前略、匣の中から

神崎あきら

前略、匣の中から

 もうかれこれ一時間はここに閉じ込められている。

 

 電車が遅れ、約束の時間に間に合うかの瀬戸際だった。今月のノルマが達成できるかどうかの大事な商談だ。リース切れのコピー機を三年延長してしぶとく使っていたが、気難しい専務がようやく新商品の話を聞く気になったと電話をしてきた。


 約束の時間は午後三時。

 改札を飛び出し、客先のビルまで必死で走った。慌てて飛び乗ったエレベーター。時計を見れば、午後二時五十八分だ。


 ギリギリ間に合った。藤岡は安堵の溜息をついて、五階のボタンを押す。

 閉まりかけたエレベーターのドアがゆっくりと開いた。若いサラリーマンが乗り込んでくる。一秒でも惜しいのに、藤岡は心の中で盛大な舌打ちをした。サラリーマンは八階のボタンを押した。これ以上来るなよ、と藤岡は閉ボタンを力一杯押す。


 ドアは閉まり、エレベーターは上昇を始める。

 二階、三階と電光表示が切り替わっていく。いよいよ五階だ、藤岡はポケットの名刺を確認する。カバンの中に入れた資料と見積書もある。ネクタイを締め直し、五階に到着するのを待つ。


 突然、エレベーターがガタンと大きく揺れて停止した。激しく点滅した直後、天井の電気も消えて狭いエレベーター内は真っ暗になる。

「一体何だ」

 暗闇の中、藤岡は狼狽する。エレベーターが止るとは、地震でも起きたのだろうか。藤岡はスマートフォンを取り出し、ブラウザを開こうとしたが電波が届いていないらしく、ネットに接続できない。


「どうなっているんだ」

 藤岡は苛立ち、大きな声を上げる。

「落ち着きましょう、きっとメンテナンス会社が連絡をくれますよ」

 サラリーマンは動揺する素振りもなく、穏やかな声音で藤岡を宥める。パチッと音がして天井の非常用電灯がついた。


 藤岡は初めて同乗者の顔を確認した。年の頃は三十歳手前だろうか、細身で大人しそうな青年だ。スーツの肩が余り気味のためか、ずいぶん貧相に見える。

「私はこのあと商談があるんだ、ああ、もう三時を過ぎている。まいったな」

 藤岡は頭を抱える。青年は無反応のままその様子を見つめている。


 ドア横のパネルに非常用ボタンがある。藤岡はボタンを押す。よく見ると、押し続けてくださいと説明書きがあった。藤岡はボタンを連打する。

「おい、閉じ込められた。早くどうにかしてくれ」

 物言わぬスピーカーに向かって藤岡は大声を上げる。しかし、何の反応もない。


「もし、地震ならいろんな場所でエレベーターが停止しているかもしれませんね。それなら連絡がつくのは時間がかかるかもしれません」

 青年は呑気に構えている。藤岡は狭い箱の中でストレスにさらされた動物園の大型獣のようにうろうろし始める。


「お急ぎのようですね」

「ああ、そうだよ。三時からここの五階にある客先で商談の約束があったんだ」

 藤岡はまた時計を見る。三時二十五分。絶望的だ。しかも、スマートフォンも電波が届かないため、おたくの目の前まで来ているがエレベーターに閉じ込められていると説明もできない。


「遅れたことには理由があるじゃないですか」

 藤岡は青年の顔を見やり、首を振る。

「ここの客は気難しいんだ。特に時間にうるさい。エレベーターが停止したって理由にならない」

 物品購入のキーマン田島専務は脂ぎったバーコード頭にタバコのヤニで黄ばんだ眼鏡をかけ、いつも鼻毛が一本飛び出している。こんなクソジジイに頭を下げたくはないが、売上ピンチの今月の一台は大きい。


