第19話

「ヘデラはすでに、一度きりのその力を、使ってしまったんじゃないか」


 静寂の中、トクスの声は冷えた空気によく馴染んだ。

 彼は軍人たちを振り返り、「例のものを」と声を投げかけた。その中から若い軍人が歩み出してくる。学術都市でトクスを呼びに来た彼だ。彼は、布で厳重に包まれた長方形の何かを持って、緊張気味にアイビーに渡してきた。

 ありがとう、と礼を言って布を開けていく。入っていたのは、あのボロボロの家系図だ。聖都市へと向かう前、許可を得て学術都市から持ち出してきたのだ。

 アイビーはフィアト家について書かれた頁を開け、シャガに向けて一点を示した。

「ここに、掠れてしまっているけど確かに彼女の名前が書いてあるでしょう。フィアト家は魔術行為を行っていたから十四年前に火刑に処された。もちろんヘデラも例外じゃない」

 しかし、ヘデラは当時から〈幻獣〉フェニックスの力を保有していた。だから体が燃えても、灰から再び蘇った――アイビーとトクスはそう考えたのだ。聖堂の地下で燃やされかけた時、彼女は拒んだのはそのためだ。

 例え燃やされたとしても、自分は二度と蘇らないと。

「だけど、俺にもまだ分からないことがある」

 ヘデラ、と名を呼ばれ、彼女はヒュドラの顎を撫でながら顔だけをトクスに向ける。

「君は五年前に死んだはずだ。なのに、今こうして俺たちの前で動いている。どういうことなんだ」

「死んだ、というのがそもそも間違いだったみたい」さっき分かったんだけどね、というアイビーの一言に、驚愕のあまり周囲が言葉を失う。だが構うことなく、努めて淡々と続けた。「だからああして呼吸もしているし、喋ってもいるじゃない」

「死んで、いな……? で、でも!」

 五年前、彼女の最期を確認したであろう張本人は、目を大きく丸めて声を荒げた。

「ぼくは確かに、ヘデラが動かなくなったのを、この目で」

「眠っていただけなのよ」ヘデラから語られた真実に、シャガの眼はますます大きくなる。「あの時私は、民に血を与え過ぎていた。あなたもよく知っているでしょう、授かった能力を使うには体力を消耗すると。あなたが駆けつけた時、私の体力と血はすでに限界を超えていたのよ。毒も回っていたしね」

「……仮死か?」思案顔だったトクスが、一つの可能性を口にする。察しがいいわね、とヘデラは彼を称賛し、強くうなずいた。「聞いたことがある。見た目では死んでいるように見えるのに、実際は生きている状態の事を指すんだったか」

「じゃ、じゃあ……ヘデラ、どうして今まで、五年間も、眠ったままだったんだ! それに、君に瓜二つの彼女は何者なんだ!」

 シャガは髪をかき乱し、ヘデラに歩み寄る。彼の視線はアイビーとヘデラを交互に凝視し、声はかたかたと震えていた。

 アイビーは隣から降ってくる視線に顔を上げた。トクスもまた、兄と同じ疑問を抱いているらしい。答えてくれ、と縋るようなそれに、アイビーはどう答えればよいのか逡巡した。助けを求めるべくヘデラを見れば、彼女はまるで「あなたの言葉で語りなさい」と言うかのように微笑んでいる。

 説明を丸投げするつもりなのね、ヘデラ。胸中で毒づきつつも、このまま黙っているわけにはいかない。アイビーは息を整えた。

「……彼女は、〈ヘデラ〉としてあなたと結ばれるわけにはいかなかったのよ」

 ――これは私の使命であり償いです。

 かつてヘデラが世界各地を旅していた折に、トクスに尋ねられたことに対しての解答を口にする。

「ヘデラの生家はフィアト家で、魔術師だったって事はさっき言ったでしょう。ヒュドラを生み出したように、フィアト家は何体もの〈幻獣〉を作り出した。多大な犠牲を払って」

