第18話

「待ち望んでいたよ、ヒュドラ!」

 シャガが痛々しい歓喜の声を上げる。

 ――兄さんは、ヘデラの前でヒュドラを倒そうとしているんです。

 学術都市でトクスに聞いた話を思い出す。シャガは勢いよく地面を蹴り、ふわりと宙を舞った。その姿を認め、ヒュドラは八つの首で唾を飛ばしながら吠える。中央で揺れる一つの首は、何かを咥えているのか口を開こうとしなかった。

「あっははははははははッ! 見ていてくれよヘデラ!」シャガが右腕を振りかぶる。一瞬の間に彼の腕は氷に包まれ、刃のように輝いた。「君を死に追いやった仇を今討ち取ってみせるよ! だから、ねえ、そのあとで改めて聞くよ。ぼくが何も間違っていないだろうってね!」

 あは、と無邪気に笑い、シャガは宙を蹴った。右側の四つの首は動きを止められているのか動かなくなり、その隙にと言わんばかりに彼は残りの首に目を向ける。目にも止まらぬ速さで宙を駆け、ヒュドラに肉薄した。全ての首を止めないのか、止められないのかは定かではない。制限時間があった様に、動きを止められる対象の数も限られているのか。

 シャガが腕を振るう。が、寸前に首の一つが大きく揺れ、間近に迫った彼を叩き落とした。鈍い音と共に体が弾き飛ばされたが、直前に右腕で防御したようだ。氷が散り、キラキラと反射して溶けていく。即座に体勢を整えたシャガは左腕を異様に伸ばし、ヒュドラの首に掴みかかっていた。そのまま腕が縮む勢いを利用して飛びかかり、今度は力任せに殴る。怪力の能力でもあるのか、彼の右手は巨大化していた。

 顎を下から殴られ、ヒュドラの首の一つが大きく揺れる。シャガを引きはがそうと残った首が一斉に口を開け、噛みつこうとしていた。しかし彼は怯むことなく殴りつづけ、寄ってくる首にも同様に力を振るう。

「あんな……一気に能力を使えるだけの力がどこに……」

 負傷して激痛に襲われているのだろう、トクスは歯を食いしばりながらもシャガの姿を追っていた。止めどなく流れ出る血は衣服も染めていく。ふらりとよろめく彼を支えながら、アイビーはリボンを解いた。

「ちょっとだけしゃがんで」だが、彼はアイビーの声など聞こえていないかのようにシャガとヒュドラの攻防に集中している。仕方なく肩を抑え込んで無理やりしゃがませ、出血していると思しき位置にリボンをきつく巻き付ける。少しは止血できるはずだ。

 復活したばかりのヒュドラは、目の前の敵を最優先に排除すべきと判断したらしい。幸いこちらには目も向けていない。

 ばきん、と破壊音がした。シャガに殴られたヒュドラの牙が一つ折れた音だ。宙を舞った牙は回転し、やがて地面に落下してくる。牙だけでもアイビーの身長と変わりない大きさだ、直撃すれば間違いなく命はない。思わずトクスの頭を抱きかかえて身を竦ませたが、牙は離れた場所にどすりと落ちた。

 オオォ、とヒュドラが吠える。見上げると、破壊されたはずの牙が再生していた。シャガは面白そうに笑い、また首に掴みかかった。

 首に掴まり、右腕を再び氷の剣で覆っているシャガを振り払おうとヒュドラが大きく揺れ、三つの首がシャガを剥がそうと怒声を上げる。だが彼は笑みを浮かべたまま首にしがみつき、高笑いと共に首を切り裂こうとした。が、頑丈な鱗に阻まれて思うようにいかず、剣を叩きつけている間に右側の首が動き始める。不利を悟ったのか、シャガは舌打ちと共にヒュドラから距離を取った。

 不意に視界の端で何かが動く。シャガから視線を下ろすと、ヘデラが倒れたままだった軍人たちを引きずっていた。

「手伝うわ」と駆けだして手を伸ばすと、

「あなたはシャガを見ていてくれて構わないのよ」

 ヘデラはこちらを一切見ることなく、きっぱりと告げてくる。カチンと怒りが頂点に達するのに一秒もかからなかった。

「あのねえ、今は〈幻獣〉は向こうに気を取られてるけど、いつこっちに被害が飛んでくるか分からないのよ! この人数を一人で安全な場所に運ぶつもり? 難しいでしょ、手伝わせなさい!」

