煩悶
@takih
第1話
電気炊飯器が、小さな蒸気機関車のように白い煙を噴き上げている。ガス台の上では、ヤカンが汽笛を鳴らし、味噌汁の鍋の蓋がオモチャのシンバルに似た音を奏でている。
夕飯時に開催されるこれらのシンフォニーを聴きながら、わたしもまたまな板や包丁と共に共演を始めるのが日課になっていた。
トントントンと調子よく、軽やかにキャベツを刻む。その音が、ほどよくキッチン全体に溶け込み始めていくと、そこは自宅の音楽堂へと変わっていくのだった。
そんな食事の支度が、波に乗ってきた時だった。
右腕が、急に重くなった。
見ると、蒼白い小さな手が、子犬のように馴れ馴れしくまとわりついている。しかも、二つ、三つ、四つとその数を増やしては、腕だけではなく、胸や腰など、身体のあちこちを満遍なく触ってくる。
ーまただわ。
前にもこのような目にあったことがあるわたしは、冷静にその手を包丁の持っていない左手で払った。すると、その手はすぐに消えるものの、再び別のところに現れて同じことを繰り返すのだった。まるで、わたしを翻弄することを楽しんでいるかのように……。
撫でまわされるのは嫌だけれど、相手にしていればもっと纏わり付くことになると、前の経験から知っていたわたしは、夕飯作りに勤しむことで無視しよう考えた。
すると、
ーママ、ママ……。【幸セ?】
と、どこからとなく、か細い声が聞こえてきたのだ。しかも、低く途絶える事ないその声は、わたしの耳を捕らえて離そうとはしない。
シンフォニーの音は、いつの間にか消えていて、辺りは、暗闇が押し寄せて来ている。
ドキドキドキと高まる胸の鼓動。
「やめて!」
やっとのことで出すことができた声。
周囲の暗闇が、急速に解凍していき、明るい視界が戻ってくる。同時に、沸騰している鍋の音が、再び耳に入ってくるようになった。
早鐘のように鳴り響く胸の鼓動と間隔の短い息づかいは、まだ収まらないでいる。
ーまた、あの声が聞こえた。
これで、三度目だった。
初めてその声を聞いたのは、駅のコインロッカーに荷物を取りに行った時だった。
夕方近く、産婦人科病院の診察を終えたわたしは、電車で自宅近くの駅に戻ってくると、コインロッカーに預けておいた荷物を取りに行ったのだった。
ハンドバックの中に入れておいた鍵を取り出すと、鍵穴に差し込み回す。すると、消しゴムを捩ったような、ぐにゃりとした感覚が伝わってきた。
ーえっ。
と思ったが、そのまま扉を開き中を覗いて見ると、預けたままの紙袋の姿が見えた。どこもおかしい様子は見られない。
ー気のせい?
と思い、紙袋を引き出しにかかると、なかなかそこに手が届かない。
ー何なの、わたしふらついているのかしら。
そう思って、眼を凝らし、更に奥まで手を伸ばしていくと、ようやくその袋の取っ手に指が届いた。すぐにその取っ手を掴んで引き出そうとすると、その紙袋が思いのほか重い。
ーえっ、買ったのは、下着類だけのはずなんだけど……。
それでも、やっとのことで紙袋を戸口まで引き寄せると、確認するために早速中を覗いてみた。
すると、包装紙に包まれた物など一つも無い。それどころか、テニスボールくらいの小さな手が、いくつも重なって、びっしりとその袋に詰まっていたのだ。しかも、その手の全ての指が、まるでミミズのように蠢いていた。
そして、あの声が聞こえてきたのだ。
ーママ、ママ……。【幸セナノ?】
その声に、わたしは思わず耳を塞ぎ、そこに立ちすくんでしまった。
「どうかしましたか?」
「どうしたの?」
わたしは、無意識に叫び声を上げていたらしい。周囲から、わたしを心配する声が聞こえてきた。
そしてその声は、わたしを現実へと引き戻していく。
「どうしたの?」
と、再びわたしを心配する声が聞こえてきた。
横を見ると、肩に手をかけ、心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる夫がいた。
夫の声だった。わたしの叫び声を聞いて、駆けつけて来てくれたらしい。
周囲を見渡すと、やけに床板が近くに見える。そこから、自分の身体の状態が分かってくると、どうやらわたしは、猫のように背中を丸めてうずくまっていたようだ。
頭を持ち上げてみる。目の前に、床に深く突き刺さった包丁があった。その刃は、蛍光灯の光を反射して、青魚の背のように不気味に光っている。
ーあの手を振り払ったときに、思わず放り投げてしまったんだわ。
そんなことを、そのままの姿勢で、ぼんやりと考えていると、
「おい、気持ちが悪いのか?」
と、夫が更に声を掛けてきた。
「大丈夫よ。ゴキブリが出てきて驚いたの」
わたしの口から、さらりと嘘が出ていく。
茶色に日焼けした肌。もうすぐ三十八歳になるというのに、まだ母親に庇護されているような子どものような顔だち。妬みとか挫折感などは、この人には、無縁だったのではないかと、いつも思ってしまう。
夫としては、優しくて申し分ないのだろうが、一緒に暮らしていると、わたしは、ついこの夫にコンプレックスを抱いてしまう。それどころか、かすかな憎しみさえ持ってしまうのは、わたしの性格がひねくれているからだろうか。
夫は、わたしを気遣って、立ち上がらせようと手を差し伸べてくれたが、わたしは、頭に過ったコンプレックスによってその手を押し戻すと、少し埃のついたスカートを叩きながら弱々しく立ち上がった。
それから、ゆっくりと深呼吸をした。気分を落ち着かせようと思ったからだ。
そのとたん、急に不快感が胸に広がっていき、胃液が食道を駆け上ってきた。思わずわたしは、流し台に覆い被さる。
目の前が、一瞬にして乳白色に変わった。
蛙のような鳴き声と共に、胃の中のものが汲み上げられて、目の前に吐き出されていくと、舌を刺す酸っぱさが口の中いっぱいに広がっていった。
「大丈夫なのか?」
夫が、背中を擦ってくれている。でも、こんな優しさの中にも、わたしは疎ましさを感じてしまうのだ。
その手を避けるようにして、わたしは、再び身を起こした。
「大丈夫よ。あなた」
「君一人の身体じゃないんだから、無理するんじゃないよ」
そう、わたしは今、妊娠をしているのだ。もう四ヶ月目に入ろうとしている。
「ええ……」
そう答えると、わたしは蛇口を開いて水を流した。さっき吐いたものが砂山を崩していくように流れていく。その姿は、わたしの幸せの脆さを象徴しているようにも見えた。
「あなたの言うとおり、少し休むわね」
わたしは、夫の気遣いを無碍にしないようにしようと、笑みを作りながらそう答えた。そこで、あらためて夫の顔を見る。すると夫は、怪訝そうな顔つきをしていた。
ー何か。おかしな事を言ったのかしら……。
と思っていると、
「ねえ、君、手を切ったみたいだよ」
と言われた。
そう言われて、口を拭っていた手を見直してみると、確かに手首に赤い血の跡がついている。
「痛くなかったので気がつかなかったわ。さっきの包丁で切ったのかしら?」
そこでわたしは、その赤い糸を水道の蛇口で洗ってみると、一センチ位の傷が手首に現れた。
「大丈夫かい。早く手当したら……。その間に、僕が夕飯の支度をするからさ」
そう言って夫は、わたしの頬に軽くキスをすると、わたしが着ていたエプロンを脱がして自分が身につけ、キッチンに行き、夕飯の支度を引き継いでくれたのだった。
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