 時代の流れと共に魔術は禁忌として厭われたが、一族の多くはその技術に誇りを持っていた。馬車の中でトクスと話していた時、アイビーが呟いたドラゴンの生成方法を初め、魔術は幼子に寝物語として教え込まれていたほどに。ある時には秘密裏に新たな〈幻獣〉を作り出すこともあり、フィアト家は魔術師界隈でも随一の家系となった。

「だけどヘデラは、魔術を受け入れられなかったのよ。そんな中で一族もろとも処刑されて、でも蘇った。……彼女は天命だと思ったのよ」

 これまでの生家の所業を償い、犠牲となった魂を慰める。灰から蘇った当時十二歳の少女は、雲の切れ間から差し込む眩い光を前に強い使命感と誓いを抱いた。

 忌まわしいフィアト家の血を自分の身で絶やし、これまで払われた犠牲者の魂を弔い、償いのために犠牲者の数だけ人々を救おうと。

「じゃあ、兄さんの想いを断ったのは」

「自分に流れる血は罪に塗れた家系の血。対して、シャガは尊ぶべき王族でしょ」

 もちろん誘いは嬉しかったでしょうけどね。そうでしょう、と尋ねるようにヘデラを見遣ると、彼女は無言で首肯した。

「尊い血を、自分の血で穢してはならない。それに誓いだってある。だから悩んだの。悩みぬいて、苦しんで――」



 深い森の中、ヘデラは澄んだ泉をぼんやりと眺めていた。水面に反射する月の光は淡く美しい。いつ見ても変わらないその様に、思わず見惚れてしまう。

 ふあ、と腕に抱いた赤子が大きく欠伸をする。ヘデラの子ではない。森へと来る途中、布にくるまれたまま道の端で泣いていたのだ。周辺には荒々しい足跡が幾つも残っていたし、血痕も見つけた。

 最近他国では奴隷売買が盛んだと聞く。恐らく赤子を連れていた者たちは襲われ、攫われたのだろう。赤子だけが無事だったのは、背の高い草の影に隠されていたからだ。

 湖畔に立つ気配を感じ取ったのか、ざばりと泉の中から巨大な姿が現れる。今は無きヘデラの生家を守るべくして作られた〈幻獣〉ヒュドラだ。

『なんだ、その小さいのは』

 複数の重なり合った声が耳に届く。常人には唸り声にしか聞こえないヒュドラの声だ。

 今の声は中央と右から二番目と、左から三番目の首から発されたものか。九つの首はそれぞれで声の高さが異なっている。長い時間を共に過ごすうち、聞き分けることが出来るようになっていた。

 この森一帯は、かつてフィアト家が所有していたものだ。火を放たれ、焼け焦げ崩れた豪邸ではヘデラも幼少期を過ごし、敵対勢力は泉に身を隠すヒュドラが追い返してくれた。栄華を極めたこの地も、今では「呪われた地」だとか、「処刑された一族の怨念が宿る地」だとして誰も足を踏み入れず、豪邸の跡地にはヘデラが寝泊まりするための簡素な木造の小屋が建つのみだ。