 アイビーに怒鳴られ、ヘデラが初めて目を丸くする。これ以上この女に構っていられない。アイビーは呻いている軍人に駆け寄り、引きずろうとした。しかし鍛えられた肉体はかなり重く、加えて鎧の重みもある。とても女手で引きずれそうもない。

 手伝うと宣言した手前、「やっぱり無理」とも言えない。こうなれば気を失っているところを叩き起こして、自力で歩いてもらうという手段に切り替えるべきか。悩んでいる暇はない。アイビーが軍人の耳元で声を張り上げようとした時、背後から怒号に似た声が響いた。

 困惑しながら振り返ると、氷壁の一部が溶け落ち、隙間から軍人が続々と侵入してきていた。目の前にそびえるヒュドラと、ただ一人で戦うシャガに一瞬動揺しつつ、すぐに自分たちのすべきことを思い出し、ある者はヒュドラへと突っ込んでいき、ある者は倒れていた仲間を救い出していく。

 ヒュドラも軍の存在に気付いたのだろう。中央を境に右の四つの首が軍を見下ろし、威嚇するように大口を開けた。聞いた話では毒と炎を吐くはずだ。軍人たちは盾を前面に身構えたが、降ってきたのは咆哮だけだった。一方、シャガに相対する左の首は攻防を続けており、首を叩きつけるように攻撃を繰り返していた。

「トクス!」

 なだれ込んでくる軍人たちの隙間から、氷壁に手をついて肩を上下させているトクスの姿を見つけた。流れに逆らいながら彼に駆け寄って声をかけたが、なかなか彼の焦点が合わない。

 げふ、と彼が身を屈めて咳きこむ。ぱたぱたと地面に赤いものが飛び散り、アイビーの手を濡らした。

 ――そういえば、毒が何とかって言っていたような。

 薬を飲んだとは言っていたものの、完全に消し去っていたわけではないのだろう。

 徐々にトクスの体から力が抜けていく。寒さと出血、さらに毒が重なる中、炎を使ったせいで体力に限界が来たようだ。

「しっかりして、トクス!」

「少し退いていて」

 す、と静かに肩を押しのけられる。ヘデラだ。彼女はアイビーを横に退かし、トクスの頬に指を伸ばした。

「こちらを向いて、トクス」

 荒い息をつきながら、指示されるままトクスがヘデラを見る。柔らかく微笑んだヘデラは、細い指で彼の唇を撫でた。何をするつもりなのかと息を飲んで見守っていると、

「? ちょっと!」

 ヘデラは無理やりトクスの唇に人差し指を突っ込み、「舐めなさい」と穏やかに言った。

 トクスは困惑したように目を白黒させていたが、頬がもごもごと動いているところを見ると素直に従っているらしい。何となく見てはいけないような気がしてアイビーが目を逸らしているうちに「終わったわよ」と声がした。

「私がここにいる限り、ヒュドラは毒も炎も吐かない。激しく争うつもりもないでしょう。悪いのだけど、シャガや彼らを止めてくれないかしら」

 今のシャガに、私の声はきっと届かないでしょうから。

 どこか切なげに頼み、ヘデラはトクスを見上げている。

 トクスは何度か目を瞬き、力を確かめるように何度も指を曲げ、驚きの表情でヘデラを見つめ返した。

「……施しを受けたのは初めてだな」

「そういえばあなたを癒したことは無かったわね」

「兄さんや軍を止めて、そのあとの事はどうするつもりだ。何か策があるのか」

「全てを終わらせるだけよ、安心なさい」

 多少手荒になっても構わないから、必ず彼らを止めなさい。ヘデラは微笑みを浮かべたまま続ける。トクスは無言で力強くうなずき、次いでアイビーを見た。

「怪我は、もう大丈夫なの?」

「どうやらそのようです」彼は服の袖で頬に流れていた血を拭う。傷跡は完全に塞がっているようで、新たに血が垂れてくることはない。「ひとまず行ってきます。兄さんを止めた後は任せますよ」

 ごう、とトクスの右腕が炎に包まれる。アイビーがうなずくより先に、彼は駆け出していった。

 ヘデラの隣に並びながらヒュドラに目を向ける。再びシャガに動きを止められているのか、右の首が四つとも微動だにしていない。その隙に軍人たちが剣を片手に特攻しているが跳ね返されている。シャガは氷の剣で切り付けるのを諦めたのか、ひらひらと宙を舞いながら残りの首を躱し、巨大化した左手の拳で力任せに殴りつけていた。

