第20話

 夜空の月を眺めながら、ヘデラは子守唄を口ずさむ。この三日間はずっと小屋に籠りっぱなしで息が詰まっていた。

 気が付けば耳元に寝息がかかっている。その愛らしさに微笑し、肩に寄りかかる頭をそっと撫でてやった。

『幼い頃のお主にそっくりだ』『懐かしい』

 首だけを泉から出し、ヒュドラが顔を寄せてくる。

 ヘデラは腕に抱いた女児の柔らかな髪を指で梳き、胸にわだかまる悲痛を吐き出した。

「私は……なんてことを……」

『今さら何を』『決意したのはお主だ』

 そうだ、最終的に選択したのは自分だ。

 熟考の末、ヘデラが選んだのは、ヒュドラの提案に乗ることだった。

 幸か不幸か、幼い頃に〈幻獣〉生成に必要な素材や手順は一通り聞かされている。実行するのは初めてだったが、女児の姿を見る限り今のところは成功したとみて良さそうだ。

 身勝手さも愚かさも重々承知している。だが、これ以外に方法が思いつかなかったのも事実だ。憎いと言ってもいいほど嫌っていた魔術に手を出すなど、ますますシャガに釣り合わない醜い女になってしまった。乾いた自嘲が唇から零れ落ちる。

『犠牲は最低限に留めたのだろう』『何を気にすることがある』

「最低限とはいえ、ゼロではないんだから。……私は、この子の人生を変えてしまったのよ」

 ずっしりと重い女児を抱えなおす。昨日はもっと軽かったのに、成長が著しい。

 ヘデラが〈幻獣〉を、〈もう一人の自分〉を作るために素材としたのは、先日拾った赤子だった。

〈幻獣〉生成の場合、まずは基本となる素材を用意しなければならない。ヒュドラの際はトカゲと蛇を九匹用意し、それを元に必要と思われる材料を加えていったと聞く。

 ――赤子、女の子。私の一部、目玉を一つ。それから彼が好きだと言った髪を三束。ヒュドラの鱗を一枚、二枚。あとは必要そうなものをかき集めて、煮込んで、煮込んで、煮込み続けて――

 遠い過去に聞いた手順と、父か母の腕に抱かれながら目にした生成現場を思い出しながら、時にはヒュドラの助言を貰いながら三日間。罪悪感に苛まれ、そのたびに考えを振り払う。睡眠をとる余裕さえなく、気が付けば意識が飛んでいることもあった。

 鳥のさえずりに目を覚ました時、材料を煮込んでいた鍋の中に残っていたのは、自分をそのまま幼くしたような容貌の女児だった。

「でも、まだ終わりじゃないわ。完成じゃない」ヘデラは重みを増す女児を地面に下ろした。〈もう一人の自分〉は今のヘデラと同じ姿になるまで成長を続けるのだろう。「私の記憶や人格を持っていなければ、この子は〈私〉とは言えないと思う」

 どうすれば記憶や人格を移せるのだろう。一般的に「記憶や人格は魂に宿る」と言われているし、ヘデラもそれを少し信じている。

 ならば、それに賭けよう。翌日、ヘデラはとある家を訪れていた。緑色の屋根が特徴の、小さな家だ。

 大きく深呼吸をしてから控えめに扉を叩くと、「どちらさま?」と穏やかそうな男の声がした。

「夜分に申し訳ありません。あなたに頼みごとがあって尋ねさせていただきました」

 家主は一瞬訝しんだようだったが、すぐに家に入れてくれた。背負っていた荷物――〈もう一人の自分〉を下ろし、向かいに座った男に自分の名と力を授けてきた〈幻獣〉を告げる。よく見れば、前髪の奥で光る彼の瞳にぼんやりと刻印が浮かんでいた。

 この国に住まう〈幻操師〉の名前や所在地、授かった力についての資料は、一度王宮で目にしたことがある。この男は〈幻獣〉ケルベロスから「魂の監視」という能力を与えられていた。

 それを改めて確認した後、ヘデラは「この中に、〈私〉が入っています」と荷物を指した。

「はい?」

「〈幻獣〉です。私が作り出しました。一つの目的のために」

 シャガの事は「恋人」と言い換え、ヘデラは己の血筋や〈幻獣〉生成に至った経緯を隠すことなく男に話した。初めて会った男に全てを話していいものかと悩んだが、こちらを信用してもらうには包み隠さず話すのが最適だと感じた。魔術行為をしたとして通報されれば、その時はその時だとも思っていた。

