侵入

中山中

今に至るまで

 扉を開けて足を踏み入れた。その瞬間はまだとても鮮明。


 ここはマンションの一室。今は夜中にさしかかった時刻で、暗闇だった外に比べて、明るい室内はまるで救いのようだった。危険で冷たい外界から区切られた、安全で暖かな内側。ここにいたらもう大丈夫と、思わせてくれるような。


 もしこれが帰宅だったなら、本当にそう思えただろう。でも私にそんな資格はなかった。なぜなら私は偽物で、これは帰宅ではなく侵入なのだから。


 だけど「おかえり」と言われる自信はあった。外見はいくらでも取り繕える。それに黄色いスカートと黒のセーター。この服装が完璧だった。見た目だけで言えば、私をこの家の正当な住人と見紛えることなんてありえなかった。


 靴を脱いで玄関に上がった。この先にリビングがあって、テーブルがあり、その上に夕食が載っている。想像を膨らませながら廊下を抜けると、リビングのホワイトオークのテーブルに食器が並べられている様子が、思い描いた通りに目の前に広がっていた。


 そしてやっぱり言ってもらえた。

「おかえり」

 椅子の一つに夫と思しい男が座っていた。人がいることは廊下を歩く間に十分想定していたから、私は少しも動じることなく向かい側の椅子に座った。


 男はすでに夕食を終えていたようで、満ち足りた顔で私を眺めた。

「遅かったね」と男が言う。

「予定が長引いちゃって」

「君の作るご飯が食べたかったのに。また結局あの子に作ってもらって」

「私だって大したことないよ」

「君が作ってくれた事実だけで満足感が違うから。明日は早く帰ってきてよ」

「そうする」

「先食べちゃってごめん。明日早いから、もう寝るね」

「大丈夫。おやすみなさい」

 男はコップに残っていた水を飲み干すと椅子から立ち上がり、思い残すことはないという様子でこちらを一瞥して微笑んだ。私も笑みを返した。


「おやすみ」

 男は私に一声かけると、満ち足りた顔を崩さないままゆっくりと振り向き、自室であろう方向へ歩きはじめた。


 男が移動したことで、体積的な変化は少しのはずだけど、部屋に随分とゆとりが生まれたように感じた。不愉快な人間は、居るだけで圧迫感がすごい。きっとあの男は、私の侵入に何一つ違和感を覚えなかったのだろう。私は完璧だけど、それは見た目だけだった。普通に会話して、なにも疑わないその鈍感さに嫌悪感を抱いた。


 でも彼が鈍感なおかげで、私はまだここにいられる。それも事実だった。私は自室へと吸い込まれるように消えていく男を見届けながら、嫌悪もまた歪んだ感謝や親しみと混じり合って、うやむやになって消えていくのを感じた。


 そしてまた別の視線が、私にも向けられていた。リビングにはもう一人いたのだ。言うまでもないことだけど、それがあなただった。


 あなたはこの家で召使いでもしているのだろうか。この時代のこんなマンションの一室に、あなたのような存在がいることには違和感があった。でも質素な身なりにエプロンをつけてキッチンで後片付けをしているその甲斐甲斐しい姿が、あなたがこの家で奉仕する存在であることを明白に伝えているように思われた。


 男の食事した皿を洗いながらも私という異変を認識しているあなたは緊張を隠しきれず、どうしたものか躊躇いがちに時折こちらへと目線を向けてくるのだった。


 私は視線を感じながら、どうしてずっとリビングにいたあなたが私について、あの男に一言でも意見することができなかったのかを考えた。そうするうちに、あの男に対する消えたはずの嫌悪が蘇ってきた。


 きっと、あなたは男よりも立場が下だから、男が気づいていないことを指摘できなかったんだ。なぜならそれが、男の鈍感さを暗に暴くことになるから。ああいう男は他のあらゆることにはありえないほど鈍感なのに、自分のプライドがほんの少しでも刺激されることには耐えられない。きっとあなたはそのことを、何度も何度も学ばされてきたんだ。だから明らかな異常事態が発生していても、男が気づくまでは何事もないかのように振る舞うしかないのだろう。勝手に導いた結論だけど、その答えに辿り着いた時、私は確かにあなたとの連帯を感じた。


 私たちはこの空間に属していない。私たちは侵入者だ。だから常に排除されていて、常に配慮する必要がある。私たちが何かを少しでも間違えれば、あるいは間違えていなくても少しタイミングが悪いだけで、待ってましたと言わんばかりに満ち足りた奴らから存在をかき消される。私たちは望んでこうなったわけじゃない。こんな綱渡りみたいな状況に、いつの間にか選択の余地もなく追い込まれていただけだ。


 この状況において、私たちは仲間だとあなたに伝えたかった。だから私はあなたに向かって手招きした。


「あなたの名前は?」

 あなたは隣まで来てくれたけど、意味わからないと怪訝な顔をして、質問には答えてくれなかった。そして逆に聞き返した。

「あなたこそ誰?」

「私は作家であり侵入者。作品のために、自分の居場所じゃないところにも入っていく必要がある。だからこの家に来た。今から私は、短編を書く。この短編に、あなたの名前を刻みたい。あなたの名前だけを書き記したい。他の人は、例えばあの不愉快で鈍感な男の名前は残さない。そしたら、もしこの家にあなたの居場所がなくても、このお話の中で、あなたは唯一の確かな存在になる。私の短編の中であなたは、断固としていつまでも存在しつづける。それって素敵だと思わない?」

 あなたは落ち着いた様子のまま、きっぱりと答えた。

「よくわからない」

「待ってて。すぐに証明するから」


 私は近くの床に置いていたカバンからラップトップを取り出して、テーブルの上に置いた。そして、この家の扉を開けたあの鮮明な瞬間から、記述を始めたのだ。今に至るまで。あなたに見守られながら。

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