エピローグ

 風に揺られて髪が踊る。冬から春へと移り変わる空気はほんのりと暖かく、かすかに甘い花の香りを含んでいる。地表から伸びる草花も蕾を開かせようとしていた。

 アイビーは眼前の鐘楼を見上げた。荘厳な音色を響かせていた鐘も、今では静寂を保っている。たった数週間前の事なのに、ここを取り囲む露店を巡ったあの日が懐かしい。

「立派な鐘楼ですね」

 足音と共に近づいてきた声に振り返る。「トクス」と名を呼ぶと、彼は小さく右手を上げた。

 数日前に比べて髪が短くなっている。衣服も、上から下まで真っ黒という点は変わらないものの、初めて会った時のようにいたる所が擦り切れたものではなく、一目見ただけで上等な生地を使っていると分かる代物だ。

 光沢のある生地なのか、風に煽られて裾がひるがえるたびにつやつやと輝いた。

「ずいぶん身綺麗になったわね」

「新調しただけですよ」

 そういうあなたも、とトクスがアイビーの髪を指先で軽く梳く。

 現在着用しているワンピースには、花が重なり合ったような模様が散りばめられている。以前までは無地のものばかり着ていたが、最近は柄物をよく身に着けるようになった。

「ヘデラが見立ててくれたのよ。こっちの方が綺麗だからって」

「お似合いですよ」

 お世辞だろうなとは思いつつ、褒められると照れる。赤らんだ頬を誤魔化す様に少しうつむいていると、「この中には入れるんですか?」とトクスが鐘楼を見上げた。

「ええ。こっちに扉があって、そこから。あたしは入ったことないけれど」

「上ってみませんか?」

 拒む理由はなかった。アイビーは〈幻獣〉カラドリウスが降臨した場面を描いた壁面に移動し、目立たないように設置された扉を引く。薄暗い内部には螺旋階段が設けられ、鐘のある場所へと続いていた。

 二人は言葉を交わすことなく、ひたすら階段を上った。目が回りそうになりながら何とか最上階に辿り着き、アイビーはファザ町を、正確にはファザ町だった場所を見下ろした。

「先に、これをお返しします」トクスが何かを差し出してくる。見覚えのある色と柄に、自分が身に着けていたリボンだと気付いた。「付着していた血は全て洗い落としてあります。ありがとうございました」

「そういえば渡したままだったわね」

 早速うなじの辺りで髪を結ぶと、彼は似合うと言って笑ってくれた。

「町を出ていく前に知り合いの夫人がくれたの。今では形見になっちゃったけど」

「……町を破壊したのはヒュドラではないか、とヘデラは言っていましたね」

 瓦礫の山々の中から、見覚えのある緑色の破片を見つける。元の姿を思い出し、胸の辺りが締め付けられるようだった。

「魂の監視」という力を持っていたシェアトだが、監視していた魂が逃げ出した場合のみ凶暴な力を発揮するという特性があったらしい。シェアトが死に、ヒュドラの魂が表に出てきた際、それが発動したのではないか、というのはヘデラの見解だ。

 ヒュドラはシェアトの体内に封じられていた時、彼がシャガに襲われる場面を目撃している。本人と直接の面識はなかったものの、ヘデラから話を聞いていたヒュドラは彼が誰なのか理解したはずだ。

