第6話 最後のフラッシュバック
はあっ、はあっ、とせわしない呼吸が聞こえる。
姉さんの手の中には、銀色のスプレーが握られていた。
護身用の催涙スプレー。
姉さんがどうしてそんなものを持っていたのかわからない。ただ、蓋を外され、ノズルに指をかけた状態のスプレーは、今すぐにでも噴射できそうだった。
呼吸が浅い。心拍が信じられないほど早い。スプレーを握る手は力がこもりすぎていて、震える指先は真っ白になっていた。
どうやら姉さんは、ドアが開く前から状況を理解していたようだ。
がちゃっ、と音がして、ドアが開く。
スーツの人影がぬっと部屋に入ってきた瞬間、姉さんは腕を突き出し、スプレーのノズルを押した。
プシッ、と軽い放射音。野太い悲鳴が上がる。
目の前の男が激しい咳とともに顔を覆い、うめきと共に腕を振り回した。ぎらりと銀色が光る。
それがなにかを認める前に、姉さんは息を止め、男の腕に飛びつこうとした。空振り。どっ、と腕が腹に食い込む。
みぞおちを攻撃された姉さんは、けれどひるむことなく、犯人の胴体に組み付いた。振り払われそうになる。無理矢理しがみつくと、ぐるりと視界が回転した。
二人して床に倒れ込む。もつれ、転がり、激しい揉み合い。
腹を蹴り飛ばされ、後ろに転がる。重い痛みをこらえ、立ち上がろうとしたとき、視界の端でナイフの光がひらめいた。
反射的に手を伸ばし、ソファのクッションをむしり取る。ばっと顔の前にかざした瞬間、ナイフがびりっ、とクッションを切り裂いた。
「──くそッ、枕か!」
低い怒声が耳に飛び込む。
途端、姉さんの視界がさっと左右に動いた。
正面のベッド。その手前の犯人。左側のソファ。背後の窓。
せわしなく視界が揺らいで、そして──ぼくが隠れているクローゼットで止まった。
視界にふっと影がかかる。
はっ、と振り返れば、犯人がよろめきながら立ち上がるところだった。
ごくっ、と唾を飲む。喉がからからで、張り付くような嫌な感触。
引きつった呼吸をしきりに繰り返して、姉さんは震える手をぎゅうっと握りしめた。息を吸う。
「あ、あなたの狙いは弟でしょ⁉ ユーリならクローゼットに隠れてる! だから私だけは助けてよ‼」
その声は震え、上ずり、裏返っていた。全身が恐怖と緊張で震えている。
姉さんは床を手で探り、なにか武器になるもの──おそらくはあのスプレーを探そうとした。だが、指先にはなにも触れることはない。
姉さんは食い入るように犯人を見つめている。犯人がよろよろと歩き出す。
姉さんは恐る恐る立ち上がり、避けるようにふらりと下がった。犯人が、姉さんのすぐ前を通り過ぎていく。
犯人が目指す先は、なぜだろう、クローゼットではなかった。
まっすぐに、窓に向かって歩いていく。
(──あっ、そうか……!)
ぼくはようやく悟った。
姉さんがなにを狙って、あんな台詞を言ったのか。
さっきナイフを振るったとき、犯人は「枕か!」と叫んだ。実際に切ったのは、ソファのクッションだったのに。
つまり、犯人はソファをベッドだと勘違いしたのだ。
姉さんに目潰しされ、押し倒されて、もつれ、転がり、揉み合って、彼は方向を見失った。
犯人は、実際はソファの前にいたのに、自分はベッドの横にいると思ったのだ。
室内の位置関係を、90度誤認した。
ベッドからクローゼットを目指すルート。
そのスタート地点をソファに変えれば──
(ゴール地点は、あの窓……!)
どくどくと心臓が鳴る。視界が狭まり、呼吸が苦しい。
全身が痛いほどの緊張を訴えて、それでも、姉さんは犯人から目を逸らさなかった。
犯人がまっすぐ窓に向かう。そして躊躇なく窓を開けた。ナイフを構え、ベランダへ出る。
その瞬間、姉さんが動いた。
弾かれたように走り出し、スーツの背にタックルする。
どん、と重い感触があって、後ろ姿がよろめいた。
がっ、と腕を掴まれる。それでも構わず身体を押し付けて、大きな背中をぐいぐいとベランダへ追い出した。
犯人の身体が手すりにぶつかる。掴まれた腕は振りほどけない。二人分の体重がもつれあうように倒れ込んでゆく。
ぐるん、と平衡感覚が回転する。重力が一気に失われる感覚。はっきりとした落下の予感。
そのとき──姉さんが、小さく呟いた。
「ユーリ」
震えた、かすかな声には、万感の情がこもっていた。
全身の張り詰めた恐怖を塗り替えていく、ひどく切ない身体感覚。
胸が締め付けられる痛み。指先のじいんとする感じ。
呼気が震え、スローモーションで回転していく視界が、涙でじわじわ、にじんで揺れていく。
「私、ちゃんと『お姉ちゃん』できたかな……?」
ぼくの体感する認知のすべてが、あらゆる五感の感覚が、鮮烈なまでの情動を伝えていた。
痛み、せつなさ、やるせなさ、それらすべてを凌駕する、震えるほど強烈な感情。
胸の底で確信がきらめき、ぼくを揺らした。
(姉さん──)
──姉さんは、ぼくを愛している。
たった今、それがはっきり、わかった。そして──
「──実時間0.3秒経過。最後のチャンスが終了しました。意識を回復いたします。
……がんばってね、ユーリ」
その声を最後に、シロタ・フラッシュバックは完全に沈黙した。
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