第7話 帰還
──暗い。狭い。ここは──……
「クローゼット……」
頬に当たる、床の冷たい感触。
過呼吸で倒れていたらしい、ぼくの心臓はばくばくと脈動を鳴らし、はひゅ、はひゅ、と喉が掠れた音を立てていた。
現実を認識するのに数秒かかった。まばたきが三度。
(ああ……そうだ、ぼくは、フラッシュバックを……)
「──ッ、姉さん……⁉」
飛び起きて、クローゼットを跳ね開けた。
外へ転がり出た瞬間、こつん、と爪先になにかが当たる。銀色の催涙スプレー。
咄嗟にそれを拾うと、ぼくはベランダへと飛び出していた。
ベランダには誰もいない。けれど、手すりの端に、姉さんの白い指先が見えた。
しがみついているそれが、ずっ、と滑り落ちていく。
「姉さんッ‼」
頭が真っ白だ。手すりに飛びつき、必死で手を伸ばす。
ぎりぎりで指先に触れた感触を、がむしゃらに掴み取った。
たちまち、ぐんっ、と腕に重みがかかる。手すりの向こうに持っていかれそうになり、ぼくは全身を突っ張らせて耐えた。
「く……ッ!」
姉さんにしては重すぎる。
手すり越しに見下ろせば、呆然とぼくを見上げる姉さんの脚に、あの男がしがみついているのが見えた。
姉さんが叫ぶ。
「ユーリ! 離して!」
「バカ言うな‼」
かっとして怒鳴りつける。家族にこんな言葉遣いをしたのは初めてだった。
「引き上げる! そいつを蹴り落とせ!」
姉さんが首を振る。離してと、訴えるように指がもがく。男がすごい形相になり、姉さんの脚を抱き込む腕に力を込めた。
「無理だよ……ユーリまで落ちちゃう!」
涙混じりの叫び声を、打ち消すように叫ぶ。
「ぼくは落ちない!」
「なんでわかるの!」
「落ちないったら落ちないんだ‼ いいから蹴れ‼」
「でも──」
ぐら、と姉さんの身体が揺れた。しがみつく男が、姉さんの身体を這い上がってこようとしているのだ。
掴む手に力を込めて、「早く!」と叫んだ。
「ぼくは落とさない! 絶対に離さない、だから──」
「ユーリ……」
ぱたぱたっ、と姉さんの頬になにか透明なものが落ちた。ぼくの目から落ちた雫。姉さんが目を見開く。
ぼくは顔を歪め、感情のままに叫んだ。
「──ぼくを信じて‼ 姉さん‼」
その瞬間、姉さんの瞳に光が宿った。
ぐっ、とぼくの腕に指が食い込む。姉さんが身をよじって、脚をばたつかせ、男を蹴り落とそうとする。男も必死で抵抗する。
ぼくは片腕を姉さんに差し出し、もう片方の腕で手すりにすがみついて、必死に耐えた。
二人分のもつれ合い、ものすごい力が腕にかかって、歯を食いしばって踏ん張る。
そのとき、雲間から太陽がさして、視界の端でなにかがちかりと光った。
(なに──)
見えるのは銀色の、そうだ、無意識に拾って握ったままだった、あの──
「──姉さんッ!」
ぐらりと踵が浮くのも構わず、突っ張っていたほうの手を姉さんに突き出す。
その先端に握った銀色──あの催涙スプレーを見て、姉さんがはっ、と目を見開いた。
姉さんがぎゅっと目をつぶる。息を止める仕草。小さな頷きがひとつ。ぼくも、姉さんに頷きかえす。
ぼくは大きく息を吸うと、ぐっと呼吸を止めて──犯人の形相めがけて、スプレーを噴射した。
──プシッ、という軽い音。
瞬間、ものすごい悲鳴が聞こえた。
獣じみた悲鳴とともに、ふっ、と手応えが軽くなる。遠く、地面のほうで、重いものが落ちる音。
ぼくはスプレーを投げ捨てると、両手で姉さんを引きずり上げた。
姉さんの身体が、手すりを越えてベランダに転がり込む。
細い身体がどさっ、と床に座り込むや否や、ぼくは姉さんを抱きしめていた。
「ゆ、ユーリ、わた、私……っ」
「姉さん、姉さん、姉さん……!」
腕の中の身体はがくがく震えていて、その声は涙まみれだった。
ぼくも似たような状態で、抱きしめたとは言ったものの、実際はほとんどすがりつくようなものだった。
姉さんがぼくを抱き返す。ひくっ、としゃくりあげる声がした。
「ごめん、ごめんねユーリ。怖かったでしょ」
「なに言ってる、死にかけたのは姉さんだ! ぼくはただ、バカみたいに震えてただけで──」
「違うのユーリ」
ぎゅうっ、と背に回された腕に力がこもる。
姉さんはずっ、と鼻をすすると、ぼくの耳元でささやいた。
「いつかこういう日が来るかもしれない、そのときは私たちがユーリを守るんだよって、ずっと私、お母さんやお父さんから、だから、私が頑張らなきゃと思って、でも、ぜんぜん……!」
「え……」
目を見開く。涙まじりに告げられた真実は、ぼくの中にずっとあった怯えや不安を、すべて吹き飛ばすものだった。
(お母さんや、お父さんも、ぼくを……?)
腕の中で姉さんが泣いている。耳元で大きな嗚咽がいつまでも響いていて、ぼくは自分の頬にとめどなく液体が伝うのを感じた。
じわじわと、情動が込み上げてくる。喜びと切なさと慈しみがぐちゃぐちゃに入り混じった、きっと愛情と呼ぶべき、尊いもの。
「姉さん──」
「ユーリ」
胸を満たす清潔な感情にまかせて、ぼくは姉さんをますますきつく抱きしめた。腕の中の姉さんは小さく震えて、泣き声を大きくする。
抱きしめた身体から、姉さんの匂いがする。
やわらかな、どこかあたたかい、大切な人の温度。
ぼくは姉さんの耳にくちびるを寄せると、ずっと忘れていた、まじりっけのない綺麗な感情──愛情をこめて呼びかけた。
「──ありがとう。ぼく、姉さんの弟でよかった……!」
── END ──
【完結・SF】シロタ・フラッシュバックver.3.03_β Ru @crystal_sati
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