「きっと『こいつは危険だ』『ヘデラ達に近づけるわけにはいかない』『近づかせてはならない』って感じたんでしょう。それが運悪くケルベロスの凶暴性と重なったのね」

 アイビーを迎えに町に現れたシャガと対峙し、敵と判断したヒュドラは力を振るう。しかしヒュドラには人間の体の扱い方と加減が分からず、ケルベロスの力も発動していた。

「住民たちの多くは即死状態だったそうですね。制御されていない力と言うものは恐ろしいと言うほかありません」

「ヒュドラが魂だけで移動していればって、思わないわけじゃないんだけど」

 町の端に並んだ墓標を眺め、アイビーは嘆息交じりに応えた。シェアトや夫人を初めとする町の人々は、あの下で眠っている。

「で、あなたはどうしてここに来たの」辛気臭い気分から一転、アイビーは比較的明るい口調で問いかけた。「ここに戻ったことなんて誰にも言っていなかったんだけど」

「それに関しては追々。まずは兄さんの幽閉が決まったので、その報告から」

 聖都市でヒュドラが崩壊した後、シャガの身柄は拘束された。彼と共にトクスやヘデラ、そしてアイビーも一度王宮へと連れて行かれたのだが、シャガは牢に入れられた、と聞いて以降、顔を見に行ったりはしていなかった。

「その顔、『処刑かと思ってた』って感じですね」

「そうね……〈幻操師〉を何人も殺したんだから、国の判断はそれが妥当かと思って」

「良くも悪くも王族だということと、兄さんは錯乱状態にあったと判断されたんです。それを踏まえて下されたのが王位継承権の剥奪と、生涯幽閉です。決して軽くはありません」

「じゃあ、王位を継承するのは」

「俺ですね」

「じゃあ貴族の娘とか、どこかの国の王女様と結婚することになるのね」

「ゆくゆくは」

 今のところそういう話はありませんが、と彼は頬をかく。

「兄の顔に火傷を負わせたという前科がありますからね。その兄も犯罪者ですし、そんな危ない兄弟のところに嫁がせるわけにはいかないと思われているのではないでしょうか」

「そういえば、ヘデラはまだ王宮にいるのよね」

 一度だけしか魔術を行っていないとはいえ、ヘデラは禁忌に手を染めたのだ。彼女は処刑される覚悟もあったようだが、今のところはっきりとした判断は下されていない。

「牢獄には入れられるかもしれませんが、処刑されることはないかと」

「決して軽い罰ではないけど、重くもないわね」

 五年前の功績があるから、というのが主な理由かもしれないが、シャガやトクスが少なからずかばったりもしたのだろう。彼女が留まっている場所も牢ではなく、立派な庭を見通せる客間だったことからも想像が出来る。

「彼女はまた、世界各地を巡るそうです」

「そうみたいね」王宮に身を置いていた際、アイビーはヘデラの隣室を与えられていた。その間に彼女と会話を重ねたのだが、その時に今後の予定を聞いている。「でもどうせ、頻繁に戻ってくるんでしょうけど」

「兄さんに会いに、ですか。俺もそう思います」

 ようやく互いを理解し合えた二人なのだ。彼女は現在もシャガとの面会を重ね、いつかは彼と共に慰霊の旅を出来ればと考えているらしい。生涯幽閉を下されたシャガに外出の許可が下りるのか不明だし、仮に下りるとしても何年後になるかは分からないが、彼女に諦めるという言葉はないだろう。

「私が旅に出ている間は、アイビーがシャガに会ってくれればより良いんだけど、とも言っていましたけど」

「なんで?」

「あれ、聞いていないんですか?」

 全然、一切。トクスが何を言いたいのかも見当が付かない。アイビーが疑問に首を傾げていると、彼は「目です」と自分のこめかみを指先で軽く叩いた。

「彼女には、アイビーが見ている景色が見えるんだそうです」

「はあ?」

「あなたを作り出すときに、彼女は自分の目を材料としたんでしょう? その影響ではないでしょうか」

「だからあたしがここに来たことも知ってたのね!」

 聖都市でシャガとヒュドラが戦っていた時、アイビーは軍人を運ぼうとするヘデラを手伝おうとした。しかし彼女は「シャガを見ていてくれても構わない」と答えた。アイビーは「助けなんていらない」と解釈していたのだが、あれは「自分の代わりにシャガを見ていてくれ」という意味だったのか。だったら初めからそう言いなさいよ、と思わず呆れてしまう。

