あかるい森、怪物

鹿紙 路

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 ヒトムが片耳を削がれ、髪を切られてこの寺に入ったのは六歳のときだった。

 それ以前のことはよく覚えていない。入ってから何年経ったかも覚えていない。年に一度の「儀式」の回数で年数を知ることはできるが、彼女はそんなことはしない。

 なぜなら数えてはならないからだ。

 考えてはならないからだ。

「就寝です」

 ミツ〈オバ〉の甲高い声が響く。

 房での夜は早い。日の入りと共にみな二段ベッドに潜りこむ。黴臭い毛布としけった薄い上掛け一枚ずつでは、あまりに寒い。二段ベッドの下段のヒトムは、あかぎれのある両手をこすり合わせ、自分の足を抱き寄せ、固く目を閉じて眠ろうとした。

 房には三十九人の少女が横たわっている。蝋燭を持ち、二十台のベッドそれぞれを顔を確認しながら見回った後、〈オバ〉が立ち去り、一部の少女たちがひそひそ話を始める。今日の寒さや仕事のきつさ、〈オバ〉たちの悪口など、他愛のないものがほとんどだ。しかし、その中でヒトムは、鋭さのこもった声を聞き逃さなかった。

「ヨツトは」「ヨツトはどこに行ったの」「なぜ房に帰ってこないの」「なぜオバたちは何も言わないの」

 ヒトムは目を開き、小さな高窓から差し込むわずかな残照を頼りに、隣のベッドを見た。闇の中で、フタヤとミツニがベッドの上下で話しているのが、ぼんやりと黒く浮かび上がっている。

「ヨツトは出て行ったんだ」フタヤとミツニが、ぱっとこちらを見る。ヒトムは続けた。「ヨツトは〈外〉に出て行ったんだよ」

「でも」「今年の儀式は一月前に終わったはずじゃ」

 彼女たちはヒトムよりこの寺での日が浅い。だから知らないのだ。

「儀式以外でも、体調を崩した人なんかは、〈外〉に出て行くことがあるんだ」

「そうなの」フタヤは押し殺した声で驚きの声を上げた。「じゃあ、ヨツトは幸運ね」ミツニはにっこりと笑った。「私も早く出て行きたい」「うん。もういや、水仕事も砂絵も。今日なんか……」

 二人の会話は愚痴に変わり、まもなく消えた。疲れているのに床について長々と喋り続ける者はいない。それでも喋るのは、それが唯一の楽しみだからだ。ヒトムも一日の終わりにヨツトと喋るのを楽しみにしていた。

(でももういない)

 思い出すのは彼女の後ろすがた。数日前から風邪をこじらせてひどく苦しそうだった。それなのに森を歩いていた。他の少女が仕事に出た昼は、房で寝ているはずなのに。

彼女を半ば抱え込むようにして連れて行ったのはヨツ〈オバ〉だ。ヨツオバは力が強い。いかつい体、太い腕、低いガラガラ声。首の前部に小さな瘤がある。奇形はここでは珍しくないが、ヨツオバは少女たちに特に恐れられていた。彼女はすぐにひどく怒り、殴ったからだ。

 葉を落とした木々が、太古の生物の骨の化石のように、白茶けた幹と枝だけで連なっている。その下で薪を拾っていたヒトムは、房から池の方へのびる道を歩いていく二人を、じっと見ていた。ヨツトは絶えず咳をし、熱で顔が紅潮していた。とても歩ける状態ではない。それでもヨツトは歩み去った。背中は小さくて、ヨツオバの体に覆われてほとんど見えなかった。病気になると、多くは数日で元通りになるが、一部の人間はああやって連れ出される。病気が重いほど連れ出される確率が高くなるが、しばしば軽くても連れ出される。

 どこに連れ出されるのか。

 〈池〉に。

 あの池の周りだけ、一年中木は葉を落とさない。旺盛に下草が生え、広葉樹の青々とした柔らかい葉が、池の大半を天井のように覆うが、木漏れ日は冬の一期間を除いてとても明るい。その暗い冬の一期間の、ちょうど真ん中に当たる日に行われるのが、〈儀式〉だ。その日の日の入り、太陽はもっとも長い眠りに就く。同時に、寺の少女たちの中から選ばれた数人が、池の上にかけられた舞台で舞う、という。