 軍人たちの合間を駆け抜けていたトクスは、ヘデラの指示通り行動しているようだ。分厚い炎の壁が作られ、これ以上の突入を許そうとしない。行く手を阻まれた者は困惑したように立ち止まり、別の道を探そうとするも、そちらも同様に阻まれる。

「……トクスに、何をしたの?」

 アイビーがおずおずと問いかけると、これが答えだと言うようにヘデラはトクスの口に突っ込んでいた指をアイビーの目の前に掲げた。

 彼女の指先には一筋の傷が刻まれていた。とろりと垂れる赤いものは、間違いなく血だ。

「治したのよ。五年前に、倒れた民にそうした様に」

 治した、と胸中で反復した瞬間、アイビーは「あ!」と目を丸くした。

 町で夫人と話していた時からずっと抱いていた違和感が氷解した。初めて五年前の聖女の話を聞いた時から燻っていた、「聖女が分け与えたものは『涙』ではない」ということが。

 聖女が、ヘデラが苦しむ民を癒すために使っていたのは、血液だ。

「邪魔をするなッ!」

 迫りくる軍人やトクスの存在に気付いたのだろう。シャガが憤怒の声を上げると同時にばきばきと地面が凍る。足を氷漬けにされた軍人たちは悲鳴を漏らしたが、直後に拘束が解け、お互いに顔を見合わせていた。

「彼女の邪魔をしているのは他ならぬ兄さんだ、分からないのか!」

 トクスの激昂に合わせ、炎が氷の上を這っていく。氷は瞬く間に融け、やがて炎は壁となってシャガとヒュドラを囲い込んだ。

「やっぱりお前はぼくの邪魔をするんだな! あとで絶対に殺してやる!」

 シャガが吐き出す怨嗟には、疲れが混じり始めている。瞳には露骨に炎に対する恐怖が浮かび、トクスは動じることなく、宙に浮かぶ兄を引き摺り下ろそうと右腕を突き上げた。蛇のように巻き付いていた炎は音もなくシャガに向かって飛びかかり、脚に絡みつく寸前で彼は後ろに飛び退る。

 ヒュドラはトクスを新たな敵と判断したのか、低い唸り声を上げた。

「そろそろかしら」

 自答するようにうなずいたヘデラが、静かに足を踏み出した。アイビーの手を握りながら。

「えっ、あたしも?」

「だって説明しなければいけないから」

「何を! あたしだってあなたに聞かなきゃいけないことがたくさんあるのに!」

 それに「策がある」とは言っていたが、彼女は一切説明してくれていない。そんな状況で連れて行かれたところで、アイビーに出来る事は何もないように思われた。

 ヘデラはきょとんと首を傾げ、「てっきり全て共有できたと思っていたのだけれど、まだ足りなかったかしら」とアイビーの頭を掴んだ。

「え? ちょ、ちょっと、何を」

「時間がないわ。手っ取り早く済ませましょう」

 こつん、とお互いの額がぶつかる。その痛みこそなかったが、アイビーはまた激しい頭痛に襲われていた。あまりの痛みに膝が震え、まともに立っていられない。ヘデラに支えられてはいるものの、手を離されれば地面に倒れ込みそうだ。

 やがてヘデラが顔と手を離す。アイビーは口を開けたまま荒い息を繰り返し、ヘデラに縋りついた。背中を撫でてきた彼女は「これで大丈夫でしょう」と囁く。

「大丈夫って、なに、が――」

 抗議すべくヘデラを睨んだアイビーは、頭痛のあとに残った新たな記憶に目を見開いた。

 ――ああ、これは。

 靄にかかって不鮮明だった部分が、何もかも明らかになっている。

「これは……この記憶は……」

「これで全部移せたかしら」

 どこか満足げに目を細め、ヘデラはヒュドラに目を向けた。

 炎の勢いは衰え始めている。軍人たちは再び攻撃を仕掛けるべきか悩んでいるようだ。

「行きましょうか」

「……ええ」

 ヘデラに手を引かれるまま、アイビーは歩き出した。

 軍人たちの合間を縫って歩く間に、何度も「何をしている」「危ないから止めろ」と制止する声が聞こえた。しかし二人が足を止めることは無い。

 いくつもの炎の壁を越え、ついに二人はトクスとヒュドラの間に割り込んだ。

「ヘデラ!」

 ヒュドラの頭に飛びかかりかけていたシャガが腕を止める。彼を止めようと炎を鞭のように操っていたトクスは好機と見たのか、シャガの脚に炎をからめ、無理やりに下へ引っ張った。