 どうも彼女は所々言葉足らずな部分があるようだ。言葉など無くても伝わることもある、というのは幻想だと今回の件で学んだに違いない。旅の間にそのあたりを改善してくれることを願うばかりだ。

「そもそも、なぜこっそり王宮を出たんです?」

「だって退屈だったんだもの!」

 見かけは人間とはいえ、アイビーの本質は〈幻獣〉だ。王宮にいる間、危険性はないかだとか、特殊能力を持っているのではないかだとか、学者や研究者たちに質問攻めにされたのである。

 いい加減うんざりしたのが二日前の事だ。質問も同じような内容のものが多くなってきたし、そろそろ危険性もないと判断されたに違いない、と勝手に結論付け、馬車や徒歩で町まで戻ってきたのだ。

「それに、あなたに言ったら止められるんじゃないかと思って」

「止めませんよ。王都からファザ町まで徒歩で一日半以上かかりますし、一声かけてくれたら俺の馬に乗せましたよ。むしろ黙って出てきたことで多少混乱していますよ、学者たちが」

「うっ」

 それは申し訳ないことをした、と反省はしているが、あたしを拘束した報いを受けているのね、と溜飲が下がる思いもする。

「ああ、それと、ヘデラからもう一つ伝言が」

 ――あなたに移すべきでない記憶を移してしまった事、許してほしいわ。

「移すべきでない記憶?」

「魔術に関する記憶は、アイビーに移すつもりはなかったんだそうです」

 魔術とは一切関係を持たないヘデラとして、彼女はシャガと結ばれたかった。そのためにアイビーが生み出されたのだ。

「しかし馬車の中とかで俺がそれに関する話をしたのをきっかけに、動揺して記憶を漏らしてしまったと」

「別に気にしてないのに」

 アイビーは一笑し、町を見下ろしながら肘をつく。

 知っていた所で〈幻獣〉生成を実行する気もないし広める気もない。それに、魔術の記憶が無ければ分からなかったことも多くある。

「そうだ。これを持ってきたんです」

 彼が懐から何かを取り出す。手には半透明の青く細長い瓶が握られていた。

 その中には、色とりどりの花弁がたっぷりと詰め込まれている。

 きゅ、と蓋を開けると、甘いけれど爽やかな香りが漂った。中身を手に出した彼に、「どうぞ」と勧められた。

「あなたはヘデラと、これを食べたことがあるのよね」シャガと三人で行った、まだ豊穣の女神のために開かれていた頃のお祭りで。アイビーは黄色い花弁を一枚摘まみ、ゆっくりと噛んだ。「その時、ヘデラが青い花弁をトクスに渡した」

「ええ。だからアイビーに花弁を渡された時、心底驚いたんです。あの瞬間、この子はヘデラなんじゃないかって本気で思いましたよ。すぐに違うのではと思い直しましたけど」

「……学術都市で聞かれたこと、改めて答えていいかしら」

 視線を感じて顔を上げると、こちらを見下ろすトクスと目が合った。

「『あなたは誰なんです?』って聞いたでしょ。……あたしは確かにヘデラの記憶だとか、一部だとか持ってる。だけど、それでも『あたしはあたし』よ」

「ええ」ふわりと微笑む彼は、とても優しい顔をしていた。「あなたは見た目も、考え方も、ヘデラによく似ています。けれど、本質ではやはり違う。あなたはあなただ」

 少なくともシェアトと暮らしていた間、アイビーはヘデラとしての記憶を持つことなく暮らしていた。その間に形成された性格や言動は、彼女の影響はほぼ受けていないだろうと自分では思っている。

