敗北

 そして今に辿り着いて、私は後ろに立つあなたにもう一度尋ねた。

「それで、あなたの名前は?」

 ここまで読んでくれたのだから、私には少し希望があった。するとあなたの口が開くのが見えて、答えてくれると嬉しくなった。


「ガチャ」

 その音は、あなたの声ではなかった。


 まだ鮮やかなあの瞬間が、もう一度脳裏に蘇った。


 扉を開けて、踏み入れられる足。黄色いスカートに黒いセーター。見なくても見えたその光景が、本物の帰宅を告げた。


 あなたは私の後ろから急いでキッチンへ戻ると、皿洗いを再開しはじめた。私と話すところを、見られてはまずいと判断したのだろう。


 私は動じず、テーブルに居続けようと思う。だけど、もうほとんど負けたようなものだった。このままここでキーボードをカタカタ打ち鳴らしつづける訳にはいかないし、あなたの名前を記すこともできないだろう。でもはっきりと敗北が明らかになるまでは、ラップトップを閉じたくはなかった。


 それからすぐに本物がリビングに現れて、その人はあまりに満ち足りていて本物らしく、私はすぐにもかき消えてしまいそうだった。そしてその人は私に気がつきもせずに、あなたに向かって話しかけた。

「喉渇いたー。なんかない?」

 あなたはにこやかに答えた。

「白ワインかリンゴジュースがあります」


「うーんどっちにしよう。ねえ、どっちがいいかなあ」

 その人は突然私に声をかけて、私はあまりに惨めで怒りが湧いてきた。本物が迷っていることが許せなかった。どんな疑問にせよ、答えを知っているのはお前のはずじゃないのかと思った。だからただ睨みつけた。

「こわ、てかこの人だれ」

 本物は慌てることもなくキッチンの方へ尋ねた。あなたは速やかに答えた。

「侵入者です」

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侵入 中山中 @nakayamanaka

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