 地面に叩きつけられる寸前にトクスが勢いを弱め、シャガは後頭部を軽く打ち付けるだけで済んだようだった。しばらく何が起こったのか理解するように何度も目を瞬いていたが、自分を見下ろす視線にようやく状況を把握できたらしい。唇が醜く歪んだ。

「トクス、お前、」

「その話はあとで思う存分して頂戴」

 シャガの瞋恚の声を、アイビーが冷然と遮る。

 ヒュドラは九つの首でこちらを見下ろしてくる。やがてアイビーを認めた中央の首が、緩やかに口を近づけて来た。何をするつもりだろうと黙っていると、これまで閉じられていた口から、地面に何かが下ろされた。

 唾液まみれになっているそれは、成人男性だった。仰向けに寝かされた男性の胸には、無残な傷が残されている。

「シェアト!」

 アイビーは男性――シェアトのそばにしゃがみ込み、声を震わせた。抱き起こした体は冷たく、固く閉じられたまぶたが開くことは無い。だらりと投げ出された手には、無数の傷跡が残っていた。アイビーは彼を強く抱きしめ、無言で涙を流した。

 ヒュドラの巨体を認めた時には気が付いていた。

 シェアトはもう、死んでしまったのだと。

「少しだけ失礼するわね」

 ヘデラが隣に座り込み、シェアトの顔に手を伸ばす。彼女は細い指で、彼の右目のまぶたをそっと持ち上げた。

「これって……」

 アイビーはシェアトの瞳を覗き込む。

 光を失った空色の瞳に、絡み合った犬の三つの頭が、漂うようにして刻まれていた。

「〈幻獣〉ケルベロスの、刻印」

 彼は本当に〈幻操師〉だったのだ。

 しかし、なぜヒュドラはシェアトを咥えていたのだろう。

「ヒュドラは……シェアトの体を使って、ここまで来たの?」

 震える声で問いかけると、ゆらりとヒュドラの首が上下に揺れる。「そうだ」と言っているかのようだった。

「でも、なぜ?」次に疑問を投げかけたのはトクスだった。「檻が……彼が死んで自由になったというのなら、魂だけでここへ来ることだって出来たはずなのに」

「ヒュドラは彼の中で、アイビーとの生活を楽しんでいたからじゃないかしら」

 それに答えたのはヘデラだった。彼女は首をもたげていたヒュドラの口先を優しく撫で、「違う?」と黄金の眼を見上げる。

「トクスの言う通り、魂だけで来ることも出来た。だけど、この子は優しいからそれを選ばなかったのよ」

「……つまり、どういうことなの」

 はっきり言ったらどうなんだと目を眇めると、ヒュドラが何かを訴えるようにヘデラに唸る。ひとしきり聞いた後、彼女はシェアトを見つめた。

「彼は死の間際、アイビーとお祭りに行けなかったことを悔いていたそうよ」

 その願いをこの子なりに叶えようと、彼の体を使ってここまで来たんだわ。

 答えを聞き、アイビーの両目に涙が溜まる。うつむいた途端にそれは零れ、シェアトの肌を濡らしていった。

 ――最期の瞬間に、そんなことを考えていたなんて。

 顔を上げると、こちらに視線を注ぐヒュドラと目が合った。まるで愛おしいものを見るかのような目つきに、アイビーの頬が自然と緩む。

「彼をここまで連れてきてくれて、ありがとう」

 アイビーの言葉に、ヒュドラはゆっくりと目を閉じて応えた。

「おいおいおいおい! 何なんだよ、何がどうなってるんだ!」

 よろめきながら立ち上がり、状況から取り残されていたシャガが声を張り上げる。取り囲むように控えていた軍人たちも我に返ったのか、状況を理解しようと互いに目を合わせ、ひそひそと言葉を交わし合った。

 説明しろよ、とシャガは弟に掴みかかる。あまりの剣幕にトクスは一瞬慄いていたが、アイビーと目を合わせると決意した様に目を閉じた。

「さっき、アイビーが彼女に聞いただろ。『フェニックスの不死は、一度しか使えないんじゃない?』と。……学術都市で少し調べたんだ、彼女の事を。ヘデラの生家は、十四年前に一族全員が魔術師だとして処刑されたんだ」

 アイビーは馬車に乗る前、町で見かけた男たちが話していたことを思い返していた。

 ――血を残しちゃなんねえとかで火炙りなんだろ。


「ヘデラはすでに、一度きりのその力を、使ってしまったんじゃないか」

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