玄関の鍵

小森秋佳

玄関の鍵

「結局、人間が一番怖いんだよ」

 

 ノートパソコンを閉じながら菜々子がそう口にする。


「身も蓋もないこと言うね」

「考えてもみてよ。幽霊とかは基本何もしてこないじゃん。ただそこにいるだけ、たまたま見えちゃった人が勝手にあーだこーだ言ってるだけで」


 大学のとある教室。クーラーが強烈に効いているこの部屋では、窓から差す日光が絶妙に心地よい。


「じゃあ、妖怪は?例えば今日やった——ダイダラボッチとか」


 ノートを取り終えたらしい紗耶香が口を挟む。


「あれは良い妖怪じゃん。確かに、もし目の前に現れたら腰抜けちゃうかもだけど」

「それより、人間の方が怖いんだ」

「怖さのベクトルが違うじゃん。なんか、妖怪とかは畏怖っていうのかな、恐ろしや恐ろしやーって感じで、むしろ一周回って安心できるっていうか」

「何それ」

「もう出会っちゃったら、こりゃダメだっていうやつ」

「あーね」


 今年から晴れて大学生となり、早くも四か月が経った。先程まで受けていた「江戸時代における民間伝承」という授業は、いわゆる「楽単」というやつで、基本的に授業に出席していれば単位が出るという。自分のズボラ加減を予期しこの授業を取った私だが、意外にも内容は面白く、いつの間にか、同じ授業を取っていた二人とこうしてその日の内容について話すようになっていた。


「じゃあ人間の怖さはどういうベクトルなの?」


 好奇心旺盛な紗耶香が再び質問する。この三人の中で、彼女は唯一自身の興味でこの授業を取っていた。


「そりゃあもう、不気味なとこだよ」


 待ってましたとばかりに菜々子が答える。基本的にいつも話の主導権を握っているのは彼女だった。


「人間ってさ、何考えてるか分かんないじゃん。表では澄ました顔して、裏ではネチネチ人の悪口言ってるようなヤツいくらでもいるし。現に妖怪の一部は、そうした人の怨念で成り立っているわけでしょ」

「まあ、それは確かに」

「他にも怨霊とか生霊とか、そういうのも元をたどれば全部人間に行き着くわけよ。そもそも幽霊だって死んだ人間じゃない?万物の根源は人間なんだよ」

「タレスとプロタゴラス足して二で割ったみたい」


 紗耶香はそう言うと朗らかに笑う。博識なのは良いが、たまによく分からない冗談を言うので面白い。


「でも現実的な話、最近は物騒だからね。菜々子ちゃんも私も実家住みだからまだ良いんだけど——」

「それ。痴漢、空き巣、ストーカー……。どれも生身の人間がする悪事だからね。——って美咲、聞いてる?」

「え、ああ、うん」


 突然私に話を振られてどぎまぎしてしまう。基本二人の話を聞いているのが楽しくて、私自身が話すことはそこまでないのだ。


「美咲は一人暮らしなんだから、十分気を付けなよ。どんなに治安の良い場所に住んでても、起こる時は起こるんだからね」


 菜々子が真面目な顔してそう言ってくる。お母さんか。

「菜々子ちゃんの言う通りだよ。美咲ちゃん可愛いし、いつもとしてるから本当心配」


 可愛いって言われると照れるけど、二人だってすごい可愛いじゃないか。それに、としてるって——誉め言葉?


