泥中の蓮

深山瀬怜

第1話

 ピンチをチャンスに変えろなんて言うけれど、今のピンチは僕が作ったものではない。突き刺さる視線を感じながら、僕は人でごった返すメイク室の奥へと歩いて行った。

 モデルが気に入らないからとデザイナーが作った服を破くような馬鹿はここにはいない。さすがにそんなことをしたらどうなるかはわかっているのだろう。代わりに聞こえてくるのは陰口だ。いや、わざと僕に聞こえるように言ってきている。僕が言い返さないとわかっているのだ。

 アイドルはどんなときもその顔に笑顔を貼り付ける。いや、曲によっては笑わないこともある。片想いの切なさを歌っているのにキラキラした笑顔だったら台無しだろう。だから僕たちがやっているのは徹底した表情管理だ。いや、それだけではない。指の先まで全て意識して動かしている。ファンを喜ばせるため。自分を表現するため。目的はそれぞれだけれど、アイドルにはアイドルなりの努力がある。

「よくもああ堂々としてられるよね。客寄せパンダのくせに」

「学芸会のくせに何十年も修行してる私たちと同じ舞台に立てるとか、顔がいい奴はいいよなぁ」

 その顔だって、綺麗に見せる努力は続けている。確かに持って生まれたものはあるけれど、その顔にストレス由来のニキビひとつ出来ただけで大騒ぎになるのだ。徹底した自己管理。そこから生み出される完璧なエンターテインメント。モデルたちも確かに努力してきたのだろう。そしてその世界にアイドルだからと呼んでもらえることがあるのは事実だ。でも僕も生半可な覚悟でここに来たわけではない。

「まああんな奴、先生にすぐ泣かされるよ」

 僕を招待してくれたデザイナーのエムという男は、世界を股に掛けて活動している。日本人の両親から生まれたが、人生のほとんどをアメリカで過ごしていたという。そしてエムは自分の作品を披露するショーを成功させたいという気持ちが強すぎて、モデルが泣き出すほど厳しいという噂だった。

 今の時代ならパワハラと言われそうだが、良く話を聞いてみると、声を荒げることもしなければ、当然暴力を振るうこともない。ただ静かすぎてかえって怖いということだった。

 厳しい演出家など今までいくらでも会ってきた。けれどそんなものは自慢にもならない。結局見られるのはこれからの自分。舞台の上での輝き。僕は陰口のアーチをくぐり抜けて、奥で待機していた茶髪のメイク担当の女性に挨拶した。

山内やまうち伊玖人いくとです。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。私はMinato。今日はまだリハーサルだからリラックスしてね」

 Minatoは僕に好意的なようだ。挨拶を済ませると、余計な話はせずにすぐに仕事に移ろうとする。僕の背後からは彼女の悪口も聞こえてきた。どうやら彼女も今回のショーのためにここに呼ばれた余所者のようだ。

「今回のショーのテーマは『泥中の蓮』だそうです。なので、メイクは――申し訳ないんですけど、顔がわからないくらいドロドロになるかと」

「聞いてますよ。基本的なメイクを先にやって、服を着てから仕上げをするって」

「そうです」

 ショーのために折角作った自分の服を泥まみれにしようとするなんて、エムは余程変わり者のようだ。普段は衣装を汚すのは御法度だが、今回は逆に汚さなければならない。いつもの場所とは何もかもが違うのだから、そろそろ気持ちを本格的に切り替えなければならない。

「それでは、やっていきますね」

 Minatoの手つきは繊細だけれど素早かった。エムは彼女の実力を見込んで起用したのだろう。素材は同じでもメイクが違えば印象は変わる。鏡の中で完成されていく顔はいつもとは少し違っていた。

 それにしても、テーマが『泥中の蓮』で、僕が起用された理由は何なのだろうか。エムとはまだ話せていない。打ち合わせはマネージャー同士で行われた。そもそもエムの拠点はアメリカで、日本に来たのもつい昨日のことだというから、直接会って話をするなんて不可能だったのだが。

 Minatoは手早く僕のメイクを終えた。そもそもこれは結局汚されてしまうものだから、きちんと顔が整えられていればそれで問題ない。最新のトレンドを取り入れつつ、服を邪魔しないシンプルなメイク。Minatoはメイクにあまり自我を出さないタイプのようだ。それでも滲み出る彼女の個性によって、鏡の中の僕の顔はいつもとは少し違って見えた。

「じゃあイクト君。次は衣装だね」

 Minatoに促されて僕は衣装部屋に向かった。そこにはエムのスタッフたちがひしめいていて忙しなく動いていた。しかし僕が部屋の中に入るなり、その動きが澱みだす。それほどまでに僕が嫌いなのか、それとも侮っているのか。しかしその中でもビジネスライクな笑顔でこちらに近付いてくる人がいた。

「責任者の結城です。こちらへ」

 結城という男は、服装こそ奇抜で、この現場ではなくパンクバンドのライブ会場の方が似合いそうだったが、どうやら中身は非常に真面目な人のようだ。エムの服はどうやって着るのかわからないものも多い。僕の着替えを手伝うのはこの結城のようだ。