「あなたには、私の魂を〈私〉の中に入れていただきたいんです。可能ですか」

「出来なくはないと思いますけど、しかしぼくに魂を抜き出すような力はないですよ」

「構いません。私が、自分から出ます」

 春には国を発ち、また旅を続けるとシャガ達には以前から伝えてある。ヘデラはその後、時機を見計らって命を断とうと考えていた。

「魂が完全にこの世から消えれば、それが死だと言われているでしょう。そうなる前に、あなたには魂を回収して欲しいんです。そして、どれだけの時間がかかるかは分かりませんが、〈私〉が完全に私と……ああもう」自分で言っていても紛らわしい。いっそ名前を付けた方が楽だ。「〈私〉――アイビーが私と同じ記憶や人格を有するようになるまで、この子を預かっていただけませんか。この子が目覚めた時、自分がどうしてここにいるのか分からないはずです。その時は何かしらの理由を付けて保護したと話してやってください」

 男は驚いたように話を聞いていたが、夜が明けた頃にうなずいてくれた。

「お任せください。あなたの魂は、ぼくがしっかりと監視しておきますよ」

 アイビーには〈幻獣〉として動くための魂が、つまり素材となった赤子の魂が入っている。そこへ更にヘデラの魂を入れるのだ。どういう反応が起こるのか予想がつかないが、きっとうまくいくと自分に言い聞かせるしかない。男も「なるようになりますよ」と励ましてくれた。

 報酬についても言葉を交わした後、アイビーを男に預けたまま、森に戻ったヘデラはヒュドラに話を伝えた。

『あの子どもに記憶や人格が移りきった時』『その時はどうするのだ』

「その時はその時ね。そこに辿り着くまでの道筋が成功するかどうかも分からないし」

 九つの首がヘデラを取り囲むようにして下がる。その一つ一つを撫でると、気持ちよさそうにヒュドラは目を閉じた。

『守るべきものが増えた』『お主と、もう一人のお主』『我々の命も、しばらく続きそうだ』

「……そうね」

 守護獣は守るべき血筋が途絶えると同時に滅びる。そういう定めだ。

 だが、生身の人間であり年を取るヘデラと違い、〈幻獣〉であるアイビーは胸に埋め込んだ〈核〉を破壊しない限り半永久的に生き続ける。アイビーにはヘデラの一部が使われているし、アイビーが動き続ける限り、ヒュドラも泉に住み続けるのだろう。

「抜け殻になった私の体は、あなたが守っていてね」

『任せ――』

 任せておけ、と言いかけたヒュドラの唸り声は、鬨の声にかき消された。

「えっ……」

「いたぞ、〈幻獣〉だ!」

 ウオオ、と雄々しい鼓舞に続き、木々の合間から剣と盾を携えた軍人たちが次々と現れる。波のようにヒュドラへと向かっていく彼らに、ヘデラはただ目を丸くしていた。

 どうして、軍がここに。この地には誰も足を踏み入れないはずなのに。動揺の最中、ヒュドラが首の一つを大きく振り乱し、唾を飛ばしながら吠えた。

 ヒュドラを仰ぐと、目の一つに矢が深々と突き刺さっていた。木々の影に弓矢隊が潜んでいるのだろう。首はヘデラに寄り添うべく下にあった。目玉を潰せば視界が少しは遮られると思い、その隙を狙ったに違いない。

「彼女を!」

「えっ、え?」

 誰かの指示に軍人の一人が答え、ヘデラの体は抱きかかえられた。

 まさか、まさか。

 ――私がフィアト家の人間だと、知られてしまったんじゃ。

 さっと顔が青くなる。軍人はヘデラとヒュドラを引き離す様にどんどんと泉から遠ざかり、森を駆けた。離してくれと暴れても、彼が聞き入れてくれる様子はない。

 オオオオオオオオオ、とヒュドラの咆哮が木霊した。

 彼女を傷つけるなら容赦はしない。ヒュドラの嚇怒に、軍人たちが気付いた様子はなかった。



「そのあとの事は、話すまでもないでしょ」

 ヒュドラは連れ去られてしまった守るべき女性を探すために外へと出た。その際に、自分を倒そうと強襲してくる者たちを退けるため、炎と毒を吐いた。ヘデラはそれらに苦しむ民を救うため、血を流して癒し続けた。

 興奮状態のヒュドラは我を失っている。何とか平静にさせようとヒュドラの前に躍り出たヘデラは毒に蝕まれ、やがて倒れた。一方ヒュドラは守るべき存在を自分の手で傷付けたことに気付き、茫然自失となり――やがて体は地中へ、魂はシェアトへと封じ込められた。

「仮死状態になったヘデラの魂は、シェアトの手であたしに入れられた」

 アイビーは自身の胸を撫でた。

 シェアトは初めから全てを知っていたと分かり、アイビーの目に涙が溢れた。目覚めるまでに時間がかかったのは、恐らく元からあった魂とヘデラの魂がせめぎ合っていたからだろう。体に魂が馴染み目を覚ますまで、そして目覚めてからも彼は約束通りしっかりとアイビーを守っていてくれた。

「しかし、なぜヘデラは動いているんです?」唖然とアイビーの話を聞いていた中、我に返ったトクスに問われる。「魂は肉体の動力源でしょう。あなたの中に彼女の魂があるのなら」

