ、ソノ男ト何度トナク愛ヲ確カメ合ッタ場所デモアッタ。男ハ、予想シテタトハイエ、ソノ言葉ヲ聞ケテほっトシタヨウダッタ。
「また、後で……」
※「マタ、後デ……」
と電話が切れた。
夫と結婚して、もう一年が経つ。
この縁談は叔母が持ってきた話だった。
※「ソウダヨナ。君ハマダ若インダカラ………。妻子持チノ俺ナンカヨリ、モットイイ男ヲ捕マエルベキダヨ」
と、男は、わたしが故郷で見合いしてきた事を当てこすってきた。
「貴方が奥さんと別れて、わたしと一緒になってくれるのなら、見合いなんてしなかったわ」
※「オイオイ、モチロン始メハソウ思ッタカラ、君トノ関係ヲ持ッタンジャナイカ。君ガ待テナカッタンダロウ。結婚ノ話ル進ンデイルヨウダシ……。モウ結納マデ済マセタソウジャナイカ。オメデタイコトダヨ。ソレニ別レマショウト切リ出シタノハ、君ノ方ダゼ」
「でも、わたしは……」
男は、その言葉の後を遮るように、
※「ソレニ新郎ノ種ジャナイ子ドモノ入ッタオ腹デ、結婚ナンカデキナイゼ」
と言って話題を変え、更に
※「アア、オ金ノコトナラ心配シナクテモイイ。子ドモガデキタノハ俺ノ責任デモアルカラナ。ソノクライノ金ハ、何トカ工面スルヨ」
と付け加えた。
もともと、わたしが妊娠したのは、あの男にわたしとの結婚を決断させるためだった。
当時、その男はわたしの上司であり、毎日の仕事をスマートにこなす姿は、女子職員の間でも話題となっていた人物だったのだ。
そんな男が、わたしだけには気安く声を掛けてくれ、時折、密かに小さなプレゼントもくれたのだ。それどころか、時折私の前で愚痴をこぼし、弱音をを吐く姿も見せてくれたのである。そのため、
ーこの人は、わたしを特別な存在と思ってくれているのかもしれない。
と、思い込んでしまったのだ。
実は後で分かったことだが、男は狙っていた何人かの女子職員にも同じような手口で、餌に掛かるのを待っていたらしい。
しかし、当時のわたしは、最初からあの男に興味を持っていただけに、自分だけに見せてくれた姿と一心に思い込んで、舞い上がってしまっていた。
しかも、男の話の端々から、苦悩の原因が家庭不和によるものであることを聞くにつれ、
ーわたしが、彼を支えてやらなければならない……。
と勝手に思い込んでしまったのだった。
そのため、職場で男から簡単な用事を頼まれると、進んで行うようになってしまっていたし、それがまたわたしの幸せにもなっていた。
そんなことが何回か続くと、男はお礼だと言って、少し高価なプレゼントくれたり、夕飯を誘ってくれたりして、何かにつけてわたしに接近する機会を増やすようになってきた。そして、ついには、会社での休憩時間や昼食時、会社から帰宅までの間など、寸時を惜しむようにしてデートを重ねるようになってしまったのだった。
そうなると深い仲までは、時間がかからなかった。
二人の間が深まるにつれ、男はよく家庭の不満を口にするようになった。更には、その話をすることで、わたしとの時間が、どれだけ素晴らしいものかを訴えかけてくるのだった。そのたびにわたしは、密かな喜びに打ち震え、
ーそんな家庭ならば、早く離婚すればいいのに……。わたしが、貴方を支えてあげるのに……。
と思うのだが、男の家族のこと考えると、不倫している身分で、それは口にしてはいけないことだと自制していた。
しかし、毎回、同じような男の愚痴を聞いていれば、早く離婚すべきだと言いたい気持ちは押さえられなくなる。そこで、二三度、
「そんなに苦しいのなら、離婚を考えてみたら……」
と言うと、
※「ソウダナ。ソレガイイカモシレナイナ」
などと一応は肯定するものの、そのくせ、一向に行動に移そうとはしなかった。そんな優柔不断な態度は、募っていく男への想いと共に、わたしを苛立たせていった。
そして業を煮やしたわたしは、「妊娠する」という強硬手段に打って出たのだった。
最初に、あの男にそのことを告げたときのことだ。
「ここんところ、ないの」
※「エッ!……」
それまで家庭の不満を口にしていた男の言葉が、突然止んだ。
「もしかしたら、わたし赤ちゃんができたのかもしれない」
その話を聞いて男は、少し頬を引きつらせるように笑うと、
※「月ノモノガナイッテ、タダ遅レテイルダケジャナイカナ。ホラ、今マデモソンナコトガアッタジャナイカ」
と、自分を納得させるような調子で言った。
ー喜んでくれるんじゃないの。これであなたは奥さんと別れる理由がだきたのよ。
そう言いいたいのを我慢して、わたしが黙っていると、その気持ちを見越したのか、
※「ネエ、アト一ヶ月待ッテミヨウヨ。モシソレデモだめナラ、一緒ニ医者二診テモライニイコウジャナイカ」
と言って、問題の先送りを図ったのだった。
そこではじめて、男の愚痴は、わたしの恋心を煽る道具だったことに気がついたのだった。
ー離婚は、本意ではなかったのだ。家庭を壊してまで、わたしを愛し、必要としていたわけではなく、不倫という恋をただ玩具のように弄びたかっただけなのと……。