 ヒトムはじかに見たことはない。オバに聞いただけだ。

 曰く、池の底に棲むのは、地に潜った太陽である。一年間地を照らし続け、毎日の夜の休息では足りないほど疲れ果てた太陽は、そのまま永遠に眠ろうとする。それを慰め、翌朝目覚めて天に昇らせるため、少女たちは舞う、という。そのとき太陽は、目覚めの糧に、少女の肉体を要求する。舞の終わりに、彼女たちは池に飛び込む。水の中で息はできないが、錘を付けられたせいで急速に沈んでいった先では、疲れ果てて黒ずんだ太陽が、その球を半分に割って出迎え、少女を取り込んで元に戻る。太陽の中は空洞になっていて、息ができ、暖かな光に包まれている。太陽は地中を進み、日の昇る地、すなわち森の〈外〉で少女たちを下ろし、天に昇る、という。

 ヨツトは儀式のない日に、太陽の糧となったのだ。昼間のうちに連れ出されたのは潔斎があるためで、舞も舞わず、池に飛び込んだのだろう。儀式の日以外ではそうなるのだと、確かヨツト自身から聞いたのだ。彼女のほうがここでの生活が長かったから、いろいろなことを知っていて、夜のおしゃべりのときに教えてもらった。

 彼女はすこし低くて艶のある、ずっと聴いていたいような声で話し、こちらも思わず笑んでしまうような顔で微笑んだ。

(どうして行ってしまったんだろう)

 太陽が求めたから。オバたちにはその能力がある。毎晩四人のうち一人が池に赴き、ほとりにしゃがみこんで、太陽の意思を訊く。

 ヒトムは黒々とした上を見上げた。二段ベッドの上段には、昨日までヨツトが眠っていた。咳をする音、身じろぎして起こる衣擦れの音が聞こえていた。今は無音があるだけだ。

 ヒトムはひとつ息をついた。

 手足の先がまったく温まらなかった。

 冬が深まって寒くなると、上段からヨツトがひょこっと頭を出して、するりとこちらの夜具に潜りこみ、一緒に眠った。

 ヨツトの寝息を聞き、手足をくっつけて、ようやく温まったものだ。一緒に眠ると、温かくて、安堵して、無心になって、自分はこの時間があれば生きて行けるのだと感じた。

 どんなに「儀式」も「池」も「外」も「オバ」も恐ろしくても。考えてはいけないと思いながら考えてしまい、不安で押しつぶされそうになっても。

(さむい……)

 いつのまにか眠っていた。

 やがて、手足が温かさに包まれた。ヒトムは無意識に手を伸ばし、いるはずのない少女の体を確かめようとした。すると、ありえないことに、柔らかな人間の肌の感触が返ってくる。

 自分は夢を見ている。

 そう思いながらも、反射的な衝動にしたがって、幻想の輪郭をたどり、背中らしき部分に手をあて、ぐっと近づいた。自分が引きよせたのか。……相手に引きよせられたのか。

 ――ヨツト。

 どくん、と心臓が鳴り、感触だけのわけのわからないものを、我を忘れて抱きしめた。それに応えたように、自分の背中にも腕が回され、きつく抱きしめ返される。

(なんだ、これは)

 胸の苦しさに思わず息を吐いた。その口を、かさついた唇にふさがれる。恐慌を来しながら、ヒトムは体の中心に熱が集まるのを感じた。ヨツトはこんなことはしない。それでも動けない。

 肩を倒されてのしかかられる。自分のものではない骨ばった指が、背中から腰にすべり、帯をたどって腹にある結び目を素早く解いた。膝丈の寝巻の裾のしたに入り、腿を這いのぼられる。

 目をあけた。

 暗闇の中、すぐ近くで他人の目が見ひらかれていた。口を大きく開けて悲鳴を上げようとして、今度は手でふさがれた。めちゃくちゃに暴れて唸り声を上げようとするヒトムを、その人間は起き上がってこともなげに押さえつける。にっこりと微笑んで見下ろし、ささやいた。