「私は、別に平気だよ。としてるって、ただ二人の話聞きながらぼーっとしてるだけであって——」

「それをって言うんだろうがい」


 菜々子が頭にチョップしてくる。地味に痛い。


「先月だって、何度もエアコン切り忘れて電気代馬鹿にならなかったって言ってなかった?」

「うう、そんなことも、あったけど」


 紗耶香が痛いところを付いてくる。大学にいる昼間もずっと稼働中だったというのが何日も続いて、お金の工面に苦労した記憶がある。


「正直、美咲が本当に一人暮らししてるのかも怪しいね。美咲、先生怒らないから、見栄なんか張らないで正直に言ってみなさい」


 菜々子がかしこまってそう言ってくる。どこまで信用されてないんだか。


「私だって、ちゃんと一人で生きていけてるから。エアコンは確かにそんなこともあったけど、あれから消し忘れもないし」

「おっ」

「毎日自炊してるし」

「あら」

「食器だって洗ってるし」

「すごいじゃん」

「玄関の鍵もしっかり閉め、て——」

 唐突に言葉が尻すぼみする。

「美咲、どうした?」

「美咲ちゃん?あれ、もしかして」


 二人が聞いてくるが、私の脳裏はそれどころじゃなかった。


 朝起きて顔洗ってご飯食べて、歯磨いて着替えてメイクして——。


どうしよう。分からない。



「玄関の鍵、閉めたっけ?」






 大学から徒歩十五分の場所にあるアパート。そこの三階、三〇四号室が私の部屋。


 入口のオートロックを解除する。暗証番号は私の誕生日。


 緩慢な動作で開く自動ドアをすり抜けて、エレベーターホールに向かう。エレベーター横の表示は——三階。今上りのボタンを押しても降りてくるまで少し時間がかかりそうだ。


 何だかじれったくて、真横にある非常用階段の方に向かう。たかが三階分だ。良い運動にもなる。最近体重が少し増えた気もするし。


 夜のデザートもそろそろ我慢しないと、などと考えているうちにあっという間に我が家のあるフロアに辿り着いた。少し呼吸を荒くしながら、速足で三〇四号室の扉の前に向かう。


 何てことはない。ただのありふれた玄関だ。クリーム色のドアに金属製のレバー。その真上に鍵の差し穴がある。


 鍵を忘れたわけではない。帰りの道すがら、トートバックの底に埋もれているのを確認済みだ。だが、肝心の「玄関の鍵を閉める動作」をした記憶が、すっぽり抜け落ちている。


 普段半ば無意識的にやっているので気になったこともないが、こうして一度でも脳裏をかすめると妙に気になってしまう。そのせいもあって、この時間受けているはずの授業を切って帰ってきてしまった。菜々子や紗耶香の言う通り、私は一人暮らしなんだ。実家住みならまだしも、都会で十代の女の子が一人暮らしているのに、万が一、があってしまってはしょうがない。


 私は改めてドアに向き直る。文字通り毎日目にしているこの玄関。でも、今の私にとってはその姿が、何だかとても不気味に感じる。


 そっとレバーに手をかける。鍵が閉まっていれば、レバーは大きく動くことなくすぐにつっかえるはずだ。



 カチ



 抵抗を殆ど感じずに、レバーが下まで動き小気味いい音を立てる。


 どうやら、私はやってしまったみたいだ。


 玄関に鍵がかかっていない。


 今朝家を出てから現在まで優に七時間は経過している。もし空き巣にでも入られていたら——。充分あり得る話だ。

 背筋が冷たくなるのを感じながら、私は恐る恐るドアを手前に引く。



 その刹那。



 体中から嫌な汗が噴き出るのを感じる。


 別に幽霊的な何かを見たわけじゃないし。空き巣の痕跡を見つけたわけでもない。


 玄関の、電気が付いているのだ。


 これに関しては、しっかり覚えている。


 私は今朝、玄関の電気を消している。絶対。


 今朝はいつもより少し早く目が覚めて、割と時間に余裕があった。別に何か特別な日というわけではないけど、調子が良かったのでいつもより丁寧にメイクをして、服装にも少しばかりこだわってみたのだ。我ながら上手くできたと思って、玄関先の姿見で確認しようとしたのだが、昨日まで何ともなかったそこの電球がチカ、チカと点滅していた。寿命かな、帰りに替えの電球買ってこないとな、と少し気を落としつつ、電気のスイッチを落としたのを明瞭に覚えている。