その話があってからというもの、前とは違って、わたしと一緒に帰ることが少なくなり、たとえ一緒に帰っても、わたしに対して話す口数はぐっと減った。
そこで、以前のように男の愚痴を言わせようと、男の家庭のことを話題にすると、防御線を張るように、
「妻とは離婚するつもりだから……」
と言うのだが、その返答は口とは裏腹に、わたしから離れる事ばかり考えているように見えた。
なにより、大事な妊娠のことには、一切触れようとはしないのだった。
こんな男の言動が続けば、嫌でも男の愛が薄れてきていることを感じ取らざるを得ない。そこでわたしは、男と少し離れてみることにした。冷静になって頭を冷やし、この関係を見つめ直したほうがいいと思ったのだ。
男にそのことを話すと、面倒な問題が先送りになると思ったのか、一も二もなく賛成してくれ、得をする有給休暇の取り方まで説明してくれた。
会社に、少し長めの有給休暇届を出すと、久し振りに実家に帰ることにした。
というのも、ここ二年間は、男との事で頭が一杯で、お盆や正月であっても実家に帰っていなかったからだった。一人娘なのに、父母を顧みていなかったことを反省したのもある。
実家に帰ると、父母は、喜んでわたしを迎えてくれた。
突然の帰宅だったことから、おそらく父も母も何かあったのだろうと察したにちがいない。しかし、そのことをあらたまって問い詰めようとはせず、放っておいてくれて、それがありがたかった。
高校生の頃は、両親とも、やいのやいのと細かく口出しをしていたものだったが、今は大人になった娘のプライバシーを気遣ってくれているのだと思った。
一方それだけ親も年取ったのかもしれないと思うと、早く結婚して安心させなければならないと感じ、不倫をしていた自分の行為が、親不孝しているように思えてしかたなかった。
父母の愛情に包まれた久し振りの実家生活は、たちまちのうちに三日間が過ぎ去って行った。
特別差し迫った仕事もなく、携帯電話の電源を切った生活は、ゆったりと時間が流れ、疲れていたわたしの心を解きほぐしていった。
わたしは、次第に穏やかな気持ちへと変わっていくのを実感していった。
一つの心配ごとを残して……。
ー赤ちゃんをどうしよう。
そんな時、隣町に住んでる伯母が、
「わたしの可愛い姪の顔を見に来たわよ」
と言いながらやって来たのだ。
けれど、それは口実で、いつまでも結婚しようとしないわたしのことを心配している両親の気持ちを汲んで、見合い写真を持ってきてくれたのだった。
それが、今の夫だ。
そこには、童顔で、小肥り。おっとりとした顔立ちから、育ちの良さが感じられる、そんな三十代も終わりにさしかかろうとしている男が写っていた。
「プラモデル作りが趣味みたいで、のんびりした方のようよ。それで婚期も遅れたと言っていたわ。貴女に丁度良いんじゃないかしらと思って……」
一見して抜け目なく、人の心を玩び、一緒にいれば常に刺激にさらされるあの男とは、全てにおいて違っているように見えた。
だからこそわたしは、夫との見合いを決断したような気がする。もっと正確に言えば、夫の中に見えていた「健全な幸せ」の中に自分の身を投じたくなったのだ。
実際に見合いをしてみると、多少の緊張感はあったものの、夫との会話には、言葉一つ一つに誠実さや性格の明るさが感じられた。
例えば、
「子どもは三人がいいなー」
「お風呂がゆったりした家に住みたいよね」
など、一緒に築きたいと思っている家庭の話の中に、平凡ではあるけれど、ささやかな夢が感じとれるのだ。
そんな話題で、最初のお見合いの時間は、軽やかに過ぎて行った。
その後、ニ、三度、デートを重ねてみても、夫には「健全な光」があふれているという確信は、揺るぐことはなかった。それどころかますます強まっていき、その光は、わたしを幸せに導く光であることを予感させたのである。
ところが、デートの最中は全く考えないものの、帰ってきてしばらく経つと、その光を求めていこうとしても、そこから弾き出されてしまう自分がいることを思い知らされる時間が訪れるのだった。
原因は、分かっていた。
それは、あの男に魅惑されて、離れがたい想いを押しとどめられないわたしの情念と、いまだあの男の子を宿したままでいるという現実が、光ある道を進もうとしても、その行く手を阻むのだ。
そのたびに、
ーでも、わたしにだって、幸せになる権利があるはずよ。
と思いなおすのだが、立ちこめる暗雲ようにわたしの心に巣くうのだった。
そんな中での、四度目のデート。
その最後に、
「こんな頼りなさそうな僕だけど、良かったら結婚しくれないかなー」
と、プロポーズをされた時、わたしは、今の夫と結婚を決めた。そして、あの男の子どもを堕ろすことを決断したのだった。
そして今、わたしは、幸せなはずだった。
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