「あとは、決定的な違いが一つ」

 そう言った彼はもったいぶるように続きを口にしない。アイビーはむっつりと頬を膨らませ、「なんなのよ」と咎めた。

「怒り方ですよ」

「はい?」

「ヘデラは静かに怒ると言いますか、あまりそういった感情を表に出しません。けれどあなたは、ほら、兄さんを引っ叩いたでしょう?」

 あんなことヘデラなら絶対に出来ませんよ、と笑うトクスの説明に、何となく不満が残る。

「なんだか褒められている気がしないんだけど」

「そんなことありません。俺としては静かに怒られるより、感情を表に出してくれた方が嬉しいくらいです。だって分かりやすいですし」

「やっぱり褒められてる気がしないわ!」

 遠回しに子どもっぽいと言われているように感じるのは自分の考え過ぎだろうか。アイビーが不貞腐れる隣で、トクスは嬉しそうに笑っていた。

 西の山に陽が入りかけている。間もなくあたりは夜の装いへと移っていくだろう。

 気が付けば、瓶の中の花弁はすっかり無くなっていた。

「アイビーはこれからどうするんです」

 何気なく尋ねられ、アイビーは唇をすぼめた。

「それが、特に考えていなくて」

 ヘデラの記憶があるとはいえ、帰る場所が無いことに変わりはない。フィアト家の森は五年前の騒動以降、完全に封鎖されたと聞く。焼き払われる日も近いかも知れない。アイビーになる以前の赤子の頃の記憶などあるわけもなく、親の顔も覚えていないし探そうとも考えていない。アイビーとしての唯一の居場所だった町もご覧の有り様だ。

 ヘデラのように慰霊の旅をすることも考えないではなかったが、彼女に「私がそっちに専念するためにあなたがいるんでしょう」と言われ反論できなかった。

「でしたら、俺と一緒に来ますか?」

「トクスと?」

「五年前の一件以来、俺は国内を見て回ることは無かったんです。しかし落ち着いた今、あの頃の爪痕がまだ残っている地域もあるのではないかと思いまして」

「それを自分の眼で確認したいってこと?」

「被害が残っていれば策を練らねばいけませんしね」

 うず、と好奇心が疼いた。

 自分が目にした土地は、この国のほんの一部だ。けれど、世界はもっと広いとヘデラの記憶で知った。その全てを、自分の眼で直接見てみたい。

「じゃあ、お言葉に甘えていいかしら」

「ええ」

 まるで聖都市で行動を共にした時のようだ、とトクスが朗笑する。その横顔を見ながら、アイビーはふと考えた。

 ヘデラが愛していたのはシャガだ。と同時に、トクスにもそれに近い感情を抱いていたのかもしれない。自分の中で、彼に対する興味が芽生えている事を感じている。これがヘデラによって移されたものなのか、それとも自分自身の考えなのか分からないのがもどかしい。

 ひとしきり町の様子を眺めたあと、彼は大きく伸びをした。

「行きましょうか。暗くなってしまいますし」

「そういえば、あなたはどうやってここまで来たの」

「アイビーも乗ったでしょう。あの馬です」

 彼が目線で示した先では彼の愛馬が退屈そうに待機していた。尾を緩慢に揺らし、地面に残った雪をかき分けて草を食んでいる。その奥にはさらに、護衛と思しき男たちの姿も見受けられる。

「あ、降りる前にちょっと」

 螺旋階段へと向かう前に、アイビーは鐘の前に立った。

 椀を逆さにしたような鐘の内部には、木製の棒がぶら下がっている。確かこれを動かせば鳴るのだったな、と棒に繋がれた太い紐を引っ張ってみると、力が足りなかったのか弱々しい音しか鳴らない。

「手伝いますよ」

 アイビーの手に、トクスのそれが重なる。息を合わせてもう一度引っ張ると、どぅうん、と聞き慣れた音が鳴ってくれた。

 ――シェアトや夫人たちに、この音色が届きますように。

 ――また、絶対にここに戻ってくるから。

 祈りと誓いを胸に、アイビーは鐘を鳴らし続けた。

 冬の空に、鐘の音が鳴り響く。


                                     完

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哀惜の幻獣 小野寺かける @kake_hika

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