 これだけなら私の記憶違いということで片付けることも出来る。実際替えの電球を買い忘れているあたり、私は物事をしょっちゅう忘れる。でも、今目の前で煌々と冷たい光を放っている電球は、明らかにおかしい。なぜなら、我が家の玄関先の電球はもともと、暖色電球だからだ。この部屋に越してきてから地味に気に入っている点で、家に上がると一番に暖かな光が出迎えてくれるのを常々心地よく思っていた。少なくとも、今朝までの光はこんなにも寒色ではなかったはずだ。


 つまり、私が今朝家を出てから今までに、確実に誰かがこの部屋に出入りしているということになる。そして、何故だか分からないが玄関の電気が切れかけていることに気づき、電球を交換してくれた。


 現実感の希薄な事実に、すっかり頭が真っ白になっていた。こんな時どうすればいいのかな。管理会社に電話?でも、実際家に入り込むような変質者なんて、ここらに出たなんて話は聞かないし、変に迷惑かけちゃうかもしれない。というか全部私の思い違いって可能性も捨てきれない。一度自分の目で確かめないことには——。そういえば洗濯物干したっけ。洗濯機の中に入れっぱなしにしているかも。


 そこまで考え、結局私は、一度自分の目で部屋の中を確認してみることにした。自分の目で確かめないことにはどうしようもないし、管理会社に電話しようにも、その管理会社の電話番号が書かれた書類はこの部屋の中にあるのだ。どっちにしろ一度中に入るしかない。


 万が一何かあった時のために鍵はこのまま開けておく。一度玄関の電気を消し、少し怖くなってやっぱりつけ直した。先程と全く同じ寒々とした光が私を照らす。


 私の部屋は七・五畳の一K。大学生の一人暮らしとしては典型的な間取りで、玄関を上がった目の前には短めの廊下にキッチンが付いたスペースがあり、扉を挟んだその奥にリビングルーム。キッチン横の扉を開けると洗面台の置かれた脱衣所があり、その左右にトイレと風呂場が独立している。バス・トイレはどうしても別が良かったので家賃は少々お高くなってしまったが、後悔はしていない。


 私は、恐る恐る上がり框に足をかける。いつでも逃げられるようにスニーカーは脱いでいない。あとで掃除が面倒そうだが、その「あとで」を無事迎えるためにも、今は仕方ない。


 数歩足を進め、改めて視界に収まる私の部屋をまじまじと見つめる。勿論、電気は先程つけ直した玄関のものを除いて一つも灯っていない。後ろから照らされた青白い光と暗く静まり返ったキッチンルームは、普段では考えられないほどの不気味さを放っている。

 ふと私は、視界の隅に違和感を覚える。まるで人魂のように青い炎がちらついた気が——炎?


 私はキッチンの奥に焦点を合わせる。そこでは、ガスコンロから青い炎が勢いよく上がっていた。


 恐怖よりも驚きが勝り、私はあわててコンロの火を止める。スイッチを強く押し込むと、コンロの火は何事もなかったかのように消えた。


「何、これ」


 一人そう呟く。コンロ横のシンクには、フライパンに小皿、菜箸など、今朝私が使った覚えのない料理器具が水に漬けられてある。

 ますます意味が分からなくなった。私が部屋を空けている間、玄関の電球を交換し、部屋の調理器具を使って料理をした——そしてコンロの火を消し忘れた——であろう人間がいる? 恐怖というよりも、驚きと困惑の感情の方が勝ってしまっている。


 私は、お母さんと一緒にガスコンロを購入した日の事を思い出す。確かこのガスコンロは、万が一火を消し忘れたとしても、二時間が経過すれば自動的に消火される機種のはずだ。ということは、このガスコンロは今から二時間以内に点火されたということになる。——それが分かったところで現状は何も解決しないのだが。