「黙らないと殴るわよ」

 音量はほとんどないのに、脳を直接突き抜けるような、強い響きだ。ヒトムは凍りついた。聞き覚えのない声だった。

 その人間は、おとなしくなったヒトムを押さえつけるのをやめ、笑みを浮かべたままベッドの上に座った。ヒトムは目が慣れてくるのを待って、目の前の人物の正体を見極めようと目を凝らした。長い髪。体の輪郭線は、相手がまだ少女であることを示していた。顔は、光量のせいで口と目しか良くわからない。

「あなた誰」

「黙れっていってるでしょう」少女は再びヒトムの傍らに横たわり、顔を近づけて口と目と小さな声だけで恫喝した。「私はヨツトよ」

「そんなばかな――!」

ぎゅ、と太腿をつねられた。ヒトムは必死に悲鳴をもらすまいとする。声を出してしまえば、どんな暴力を振るわれるかわからない。ヨツオバの無差別な暴力を思い出して鳥肌が立った。

「……私はヨツトなの」

 少女は噛んで含めるようにいう。ヒトムは歯を食いしばって痛みに耐えながら、この少女はヨツトなのだと悟った。

 今までいたヨツトはいなくなり、新たな人間が「ヨツト」になる。ヒトムが「ヒトム」になったように。この房の定員は常に四十人。

それ以上でも、以下でもない。

 少女――ヨツトは、隅に押しのけられていた毛布と上掛けを引っ張り、自分とヒトムを包んだ。目を細め、口の両端を下げる。

「つねったりしてごめん」

ヒトムは呆然とした。何を言っているのだ。あれだけ人を怖がらせ、脅しておいて。

ヨツトはヒトムの目を覗きこんだ。

「一緒に寝てもいい? ここ、寒くて」

 ヒトムは必死で首を横に振った。またあんなことをされるのは御免だ。鳥肌は立ったままだった。押し殺した声で、

「出て行ってよ。はやく」

 そういうと、意外にあっさりとヨツトは身を起こした。

「わかったわよ」いいながら、ほっとしかけていたヒトムの耳に手を置いた。ヒトムがそれを払いのける暇もなく、ヨツトは相手のこめかみに口づけた。「じゃあね」 

 音も立てずにあっという間に身を翻して、ベッドの上段に上っていった。

 ヒトムは思い切り怒鳴りたい気持ちと全力で闘いながら、あまりの怒りでまた全身が冷えるのを感じた。その中で、ヨツトが最後に触れたこめかみだけが、不快な温かさを保っていた。


「起床です」

 ヨツオバの低い声が、大きく房に響き渡った。バンバンと窓板を開け放って行く。白く温かみの少ない光が、房の中に突き刺さる。

 少女たちは起き上がり、白い息を吐きながら手早く仕事着に着替え、木靴を履く。ヒトムも着替えを済ませてからベッドから出ようと身を乗り出した。

 はしごを降りてくる裸の足が見えた。

 ヒトムはぎくりとし、急いで靴を履いて逃げるようにベッドを離れた。振り返ると、少女は後ろ向きではしごを降りきるところだった。

 長い髪は珍しい。寺に入るときに全員が髪を短く切られ、その後三月に一度は理髪されるからだ。頭と肩と背中の半ばまでを覆い隠した髪。他の少女たちと同じ、けば立った膝丈の貫頭衣に袖を付けたものを身に付けている。身をかがませ、下段のベッドの下から木靴を引きずり出して履いた。

ヒトムは恐怖ではなく好奇心に負け、その様子をじっと見ていた。ヨツトがこちらを向いた。櫛を何日も入れていないような絡み合った髪の下の顔面は、たくさんのイボに覆われていた。

「次はどうすればいいの」

 ヒトムと目が合うなり微笑み、ヨツトは訊いた。

「どうって……。井戸に行って、顔を洗うんだ」

 なぜ自分は答えているんだろうと思いながら、ヒトムはヨツトを案内した。     

 

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あかるい森、怪物 鹿紙 路 @michishikagami

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