「……鍛えてるんですね、山内さん。モデルとはまた違う筋肉だ」

「鍛えてないと踊れないので」

「それもそうですね」

 着替えが終盤にさしかかったところで、奥の扉が開いた。その瞬間にざわめきが一瞬にして消える。

「おはようございます!」

 スタッフ全員が合図もなしに同時に礼をする。扉から出て来た男はこの城の王様。つまりデザイナー・エム。おそらく自らデザインしたであろうアシンメトリーの黒い服にボルサリーノの帽子。スタッフに軽く挨拶を返しながら周囲を見回していたエムは、僕を見つけると、真っ直ぐこちらに向かって歩いてきた。

「初めまして、山内伊玖人くん。今日はよろしく」

「……こちらこそよろしくお願いします」

 僕を見るエムの目に吸い込まれそうになってしまい、思わず反応が遅れた。エムの目は、右眼が焦茶色で、左眼がヘーゼルのオッドアイだった。そのことは写真を見たことがあるから知っているつもりだったが、実物は色が違うだけの代物ではなかった。右眼と左眼に別々の表情が宿っているような、底知れぬ違和感がある。

「ちなみにこれが僕の名刺。一応渡しとくね」

「ありがとうございます。……こんな字を書くんですね」

 英武と書いてエム。思っていたより厳つい字が当てられていた。エムは僕の正直な言葉を聞いて笑う。

「そうだろう? その反応が見たくて、名刺には本名も書いておくことにしてるんだ。エムなんていうから、永遠の夢とかそういうのをイメージする人が多いんだけど、実は違うんだよ。先入観というのは恐ろしいものだ」

 エムは悪戯っぽく笑う。しかしその笑顔に別の色が混ざっているように感じた。それは侮蔑。先入観を嫌うお前にだって先入観はあるだろうと突きつけられているようだった。いや、それは僕がただそういう風に読み取っただけかもしれない。真意が掴みきれなくて恐ろしい。この男が怖いと言われる理由が少しわかったような気がした。



 着替えた後は再びMinatoのところに戻り、泥で服や体を汚していく。テーマの『泥中の蓮』に合わせた演出のためだ。

「この顔に泥を塗るの、正直申し訳ないんだけれど」

「思いっきりやっていいですよ」

 意を決したように、Minatoは僕の顔を泥で汚していく。泥と言っても本物の泥とは違って、泥パック用に近い均質なものだ。おそらく今回の演出のためにメイクチームが作ったのだろう。

 手早く準備を終えて、すぐにリハーサルに入る。ショーは今日の午後だ。リハーサル一回ですぐ本番というのは流石に緊張するものだ。振付は完璧に頭に入っている。いや、何があっても体が勝手に動くように練習してきた。あとはエムが僕のパフォーマンスに納得してくれるかどうかだ。

 僕の出番は最後。僕はモニター越しにモデルたちの仕事を見ていた。流石にプロ達だ。歩き方は全くブレがないし、服を美しく見せる動きを熟知している。

 アイドルはさまざまなプロの現場に参加させてもらえる。でもそこでどれだけ努力してもアイドルだからと低く見られてしまうのだ。そんな逆境を乗り越えてこそだと言う人もいる。けれどそれで得た評価だって「アイドルなのにすごい」というものだ。アイドルであることを嫌っているわけではないが、何に挑戦しても付き纏ってくるその肩書きが鬱陶しいときもある。

 ステージに流れる音楽が変わり、照明が暗くなる。僕は舞台監督の合図で黒い箱の中に入り、そのままステージの中央まで運ばれた。

 ここからは僕のステージだ。けれどファッションショーである以上、主役はあくまで服。僕はその魅力を最大限に引き出すための相棒。体のバネを最大限に活かしたダンスで『泥中の蓮』を表現する。

 しかしエムは途中で手を叩いた。そして僕を呼び出して言う。

「ダンスはいいんだけど、綺麗すぎるんだよね」

「綺麗すぎる、ですか」

「『泥中の蓮』は泥の中であってもなお美しいもののことだ。それは泥が汚いものであるほど輝くだろ」

 エムの言うことはもっともだが、だからといってどうすればいいかわかるものでもない。エムは悩む僕をそのままにして、リハーサルの終了を告げた。



 綺麗すぎるとはどういうことなのか。

 振りを崩せばいいわけでない。そもそも服を最大限に見せられるように計算されているものを崩すことはできない。僕はショーまでの短い休憩時間で考えを巡らせていた。ここでエムを満足させることができなければ今回の仕事は失敗だ。

 失敗するわけにはいかない。そんなの僕たちを馬鹿にする人たちの思う壺だ。

 アイドルという仕事が嫌なわけではない。でも何をしても「アイドルだから」と侮られることも、抜きん出たものを見せても「アイドルなのに」と言われる現状が嫌だ。

「エムさんの要求、難しいですよね。もっと汚くしろって言っても、自分ではこれ以上ないくらい汚してるんですけど」

 Minatoが呟く。彼女もまたリハーサル後にエムに何か言われたのだろう。エムはとにかく汚いものを要求してくる。その方がそこに咲く蓮の美しさが際立つのだと。

 綺麗すぎる、というのは、普段の活動なら決して言われない。普段は綺麗なら綺麗な方がいい。綺麗にも色々な意味があるが、僕たちを応援してくれる人たちの夢が覚めてしまうようなことがあってはならない。そのためには身辺はクリーンである必要があるし、怪我どころか肌荒れすら御法度だし、完璧な輝きでなければならない。