 と。



 突然部屋の中を、馴染みのある音楽が流れる。確か、カノンのメロディだったっけ。数秒して、今度はやけに張りのある女性の声で「お風呂が沸きました」というナレーション。


 私は半ば反射的にキッチンに背を向け、脱衣所へと繋がる扉を開ける。


 私は、湯船に浸かるのが好きだ。寒い季節に心身を温めるのは言わずもがな、夏場の今でも例外ではない。冷たいシャワーで汗を流した後温かいお湯に浸かると、体の中の不純物が流されるようで気に入っているのだ。部屋選びの際、ユニットバスがどうしても嫌だったのも、どんな時でもすぐに湯船に浸かりたいが故である。


 けど、私は今日、一度もお風呂のお湯を沸かしていない。それに、お湯を沸かすのにかかる時間は大体一時間かそこらなので、私が馬鹿なことにお風呂を沸かしたことを忘れたという線もない。今から一時間前、私は大学にいた。物理的に不可能だ。明らかに、私が家にいない間に誰かがここにいた。


 その時、ドス、という鈍い音が部屋にこだまする。隣の部屋の住人のものだろうか。その音で私は我に返る。


 もし、私が家を空けている間空き巣なんかに入られたとして。その人間は、もしかしたらまだ私の部屋に居座っている可能性だってあるのだ。立ち去ろうとしたタイミングでちょうど私が部屋に入ってきて、逃げる機会を失ってしまったとか、あるいはもっと単純に、私に見つかった瞬間襲い掛かろうとしている、とか。


 洗面台に向かって右にあるドア。擦りガラスになっているので中の様子は分からない。


 風呂場の中に、変質者が隠れているかもしれない。


 鳥肌が立つ。悪寒が止まらない。


 心臓の音が、うるさい。

 



「ぎやああああああああ」




 人間らしからぬ金切声を上げながら、思い切り風呂場のドアを蹴り飛ばす。


 数秒の沈黙。


 今度は恐る恐る風呂場を覗き込む。


 一人暮らしの風呂場なんてそんな大層なものではなく、一目でその全景は視野に収まる。——特に異常はないようだ。


 続いて湯船の蓋を思い切り開ける。そこにはお湯に浸かった裸の男性が——なんてことはなく、いつも通りの、湯船。暖かな湯気が体に纏わりつく。


 私は大きく深呼吸する。とりあえず安全圏は確保した。後は同じように、他の場所を確認して回ろう。残るはトイレとリビング、後はベランダの三か所。今すぐにでもシャワーを浴びて汗を流したいが、少し我慢だ。


 意を決して、私は風呂場から脱衣所へと戻る。その時だった。



 トートバックの中から、無機質な着信音が鳴り響く。


 一瞬驚いてから、私はトートバックの中に手を入れ、スマホを取り出す。


 画面を見る——表示は、非通知。


 こんな時に非通知からの電話とか、タイミングが悪すぎる。


 どうしよう。出るべきだろうか。


 普段なら無視するところだけど、タイミングがタイミングなだけに何かしら関係のある電話かもしれない。


 そうこう考えている間にも着信音は鳴り続ける。何度も耳にしたこの旋律も、今日はやけにおどろおどろしい。


 情報が欲しい。この不可解な状況に説明を付ける、何でもいい、何か手がかりが欲しかった。


 半ばやけくそで応答のマークを押し、スマホを耳に当てる。

 


沈黙が続く。

 