「そんな客にものを売っても後から面倒なだけじゃないですか」

 青年はつまらなそうに言う。

「そう言われてみればそうかもしれん、しかし今月の売上を稼ぐには頭を下げるしかないんだ」

「目先の利益のためにずっと頭を下げることになってもいいんですか」

 藤岡は言葉に詰まる。青年の意見は正論だ。


「言い過ぎました。ノルマに追われるあなたの立場はよく分かります。ぼくも営業マンです。毎日上司に怒鳴られて、終電まで残業して、いいことなしですよ」

 青年は力無く笑う。

「こんな災難に遭うなんて縁が無かったのかもしれないよ。破談になったらそれまで、君の言うとおり横柄な客と付き合うのはよそう」

 藤岡は肩の荷が下りた気がした。


「たまには上司に言い返してやればいい。君は大人しそうだからきっと言いやすいんだ」

 藤岡はしゃがみこんでエレベーターの壁にもたれる。

「それができればいいけど。でも、怖いんです。声が大きいし、机を殴るし見積書を投げつけられたことも。顔を見るだけで動悸がして、目眩がするんです」

「そりゃ随分なパワハラ上司だな」

 前時代的だが、今でもそんな上司がいるのか。藤岡はひ弱な青年を憐れに思う。


「そこまで追い詰められてるなら、思い切って行動を起こしてもいいんじゃないか」

 真っ当な企業ならコンプライアンスによりパワハラへの対策を講じるはずだ。

「ぼくに出来ますか」

「ああ、そんな横暴な奴に頭を下げ続けることはないだろう」

 藤岡の言葉に青年は無言で低い天井を見上げた。


 エレベーターに閉じ込められて一時間が経った。


 不意にガタン、と音がしてエレベーターは上昇を始めた。ポンと軽い電子音とともに、ドアが開く。藤岡は慌ててエレベーターを降りる。青年を乗せたままエレベーターの扉は静かに閉まった。


「田島専務」

 廊下に出てきた専務を見つけ、藤岡は背筋を正す。田島は時計と藤岡の顔を見比べ、口をへの字に歪める。

「約束は三時だったと思うが、私の勘違いかね」

 案の定、へそを曲げている。藤岡は背中に嫌な汗が流れ落ちるのを感じた。


「すみません、エレベーターが止まっていて遅れました」

 藤岡は反射的に思い切り頭を下げる。ああ、営業マンの悲しい習性は簡単には治らない。

「ほう、エレベーターがね。階段を上れば良かったんじゃないか」

 それは結果論ではないか。何を言っているんだ、こいつは。藤岡は頭を下げたまま顔を歪める。お前の会社がこんなボロいビルにあるのが原因だろう、と叫びたいのをグッと堪える。


「今回の話は無しだ。私はこれから会議があるのでね」

「そ、そんな。せめてカタログだけでも」

 藤岡はあわててバッグを探ろうとするが、田島はそっぽを向いて去って行く。


「なんだ、君は」

 背後で田島が叫ぶ声がして振り返る。目の前に先ほどの青年が立っている。おもむろにチャックを下ろして放尿し始めた。

「うわ、何をする。やめろ」

 田島が頓狂な声を上げる。田島のズボンを勢いのよい小便が濡らしていく。藤岡は唖然としてその情景を眺めている。


「エレベーターが止まってたっていってるのに、あんたアホだよ」

 青年は捨て台詞を残して階段を駆け上がる。藤岡は我に返って青年の後を追った。

「貴様らグルか、ふざけるな、出入り禁止にしてやる」

 田島の怒声が小さくなっていく。八階まで階段を上るとそこは物置になっていた。奥に扉が見える。


 扉を開き、外に出た。

 ひび割れたコンクリートの屋上だった。藤岡は眩しさに目を細めた。目の前にあの青年が立っている。息を切らしながら真っ青な空を見上げていた。

「君、いったいなんであんなことを」

「ぼく、ここで自殺しようと思ったんですよ」

「なんだって」

 藤岡は目を見開く。


「さっき話した通りですよ。パワハラ上司のせいで身も心もボロボロ、たまたま見つけたこのビルに上司の名前がついていた。だから当てつけにここから飛ぼうと思ったんです」

 でも、と青年は続ける。

「思い切って行動を起こしてもいいんじゃないかってアドバイスをくれた」

 青年は清々しい顔で微笑む。何かをやりきった顔だ。


「それが嫌な奴に小便かけることなのか」

 会社のしかるべき部署にパワハラの実情を訴えたらどうか、というつもりだったのだが。そもそも人の客になんて事しやがる。藤岡は呆れている。

「時間を守らなかったことより嫌な目にあって、悪い印象が薄れますよ」

「それ本気か」

 藤岡はおかしくなって吹き出した。青年もつられて笑う。


「商談は諦めがついたよ。他を当たることにしよう」

「ぼくも会社に実情を伝えます」

 藤岡は名も知らぬ青年と熱い握手をかわす。エレベーターで過ごした一時間で二人に奇妙な友情が芽生えた。


「こんなビルとはおさらばだ」

 藤岡はドアノブを捻る。しかし、ドアは開かない。鍵がかかっている。何故だ、さっきは開いていたのに。

 すりガラスの向こうにバーコードのシルエットが見えて、藤岡は青年と顔を見合わせた。どうやらピンチはまだ続いているようだ。


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