思いに触れる

帆尊歩

第1話

どうぞこちらの席へ、

妻が座っていた席ですが、この白いテーブルと椅子は妻が選んだんですよ。

だから何だか女性が好きそうな感じでしょう。

どうぞ、アイスコーヒーも飲んでください。

妻が好きだった、僕特製のアイスコーヒーだから。

ちゃんと豆をひいて、入れたんですからね。

美味しい、美味しいって言って、飲んでいたけれど、本当の所はどうだったことやら。

だって、僕のアイスコーヒーを飲むとき以外は、みんな砂糖を入れていたのですよ。


どこまで話しましたっけ。

ああ、諏訪湖の花火大会でしたね。

諏訪湖花火大会は、湖上での打ち上げで、二時間で四万発、もの凄い規模の花火大会なんですよ。

諏訪湖自体は、諏訪盆地の中にあり、茅野、上諏訪、下諏訪、岡谷で構成される土地で、四つの町を会わせて人口二十万人、最近は二十万人を割るかもって大騒ぎしていますがね。

ところが、この花火大会でこの諏訪湖周辺に、二十万人が集まる。

それはもう大変な賑わいで、と言うか賑わいというか、ほとんど寿司詰めの状態です。

だって、人間が普段の倍になるんですから。

でも、諏訪湖花火大会は死んだ妻との最後の思い出だった。

元々諏訪湖上花火大会は、戦没者鎮魂のために始まったんです。

だから死んだ妻に会えるんじゃないかってね。

お盆には迎え火をした。

帰って来るのかと思ったら、帰って来やしない。

なんか、ロウソクが自然と消えるとか、仏壇に供えた水が減るとか、金縛りにあって枕元に彼女が立つとかしてくれても良いじゃないかなって思っても来やしない。

いい加減頭にきて、こっちから行ってやろうと思いましてね、

で、諏訪湖の花火大会に行って来たんですよ。

彼女との最後の思い出だったんで、彼女もあっちの世界から来るんじゃないかなって、だから大変でしたよ。

暗い花火の会場を歩き回って、別に本当に会えるなんて思っていないんですよ。彼女を感じられたらそれでいい。

彼女の思いに触れられたら、それで十分。

あの暗闇を歩いていたら、感じられるんじゃないかなって、別にくどいようですけれど本当に会えると思っているわけじゃない。イヤ会えたら良いですけれどね。

でもそんな贅沢は言わない。

死んでしまった彼女の思いに触れられさえすれば、それで十分。

だから人混みの中を散々歩きましたよ。

花火も見ずにね。

おかしくないですか。わざわざ、めちゃ込みの諏訪湖周辺まで行って花火見ないなんて、どこの物好きだよってね。

それだけ僕の怒りは頂点に達していました。

こんなに会いたくて、諏訪まで行ったのに、思いに触れることすら出来ないなんて。

多くを望んでいるわけじゃないんですよ。

彼女の思いに触れさえすれば良いだけなのに。

全く、せっかく諏訪まで会いに行ったんだから、出てきても良いんじゃないかって。

今度会ったらそんな不義理する女なんて、離婚だぞって言ってやろうかと、思いましたよ。まあ死んでいるから、法的には離婚は出来ないかもしれないですけれどね。

あっ、離婚は脅しにならないか。

でも人として・・・。ああ、もう人でもないか。

イヤイヤ、仏になっているなら余計慈悲深くなっているでしょう。

出てこいよ、って感じですよ。

えっ、で結局会えたのかって?

だから、会えませんでした。

彼女の思いに触れる事も出来ませんでした。



(アイスコーヒーは、妻のお気に入りだった、珪藻土のコースターの上で盛大に汗をかいていた)

もう完全に氷が溶けてしまっていますね。

ああコーヒー、飲んでいないですね。

ぬるくなりましたね。

氷入れましょうか、あっ、薄まるか。



あれ、僕は今まで誰と話していたんだ。

アイスコーヒーは誰かが飲んだ形跡がない、イヤそこの椅子に誰かが座っていた形跡もない。

うん、僕はいったい誰と話していたんだ。


君なのか?

何だ会いに来てくれていたのか。

何だよ、散々僕に諏訪湖の話をさせて、会いに来てくれていたなら、そう言ってよ。恥ずかしいな。

じゃあ、なに、僕は君の前で、諏訪湖に会いに行ったのに、君が一向に出てこないと言って、散々悪態をついていたのか。

恥ずかしいな。


でも何だね、君の思いに触れるためには。

別に諏訪湖まで行かなくても良かったんだね。

まったくもう。君の思いに触れるには、そんな遠くに行かなくても、君の好きだった、そのテーブルと椅子、そして珪藻土のコースターのあるこのリビングで良かったんだね。

君はずっと僕の横で、思いをふりまいていたんだね。

僕が、それに気付かなかっただけなんだね。

こんなに近くにいたなんて。

(そして僕は、誰もいない君の好きだった椅子をあたかも君がいるかのように、見つめた。

氷の完全に溶けた、結露だらけのアイスコーヒーのストローの口から

結露ではないコーヒーのしずくが、一滴おちた。

それはまるで、誰かが一口飲んだかのように)

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思いに触れる 帆尊歩 @hosonayumu

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