「――予定調和でつまんねぇんだよ」


 それは僕の口から出たものだったはずなのに、僕が全く意識していない言葉だった。Minatoがハッとした顔をして僕を見ている。

「予定調和、ですか?」

「……ごめん、無意識に言った。自分でもよくわからない」

 大方の予想通りに事が運ぶのは、仕事であればそれが理想だとされる。トラブルやイレギュラーがあってはならないのだ。けれど言葉にしてしまったそのときから、自分の中で暴れ回る何かの存在を感じてしまう。

 それは炎のようで、でも重油のようにドロドロして汚い何かで、それなのになぜか美しかった。

「でもエムさんが言いたいのは、もしかしたらそういうことなのかも」

「要は自分の予想を超えてみせろって? 一番嫌な要求だな」

 舞台監督やドラマの監督にもそういうことを言う人はいる。そんな上から目線の言葉があるだろうか。予想を超えてみせろと笑うなんて、ゲーム序盤で勇者を片手で圧倒する魔王の台詞みたいだ。人間だからと侮り、人間なのに魔王を超える力を得た勇者に倒されるストーリー。

「……Minatoさん、今から本物の泥とか砂とかって用意できたりする?」

「え、今からですか? そうなるとその辺の道とかから集めて来るしか……」

「泥だらけだけど、どうせ綺麗な泥なんだろって思われるのは嫌じゃない?」

 Minatoは僕の言いたいことをすぐに理解して、頷いた。超えてみせろと言うなら超えてみせよう。そしてその高みの見物を後悔させてやる。

「急いで取ってきます!」

「うん。じゃあ僕も準備を進めておくよ」

 こんなことをしても何も変わらないかもしれない。それでもやらないよりはやった方がいい。たった一回の本番に賭けて、僕たちは動き始めた。



 ショーが始まる。

 観客の中には僕のファンもいるのだろう。出ることは事前に告知してある。ファンたちは僕が世界的なデザイナーであるエムのショーに起用されたことを喜び、僕の今後のためにどうお金を落とすか検討しているのだろう。ありがたいことではあるが、今はそれさえ邪魔だった。

 Minatoの仕事は完璧だった。泥や砂をかき集めてきて、僕は普段の僕など見る影もないくらいに汚れている。他のモデルたちには顔を顰められたが、それは仕方ないことと諦めた。

 汚れたままの姿で黒い箱の中に入り、僕は目を閉じる。微かな揺れで自分がステージまで運ばれているのがわかる。それが地面に置かれて人の気配が消えると同時に、僕の中に静寂が広がる。


 黒い箱が開いた瞬間に歓声が聞こえる。

 はそれが聞こえた方向を一瞥した。

 俺が舞台に立つだけで上がる声を面白く思わない人間も多いだろう。けれど賞賛も侮蔑も同じくらい邪魔だ。悪臭を放ちながらまとわりつくこの泥と変わらない。

 お前たちは何を見ている?

 お前たちが期待しているものなど見せてやらない。

 俺を見るのにどんな色眼鏡が必要だ?

 そんなものを忘れてしまうくらいに圧倒してやる。俺は泥の中で咲く美しい花だ。泥にまみれても汚れることなくそこに立つものを見ろ。

 何もかもを取り払って、俺を見ろ――。


 無我夢中になっている間に、たった二分間の出番が終わる。箱に戻って、それが閉じられたときに広がったのは本物の静寂だった。僕に対するどんな声も封じられた瞬間が心地いい。

 再び箱が揺れる。僕はその揺れに身を任せながら、エムはなぜ僕を指名したのかということを考えていた。



 ショーが終わって数日後、僕の生活は普段のものに戻っていた。ショーは概ね好評だったらしいが、「アイドルのくせに」とか「アイドルなのに」を完全に乗り越えることはできなかった。

 エゴサなんてするもんじゃないな、と思ってスマホをしまって目を閉じる。そもそもアイドルがトイレの個室に入ってスマホをいじっているという状況はいただけない。溜息を吐いて個室を出ると、ちょうど蛍光色の奇抜な服を着た男――エムがトイレに入ってきた。

「今日は泥だらけじゃないね」

 エムがにっと笑って言う。こうやって気さくに話しかけてくれるということは、ショーの出来には満足してくれているのだろう。けれどいまだにエムが僕を起用してくれた理由は聞けないままだ。ショーの後で直接尋ねてみたが煙に巻かれてしまったのだ。


「何言ってるんですか。俺はいつだって泥だらけですよ」


 一言、そう返して僕は手を洗う。鏡の中で、エムが一瞬笑ったように見えた。

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泥中の蓮 深山瀬怜 @miyamaselen

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