『あれ、もしもし、繋がってる?』


 沈黙を破ったのは、相手の聞き慣れた声だった。


「……もしかして、お母さん?」

『ああ美咲、良かった出てくれて。そうです、あなたの愛しのお母さんです』


 普段通りの快活な——悪く言えば絡みの面倒な——お母さんの声に、私はほっと胸を撫で下ろす。


「突然どうしたの?非通知って出てたけど」

『そうなのよ、実はちょっとスマホ無くしちゃってね。今は公衆電話からかけてるの。だから美咲が出てくれて本当助かったわ』


 先程とは一転、しんみりとした声色でそう語り掛けてくる。電話越しに、困り顔を浮かべたお母さんが頭に浮かぶ。


 と、私はふと疑問に思ってお母さんに尋ねる。


「え、でも、スマホ無くしたからって、なんで私に電話かけてきたの?私の家にあるわけないじゃん」

『そう、普段ならそうなんだけどね、今日はちょっと事情が違うのよ』


 突然お母さんが意味深な事を言ってくる。


「何それ、どういうこと」

『どういうことって、簡単なことよ』


 さも当たり前の事のように、お母さんはこう続けた。


『さっきまで私、美咲の家にいたんだもの』

「え」


 お母さんが今日、私の家にいた……?しかも、ついさっきまで?


 点と点が一本の線となっていくのを感じる。


 そうだよ。何も玄関の鍵を開けられるのは私だけじゃない。


「え、じゃあ、お風呂のお湯が沸いていたのは」

『私がやりました。ほら、美咲、湯船いつも入ってたでしょ?大学帰ってきてからすぐに浸かりたいかなと思って』

「コンロの火がつけっ放しだったのは?」

『あら、火消し忘れてた?駄目ね、私ももう年かも。——あ、そうよ、冷蔵庫見たら色々使えそうなものあったから、少し料理させてもらったの。大したものは作ってないけど、少しは腹の足しになるでしょ』


 お母さんのその言葉を聞きながら、私はそそくさと脱衣所を出、キッチン横の冷蔵庫を開ける。中には和え物や卵料理などがいくつか、タッパーに入れられ並べられていた。


『今日は少し暇でね、それに天気も良いでしょ。美咲の家も、別に行けないってほどの距離じゃないから、思い切って来ちゃったの。日頃の生活チェックも兼ねてね。家にいなかったのはちょっと予想外だったけど、そりゃ今日平日だもんね。サボっていないってわかっただけでも私は大満足。ついでに掃除とかさっき言った料理とかちょっとだけして、今家に帰っているところ』


 確かに私の実家は遠いところにあるが、来れない、という距離感でもない。電車で二時間ほど揺れれば来れるはずだ。車ならもっと早いだろう。それでもやっぱり、遠いことに変わりはない。わざわざ長い時間をかけて来てくれるほど、お母さんが私のことを気にかけてくれていたことが純粋に嬉しかった。


 部屋を掃除して、料理もして。満足したお母さんはきっと、コンロの火同様に玄関の鍵を閉めるのを忘れてしまったのだろう。この娘にしてこの母あり、だ。


『あ、そうそうそれでね』


唐突にお母さんが話し始める。


「何?」

『それで私、スマホを美咲の家に忘れちゃったみたいなの。ちょっと探してもらえないかしら』


 そうだった。最初にお母さんが言っていた。


「うん、わかった」


 そう言いながら、私は冷静な足取りでリビングへと向かっていた。先程まで胸を支配していた恐怖はすっかり消え去っていた。


「心当たりとかない?闇雲に探しても良いけど、多分時間かかっちゃうよ」 


 扉を開け、リビングへと歩みを進める。特段広くも狭くもない縦長の一室。中央にローテーブル、それを挟んでソファとテレビが置いてあり、手前にはクローゼット、奥にはベッドが備え付けられている。ベッドの横の窓ガラスを抜けるとベランダに出られる。