 巨体の大半を泉に沈め、ヒュドラは九つある首の一つをヘデラに近づけてきた。口先から伸びた細い舌が、赤子の頬を拙く舐める。赤子はむずかる様にかすかに眉を寄せた。

「放っておくわけにはいかなかったから、つい」と事情を説明すると、ゆらゆらと揺れていた残りの首があからさまに呆れた目を向けて来た。

『お人好しだな』『聖女と呼ばれるだけのことはある』

「その『聖女』って呼ばれ方、あまり好きじゃないの。私はそんな高潔ではないから」

『そうか』とだけ答えたヒュドラは、順繰りに頭を下げ、赤子の顔を眺めていく。

『赤子は女か』『生まれたばかりだな』『可哀想に』

「私じゃ育てられないもの。確か近くの町に保護院があったはずだから、朝になったら連れて行くわ」

 柔らかな頬を指先で突いてみる。ふにふにと愛らしい感触に、ヘデラは自然と微笑んでいた。

 だが、それがすぐに曇ったことに気付いたのだろう。『どうしたんだ』と尋ねられ、ヘデラは地面に座り込んだ。

「私は、どうすればいいのかしら」

『何を?』

「シャガの事は話したはずだけど、覚えてるかしら」

『ああ、金髪の』『王太子』『民思いで』『容姿端麗だという』『そして正義感がある』

 彼の事は以前から何度も話している。どうやら覚えていたようだ。「その彼よ」と肯定し、ヘデラはため息をついた。

「結婚しないかと言われたわ」

 でも私は、それを受けるわけにはいかない。

 躊躇いながら告げた時の彼の絶望に満ちた顔を思い出し、ヘデラは顔を顰めた。

『なぜ受けてやらない』『悲しんでいただろう』『あまりの悲しみに心を病むかも知れん』

「さっきも言ったでしょう? 私は高潔ではないと。私に流れる血は忌まわしい魔術師の家の血よ。だけど、彼は尊い身の上で、私とは違う。それに……」

 フィアト家は滅びたと思われているのだ。しかし実際は生き残りがいて、しかも王族と関わりを持っていたと露呈すれば、彼や、彼の弟も、魔術師と息子を関わらせたとして国王も立場が危うくなる可能性がある。

『なあヘデラ』十八の瞳に見下ろされ、ヘデラは唇を引き結んだ。『素直に聞かせてほしい』『お主はどうしたいのか』

「……私だって、彼の事が好きだわ。愛してる。だけど、私は普通の女じゃないから」

 それに、彼自身も反対されていると聞く。自分たちの想いを成就するのは、あまりにも難しいことに思えた。

「償いだって、まだ不十分だわ。百年以上も魔術を繰り返してきたんだもの」

 腕に目を落とすと、いつの間にか赤子が目を開けていた。赤子は間近にいたヒュドラに恐れる様子もなく、触れようとしているのか、小さな手を必死に伸ばしている。

 私もこうして、何の穢れもない普通の子どもとして生まれていたら少しは違ったのかしら。力ない独白に、『だったら』とヒュドラが応える。

『もう一人のお主を作るのは』『お主であり、お主でないお主を』

「私じゃない私……?」

 そうだ、と九つの首は一斉にうなずいた。

『お主は自分に流れる血を厭っている』『ならフィアトの血が流れていないお主を生み出せばいい』『お主が旅を続ける間に』『お主の代わりに、この地に残るお主を生み出せばいい』

「ちょ、ちょっと待って」言われている意味が理解できない。ヘデラは慌てて立ち上がり、困惑の中ヒュドラを見上げた。「私を生み出すって……そんな、どういう」

 ことなの、と言いかけて、ハッと気づいた。

 黄金の眼が見下ろす先は、ヘデラの腕の中だ。

『体はお主のものでなくとも、そこに宿る記憶や人格はお主』『そういう存在を作り出せばいいと言った』『成功するかは分からないが』『方法が無いわけではないだろう』

 つまり、ヒュドラは。

「……この子を素材に、〈幻獣〉生成をすればいいって言いたいの?」

 眼前にそびえる〈幻獣〉は声もなくうなずいた。だが、

「そんなこと、私が出来るわけないじゃない!」

 魔術で〈幻獣〉を生み出すには数多の犠牲を必要とする。フィアト家は大義と誇りのもとに〈幻獣〉生成を続け、ヘデラはそれを嫌った。だから償いとして各地を巡っているというのに、私欲で新たな犠牲者を生み出せるわけもなく、魔術に手を染めるわけにもいかない。

『だが、シャガを愛していると』『しかしお主の身では結ばれないと』

「私が彼を突き放せばいいだけの話なのよ。この子が犠牲になる必要なんて!」

 魔術はヘデラが最も厭うものだ。自分の手で新たな犠牲者を生み出すわけにはいかない。

 あう、と赤子の手がヘデラの朱い髪を掴む。あどけない笑顔が、ヘデラを一層思い止まらせた。

『出来るのか?』『お主に、彼を突き放すことが』

 静かな問いに、ヘデラは何も答える事が出来なかった。

『選ぶのはお主だ』

 ざわりと木々の枝が風に揺られて葉を鳴らす。それはまるで、ヘデラの胸中を表しているかのようだった。

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