第2話

 リビングに行って、救急箱から傷バンソウコを取り出し、手首に貼ってしまうと、もう何もすることがなくなっていた。

 わたしは、ソファにゆったりと身体を横たえた。

 そんなわたしの行動は、端から見ると優雅に見えるかもしれない。

 しかし、頭の中では、二本の記憶のフィルムが、めまぐるしく映写されていたのだ。

  暗い画面が、急に真っ白になったかと思うと、白衣を着込み、四十代も終わり頃の口に笑みを浮かべた医者の顔が浮かび上がる。


 『おめでたですね』

 「じゃあ、やっぱりできていたんですね」

 と夫が、目を輝かせて医者を見つめる。

※「ジャア、ヤッパリデキテイタンデスネ」

  ト細面デ青白イ顔ノ男ガ医者ニ確カメル。


 『ええ。これで貴方もお父さんですよ』

 「そうですか。ねえ、聞いたかい」

  夫は喜びを隠しきれない様子でわたしに歩み寄ってきた。

※「ソウデスカ……」

  男ハソノ言葉ヲ聞イテ悲痛ソウニ顔ヲ歪メルト、詰ルヨウニワタシノ方ヲ振リ向キ、歩ミ寄ッテキタ。

  

  わたしは、嬉しがらなくてはと思い眼と口許を操作する。

  ワタシハ、悲シサト恐怖ヲ押シ潰シテ小サク笑ウ。


 この二つの映像は、再び白い画面の中へ溶け込んでいく。

ーあの手は、あの時の赤ちゃんのだわ。わたしの心と肉体を玩び、オモチャのようにしか扱ってくれなかったあの男の……。

 その思いが、瞼の裏に、ニヒルな笑いをしたあの男の顔が浮かび上っていく。同時に、わたしの中ではあの男に対する憎しみが募っていった。

 憎悪の感情の高まりで、胸が張り裂けそうになったわたしは、その感情を大きな砲弾にして、男の顔に撃ち込んだ。

 すると、男の顔は、数色の絵具を一度に掻き回したようにグニャリと歪み、虹の渦を描いた。その渦は、時計回りに三回転すると、急に逆回転し始め、元に戻るのかと思いきや、男の顔とは別のものを形作っていくように見えた。グニャグニャと混じり合った虹の渦は、原色から自然色へと変化していくと、いくつもの小さな肉団子を築いていき、やがてその一つ一つがブロックを形作ると、組立てパズルのように一カ所に集まりだした。

 そして、最後にできあがったのが、赤ちゃんの顔だった。

 その顔は表情をつくるように動き出すと、小さな口が、金魚のように開き、

「ギャー」

という、耳を突き刺すような嬌声が発せられ、その声は辺り一面に響き渡った。

 わたしは、その声で、目が覚めた。

 どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 周囲を見回すと、夫が床に膝をついて、白い陶器の破片を拾い集めている。

「驚かしちゃったみたいだね。ご飯茶碗を落としちゃったんだよ」

  そう言って夫は、頭を掻きながら、再び破片を拾い集めた。

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