晩夏に棄てる

十余一

 夏は死に逝く季節だと、私は思うのです。苛烈な陽射しで干乾び、淀んだ湿しとりの中で腐り落ちてゆく。それが晩夏ともなれば尚の事。鮮やかに咲いた立葵は枯れ、騒々しく鳴いていた熊蝉は嘘のように沈黙し、蛙も蚯蚓みみず土瀝青アスファルトに張り付き木乃伊ミイラに成り果てる。そうして、まるで全てがセイを終え、死に絶えるかのような錯覚に陥ってしまうのです。

 そして今、私の目の前にも物言わぬ方が横たわっております。

 止めどなく溢れる鮮血もきっと程なくして渇き、指先から温度を失ってゆくのでしょう。生気を失った骸はやがて瓦斯ガスで醜く膨らみ、眼窩がんかと口腔から蛆が湧きで、紫紺の肉塊から白磁の骨が露出するに至るのです。例え清く正しく生きようと心掛けても、命の最期はけがらわしい血肉を撒き散らして終わるのです。

 死は、生きとし生けるものに平等に訪れます。どれだけ徳の高い立派な御方だったとしても、所詮は血と肉の詰まった袋でしかないのです。成した偉業や犯した悪行も時と共に薄れ、死してこの世に残るものなど何一つとしてありません。

 煌々と輝く月が全てをあらわにする幻想的な夜の底。一等星すらかすむ明るさに照らされて、庭先の木々は真昼間よりなお濃く影を落としていることでしょう。暗がりが人々の寝息すら飲み込む中で、ただ私の鼓動だけがこの部屋にどくどくと響いているのです。光を透かすさらな障子紙、畳に広がる赤い海、たおれ転がる痩身そうしんの男。いっそこの光景が、いいえ、この結末に至る全てが夢であったならと願わずにはいられないのです。醜行しゅうこうや狂気と無縁な人生であったなら、平穏で明るい道を安穏と歩けていたら、どれ程幸せであったか。けれども、いくら空想したところで鼻をく生臭さが惨憺さんたんたる現状を訴えかけてくるのです。死神が私の四肢を掴み現実に引き戻すのです。

 人が人を殺めてしまったとき、山育ちは海に流し海育ちは山に埋めると申します。ですが、山と海に囲まれたこの狭い地で育った私には何処どこてる場所がありましょうか。黒々と横たわる急峻きゅうしゅんな山並みは牢のように行く手を阻み、静謐せいひつ内海うちうみへ続く遠浅の浜には足を捕られる。臆病で優柔不断な性格とも相まって、ただ呆然ぼうぜんと座り込み亡骸と夜を共にしているのです。

 私はこうしてほうけたまま、死体が朽ち果てるのを只々ただただ眺めて暮らしてゆくのでしょうか。九相くそうの変容をこの目に焼き付け、そして、それから、その先は――。


 どれだけの時をそうして過ごしていたのでしょう。気付けば空が白み始めておりました。朝日が夜のとばりを払い、新しい一日を連れてくる。今日という日が始まってしまう。そこで私はようやく気が付いたのです。

 彼女がそこに居ることに。

 流行りの杏色の着物に綺羅きらびやかな帯を締めた彼女が、下駄履きのまま佇んでいたのです。ふくらとした頬は血色が良く、唇から爪に至るまで桜貝のようにほんのりと色付いておりました。つややかな黒髪は一つにまとめられ、そこに差された螺鈿らでんかんざしがまた美しいのです。着古した紺絣こんがすりに乱れ髪の私とは何もかもが正反対でありました。

 幼少の頃より私のことをよく知る彼女は、この惨状の目撃者になってしまったのです。

 凶行とその証人たる彼女を前にして、私にいったい何が言えましょう。釈明、弁解、自訴じそ。しかし声は喉に張り付いたまま一向に出ず、まるで水面で窮状きゅうじょうを訴える魚のように、はくはくと口を開閉するほかなかったのです。

 空気を震わせる朝の光と共に、彼女が足を踏み出しました。彼女の華奢きゃしゃな足を収めたうるし下駄げたが畳を踏みしめ、一歩、また一歩と私に近寄ってくるのです。そうしてとうとう私の元に辿り着くと、ふわりと抱きしめました。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 彼女は只管ひたすらにそれだけを繰り返し、私を包み込むのです。全てを知り、ゆるし、慰めるようにささやくのです。だいじょうぶ、だいじょうぶ、大丈夫、大丈夫。

 この根拠のない、ともすれば無責任な言葉が、どれほど私の救いになったことか。奔放ほんぽうな彼女の胸に抱かれ、私は強く目を閉じました。それでも涙の一筋も頬を伝うことはありません。そんなものは、とうの昔に枯れ果ててしまっていたのです。


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