「あたしの中に、ヘデラの魂はもうないからよ」

「え?」

「シャガが聖堂に侵入して私を連れ出した時、近くにアイビーがいたでしょう」

 トクスの疑問に答えたのはヘデラだった。

「直前までは問題なく彼女の中で、さっき言ったように記憶と人格を移していたのだけど、あの瞬間に、私の魂は本来の居場所へと引きずり戻されてしまったのよ」

 その理由はアイビーにも分からない。尋ねるように彼女を見ると、「あなたが怒っていたからよ」と返答された。

「私はシャガを愛しているわ。だけど、本来のあなたはシェアトを慕っていた。あの時、久しぶりに彼に会えて嬉しい私の魂と、大事な人を襲った張本人が現れて怒り心頭だったあなたの魂が反発し合ったのよ。私はいわばあなたの体に居候していたようなものだから、結果的に私は元の居場所に強制的に戻されたんだわ。それでも、あなたには私の一部が入っているから、少しずつとはいえ記憶は移せたみたい」

 ほら、私と目が合うたびに頭痛がしていたでしょう、とヘデラは自分の側頭部を指で突いた。

 言われてみればそうだ。彼女と目が合うたびに頭痛に襲われ、治まった頃には過去を思い出している。いや、正確には移されていた、というべきか。

「でも、だったら……なぜぼくに言ってくれなかったんだ!」

 狼狽えた様子のまま、シャガがヘデラの肩に掴みかかる。唇は不規則に震え、瞳には今にも零れ落ちてしまいそうなほど涙が溜まっていた。

「君の苦しみも、悩みも、ぼくは何も気づかなかった! なんで、一人で抱え込んで! ぼくが君を苦しめたようなものじゃないか!」

「ごめんなさい」ヘデラの細い腕がシャガの背に回される。優しく抱き寄せられ、ついに彼の頬に涙が伝った。「あなたが知ったら、きっと私から離れてしまうと思ったんだもの」

 つ、とアイビーの頬にも涙が落ちる。「どうしました」とトクスに声をかけられたが、返事をする余裕もない。

 新たに記憶が流れ込んでくる。まだ幼い頃のヘデラが見たものだろう。何気なく同い年くらいの子どもたちと遊ぼうと近づくと、「関わってはダメ」と避けられる。石を投げられ、蔑みの目を向けられ、孤独な時代を過ごしていた。

 ヘデラは泣いていない。シャガの前での精一杯の強がりだと気付いているのは、アイビーだけだろう。

「君は、馬鹿だなあ」

 シャガがヘデラの背に手を回す。ガラスに触れるかのように、その手つきはひどく愛おしげだった。

「君自身に罪があるわけじゃない。例え君の血を知ったところで、ぼくが嫌うわけない。ぼくが愛しているのは君自身なんだから」

 ――ああ、まるで。

 ――聖堂で、二人きりで語り合っていた時のような光景だ。

 グウ、とヒュドラの首が一斉に唸る。ヘデラには何を言っているのか伝わっているようだが、アイビーには分からない。〈幻獣〉同士で言葉が伝わるとは限らないようだ。

 彼女はシャガから離れると、ヒュドラへと近づいた。

「ありがとう、ずっと私を守っていてくれて。……え? そうね、あなたは多くの人を傷つけてしまったものね」

 中央の首はゆっくりと瞬いた後、ぐっと大きく口を開けた。ヘデラに呼び寄せられたアイビーたちが駆け寄ると、ヒュドラは舌を上げた。その奥で何かが輝いているのが見える。聖堂の窓のように虹色に光る、拳ほどの大きさの石らしき何かだ。まるで心臓が鼓動するかの如く、規則的に明滅を繰り返している。

「これって……ヒュドラの〈核〉?」

 アイビーが尋ねると、ヒュドラが「そうだ」と言うように鳴いた。

「これが?」

 信じられないと言いたげにトクスは思い切り眉を顰める。

「私を守るためとはいえ、この子は大勢の民を傷つけたわ。だから償うって」

〈核〉を破壊すれば、いかなる〈幻獣〉でも死ぬ。ヒュドラはその時を待つかのように、ゆっくりと目を閉じていった。

 ヘデラは最後にもう一度だけヒュドラを撫でると、自分がどうするべきか懊悩している様子のシャガに並んだ。アイビーもまた、トクスを見上げて「お願い」とうなずく。

 無音の中、動いたのはシャガだった。腕を伸ばし、一瞬のうちにヒュドラから〈核〉を奪い去る。そのまま拳を巨大化させ、それを握りつぶす。

 ばきん、と無情な音を誰もが聞き届けた、その直後。

 ヒュドラの鱗にびしびしとひびが奔り、〈核〉があったその場所から崩壊が始まっていく。地中に埋まったままだった胴体にもひびが行きわたったのか、次に体全体が石のように変化を遂げた。

「長い間、ありがとう。ごめんなさい」

 ヘデラの一言を聞き届けたように、ヒュドラの体は砂のように崩れ落ちていった。

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