『そうね、洗濯物取り込んだ時かしら。ベランダの室外機の上に置いてない?それか、クローゼットの中は?洗濯物畳んでしまった時にどこかに置いたのかも』


 良かった。どうやら私はちゃんと洗濯物を干していたみたいだ。


 言われた通り、まず私はベランダに出、室外機の上を確認する。続いて室内に戻り、観音開きのクローゼットを全開にする。


「どっちも見たけど、ないね」

『あら、そう。うーん、他に私、何したかしら』

「ていうか、ごめんね。洗濯物まで畳んでもらっちゃって」


 気づくとそう言葉にしていた。流石に至れり尽くせりで、申し訳ない気分になる。


『いいのいいの。私も久しぶりに娘の服畳めて楽しかったわ』


 調子よくお母さんはそう口にする。


 私は思考を巡らす。お母さんにこれだけ色々やってもらった以上、私もこの恩を返したい。


 私なら、私ならいつも、スマホをどこに置いているっけ——。


「あ」

『美咲?どうしたの?』

「私、分かったかも」


 ちょっと待って、と言い残し、私はスマホをローテーブルに置く。そして、今度はベッドに向かうと、ヘッドボードとマットレスの隙間に手を突っ込む。——あった。


 お母さんのスマホを片手に、私はローテーブルに置いた自分のスマホを再び手に取る。


「お母さん、あったよ」

『あ、本当?良かった。どこにあった?』

「ベッドの隙間に落っこちてた。お母さん、スマホ充電してたでしょ」

『あー確かに、言われてみればそうね。たまたま目に入るところにケーブルがあったから——』


 私の部屋のベッドはコンセントが付いているタイプで、スマホの充電はいつもそこでしていた。私もこれまでに、スマホを電源に繋いでベッドに置いておいて、気づいたらスマホがマットレスの隙間に入り込んでいた、という経験が何度かあったのだ。


『本当ありがとうね。明日また取りに行くから、それまで預かってもらえる?』


 そう言うお母さんに、私は二つ返事で快諾する。スマホを一日預かるくらいお安い御用だ。


「こちらこそ本当にありがとう。夜ご飯、久しぶりにお母さんの手料理食べられるからワクワクする」


 すっかりリラックスして、私はソファに深く腰掛ける。ずっと履いていたスニーカーも、足を勢いよく降って脱いでしまった。


 エアコンの電源を入れる。冷たい風が、汗ばんだ私の体に吹き付ける。


「それに、お風呂を沸かして、玄関の電球まで変えてくれるなんて、本当気が利くよ。流石、私のお母さんだね」

『え、ちょっと待って。最後なんて言った?』

「え、だから、玄関の電球変えてくれたでしょ。私今日帰り買い忘れちゃったから——」

『そんなこと、私してないわよ』

「え」




 え?





『確かに美咲の家入った時、玄関の電気切れかけてたわね。でも私、それについては特に何もしてないわよ。そんな、遠く離れた家の電球が切れているかなんてわかる訳ないじゃない。そんな超能力、流石の私も持ってないわよ。ストーカーでもあるまいし——』



 お母さんの話し声が耳元で聞こえる。

 


『あ、美咲ごめんね。そろそろ私のお財布の小銭が切れそう。大量に貯めてた十円玉消費出来たのは良いけど、そろそろ時間来ちゃうかも。スマホの件、よろしくね。くれぐれも戸締りには気をつけなさいよ——』



 プツ、と音が鳴り、その後ツー、ツーと通話が終了したことをスマホが伝える。




 じゃあ誰が。

 


 誰が、玄関の電球を交換したの?



 急速に体温が下がっていく。鼓動が早まる。体を動かしてもいないのにいつの間にか息が切れていた。




 静まり返った部屋の中で、エアコンの駆動音だけが密かに音を鳴らす。



 と。



 気づいてしまった。



 まだ一か所だけ、部屋の中で確認していない場所がある。




 脱衣所にいた時に鳴った鈍い音。隣の住人かと思ったけど本当はもっと近くに——。




 今朝の出来事、菜々子や紗耶香との会話、さっきお母さんが言っていたことが頭の中で引っ切り無しに渦巻く。



 そんな、まさか。





 その時だった。



 私は顔を真横に向ける。




 カチャ





 玄関の鍵が、閉まる音がした。





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玄関の鍵 小森秋佳 @Shuka_Komori

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