第2話 嘔吐

 初めに知覚が捉えたのは頬の冷感、次に鈍い頭痛と悪心だった。とても瞼を動かす気にはなれずしばらく蠢いていたが、頬の冷感、いや身体全体で受け止めているひんやりとした床の冷気は身に覚えがなく、わずかに目を開いた。


 灰色の床。コンクリートだろうか。我が家はフローリングではなかったか。その奥には黒鉄の棒が等間隔で並んでいる。我が家ではないことは把握した。何やらただごとではない事態の渦中に投げ込まれていることも把握した。しかし口腔内に広がる苦味と脈打つ頭痛が身体を床に縛り付ける。


 せめてもの抵抗に寝返りをうつ。灰色の壁。仰げば小窓から日が差し込んでいる。柔らかな白っぽい光だ、きっと朝日だろう。小窓さえも黒鉄の棒がスリットを形成している。


 滑らかさが失われた茫漠たる意識でまず思考したのは、自分の知っている留置所とは様子が異なるということだった。数年前ちょっとした公務執行妨害で手錠をかけられた時、このような黒鉄の棒は見当たらなかった。様式がまるで異なるのだ。拘置所でもない。刑務所とも違う。こんなに床はザラザラしていなかった。


 残る可能性はただ一つ。いま私は法の下に身体を収容されているのではないのかもしれない。拉致の二文字が脳裏をよぎる。


 この時点ではまだ床に臥していたし、不安や恐怖よりも胃から痙攣のように込み上げる悪心と格闘していた。いや比喩ではなく実際に噴門は痙攣していたのだろう。しかし寝返りにより把握した独房の狭さと殺風景さに、嘔吐のやりどころを悩みながら深く呼吸して噴門の震えを鎮めんと試みていた。


 努力空しく、粘性の高そうな流体が喉まで上がってきた。ついに立ち上がらねばなるまい。部屋の隅に吐くとして、入り口側か奥かで悩む。片付ける手間を節約できるのはどちらだろうか。いや、もし拉致だったとして入り口側に吐くと脱出の邪魔になりはしないか。それよりも一先ずはいらぬ刺激を与えて暴行の動機を作る方がまずい。もうそこまで来ている、時間がない。


 頭痛で削がれきってもうわずかしか残っていない気力を奮い立たせ勢いよく立ち上がり、結局部屋の奥側の隅に手をつき、鳩尾の裏側辺りから吐瀉物を自由落下させる。まさに胃を裏返しにめくって自由落下させているのだ。パクつく噴門から先は何ら嘔吐に寄与していない。酸っぱくて苦い味覚とイガイガした痛覚を残すのみだ。


 洋式便器の水溜りに嘔吐するのとは訳が違う。裸足で立っている固い床に吐くのだから足の甲や脛のあたりに飛沫が跳ね、即座に酸味の効いた悪臭も立ち上ってくる。足の指の隙間にも侵入してきた。それら諸々のストレッサーに反応して、脳髄が胃に信号を送った。忠実なる胃は素早く噴門を痙攣させ、半固形物の混じった黄土色の流体を床に鎮座するその同胞目がけて押し出した。苦くて、たまらない。自然と涙も出てくる。


 もはや脱出云々など思考の片隅にもなく、繰り返し込み上げては吐いた。最初の方はペースト状だったが徐々に粘性は失われていき、ついにはドロドロした唾液しか出てこなくなった。


 身体の緊急事態に、「アルコールを分解するためには水が必要なのだから一刻も早く500mLほど摂取してアセトアルデヒドの血中濃度を薄めねばならぬ」と妙に生化学的な意志が生じ、鉄格子の外の何者かに水を乞うか、いやここで水を乞うことでいらぬ刺激を与えはしないかと逡巡した。大人しく息を潜めて機を伺うのが最善だろうが、そうも言っていられない。決心を固め、声を絞り出す。


「誰か、誰か水を。水をください」


 亡霊が枕元でぼやくような弱々しい声に自分で驚いた。叫んだつもりだったのだ。


 今更ながら鉄格子に縋りついて檻の外を見れば、真っ直ぐ石肌の廊下の先に金属製の物々しい扉があるばかり。これではまるで懲罰房か座敷牢ではないか。


 そう思った矢先、こつこつとブーツのような足音が近づき、扉の向こう側からガチャリと錠を外すような鈍い金属音が響いた。

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酒飲みすぎて異世界転生したら捕まってた @RandomBoat

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