「いきましょう」

 私を腕の中から解放した彼女はすっくと立ちあがりのたまいました。

 いったい何処どこへ行くというの、と訴えかける私の視線にうなづくだけで、彼女は言葉を返してはくれないのです。けれども、彼女が決めたことならばきっと良い未来に繋がっていると、確信めいた気持ちが私の心に湧き上がってまいりました。


 朝日が照らす涼やかな道を、私たちは連れ立って歩きました。行き先は何処だっていい。彼女の目的地がすなわち私の目的地なのです。下駄の歯が砂利を踏み潰す音すら、心なしか浮ついているような気さえいたしました。

 緩やかな坂を上った先にあるのは、訪れる機会に恵まれなかった停留所。他よりほんの少しばかり高く作られたそこにあるのは、申し訳程度に置かれた長椅子と駅名標だけでした。清川きよかわ駅。戻れば港町のある木更津きさらづ駅、進めば山を越え未踏の地。

 やがて怪物のように白い蒸気を噴き上げた機関車が駅に滑り込み、私たちはそこに連なる客車に乗り込みました。私たちの他に乗る者はいません。先の駅から乗っていたであろう客もまばらで、車内は閑散としておりました。青い毛織物に覆われた二人掛けの座席に収まり、私は何とはなしに椅子を撫でてみます。この手触りすら、私にとっては未知なのです。

 ほどなくして車掌が巡回にやってきました。彼が気怠そうに「何処まで」と聞くので、私は「……、終点まで」と答えました。鈍く光る銀のはさみが切符をぱちりと挟むと、同時に、私を雁字がんじがらめにしていた鎖も切られたかのような心地がいたしました。こうして私は生まれて初めて故郷を出たのです。

 見慣れたはずの景色も、車窓を通して見ると大層美しく感じられました。秋を待ち望む稲穂は風に吹かれ、白群びゃくぐん細波さざなみが連なり揺れる。その波打ち際を燕が勢いよくかけるのです。あと二十日もすれば黄金こがねに色付き、刈り採られるのでしょう。整然と並ぶ水田を真っ直ぐに伸びた線路が貫き、鉄の塊が情景を切り裂き行くのです。見上げれば晴れ空は淡い白藍しらあいに染まり、薄雲が流れるのを私は飽きずに眺めておりました。

 景色を楽しんでいたのも束の間、汽車は煉瓦レンガ造りの隧道トンネルに入りました。

 一転し、黒く塗りつぶされた車窓に映るのは憔悴しょうすいした私の顔。厭世えんせいを宿した自身の瞳を見ると、嫌でも昨晩のことが脳裏に蘇ってくるのです。

 昨晩の折檻せっかんは長く辛く、思考はぼんやりと霞掛かり視界は朧気になっておりました。痣や傷は治る間もなく増え続け、数える気にもならないのです。絶え間なく降りそそぐ痛みに、全てが麻痺しつつあったのでしょう。只管ひたすらゆるしを請いながら、呵責かしゃくが終わるのを待つのみでした。

 ですが、旦那様が手を振り上げたその刹那、父の顔が重なってしまったのです。酒に溺れ世の中への憎しみを私にぶつけていた、悪鬼あっき羅刹らせつのようなあの顔です。私の善心ぜんしんなどとうの昔に死に絶えていたのでしょう。あのような日々の中で正気など保てるはずがありません。気がついたら旦那様は倒れており、私の手には血にまみれた灰皿がありました。酒に酔っていたせいか、あるいは従順な私が抵抗してくるなど万に一つも無いと慢心まんしんしていたのでしょうか。実に呆気ない最期でありました。永遠とも思えた苦境が唐突に終わり、自分で引き金を引いたにも関わらず狼狽うろたえてしまいました。

 そうして、遺体をて証拠隠滅をはかる冷静さも度胸も無く、かといって自らの罪をつまびらかにする思い切りもなく、只々ただただ亡骸を前にほうけていたのです。死体が変貌していく様を妄想し、諸行無常を理解した気にすらなっていたのです。本当は、私をしいたげた父と私をはずかしめ続けた夫に対する復讐を遂げた気になって、胸のすくような爽快感に満ち溢れているだけの俗物だというのに。実のところ、ほんのわずかに芽生えた罪悪感の影で大いに高揚していたのです。私の心臓は喜びの悲鳴を上げていたのです。

 車窓の硝子に映った私の顔は、いつしか笑みを浮かべておりました。



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