010.有言実行少女

「放課後!放課後よっ!颯!!」


 ノート真っ白なまま終わってしまった英語の授業。

 そこから数時間経過した放課後。生徒の誰しもが歓喜に震えるであろう開放の時間早々に、彼女はこちらへと駆け寄ってきた。

 まるで早く帰ろうと言わんばかりに、バッグを肩に担いで眼の前にやってくる柚菜。その様子はなんだか『散歩』と言った時足元で飛び回るポンみたいだなと思いつつ、チラリと見るだけに留めて視線を机へと戻す。


「あぁ、そうだな」

「放課後なのに何やって……って、英語?」

「ちょっとノート取ってなくてな……」


 俺が放課後になってまで机上に目を落としている理由……それは英語のノートを書き写しているためだった。

 昼前に真っ白なまま終わってしまった英語のノート。何一つ成果が得られなかった事実に絶望しているところに差し伸べられたのは、冨永さんの手だった。握られていたのはシッカリ丁寧に授業内容が書かれた英語のノート。

 まるで天使のような行い。彼女の懐の深さと聖母のような笑みに俺はただただ平伏するしかなかった。天使は狭川先輩も含めて二人いた……?


 そんなこんなでノートを借りた俺は一心不乱に右から左へ内容を書き写していく。

 他の授業だったらこうはいかない。復習しかなかったし無視すればよかっただろう。しかし提出義務があるならば話は別だ。明日も授業があることを考えると今日中に仕留めなければならない。

 だからこれが終わるまで構っていられない。一心不乱に手を動かしていると、頭上から「ふ〜ん」とつまらなさそうな声が聞こえてくる。


「誰かから借りたの?あたしに言ってくれればいつでも貸すのに……」

「ちょっと話の流れでな。それよりも見てみろよこれ。凄いわかりやすいぞ」

「ほんとぉ……?……えっ、なにこれ……注釈がいっぱい!」


 不満げな顔をしていた柚菜だったが、俺が差し出したノートを目にすると食い入るようにそれを覗き込む。

 冨永さんが貸してくれたノート。それは板書された内容に加え、端には独自の注釈が数多く書かれていた。

 単語の他の意味、テストの頻出箇所、やりがちな間違いなど、これ一つ読むだけで授業以上のことが理解できようかと思うほど。それはただ無心で黒板を書き写す俺とは天と地ほどの差を実感させられるものだった。


「な、見やすいだろ?あんまり話したこと無かったけど、冨永さんって勉強できるんだな」

「冨永さんか……。颯ってば知らなかったの?彼女って全国模試でも結構上のほうよ?」

「……マジか」

「えぇ。中学でも色々表彰されてたけど……」


 マジか。知らなかった。

 確かに誰かが表彰されてるなってのはあった。けれど友達も居ないし関係ないだろうといつも右から左で話を聞き流していたから全然気付かなかった。


「まぁ、ともかくそういうことだ。だから帰るのが遅くなりそうだ。なんなら先帰ってもいいぞ」

「ううん、あたしもここで待つ。颯と一緒に行きたい所もあるしね」

「……そうかい」


 俺とともに残ると決めた彼女は前の席を借りて椅子を180度回転させる。

 今回はどこに連れて行かれるのだろう。そんな事を一瞬考えるも、まぁいつものことだしと早々に思考を置いてノートに集中する。


 しかし柚菜よ、やはりそのキャラを続けていくのだな。

 結構な頻度で素が出る分、違和感が半端ない。頑張っているのは分かるんだが……。

 スッと空いた手をポケットに突っ込むとクシャリと小さく音がなる。それは授業中冨永さんに渡された一枚の紙切れ。本当にこれを言うのか……?どうしようかと決めあぐねていると、彼女の指がスッとノートの上に示された。

 ちょうど写し元のノートが袖に隠れて見えない。仕方なく指先へと目を向けると、さっき書いていた英文を示していた。


「颯、ここ。この単語の綴間違ってる」

「えっ、ウソっ。どれ?」

「この"acheive"ってとこ。iとeが逆になってるわ」

「…………ホントだ」


 示されたのはよくよく見なければわからないミス。確かに貸してくれたノートと見比べればその違いは明瞭だ。

 よくこんなの気づいたな。そう思って顔をあげると「あたしも同じミスしたから……」と頬をかきながら恥ずかしそうに答えていた。

 なるほどね、それは柚菜でも気付くなと思いつつ急いで間違いを直していくと、不意に彼女の手がそのまま真っすぐ伸びていって俺の頭に触れられる。


「まったくそそっかしいんだから。そんなに急がなくてもあたしはちゃんと待ってるわよ」

「ちょっ……!?柚菜っ……!?なんで急に撫で……撫でるな……!」

「え〜?嬉しいくせに~」

「うれしくないっ……!ほら、写し終わったからこの手も終わり」

「ぶ~」


 「うりうり〜」と楽しそうに撫でてくる手に耐えながらも、なんとかノートの書き写しを終えてみせた。

 終わっても未だ撫で続ける手を無理やり掴んで机の上に置くと、その膨らんだ口から文句の一つでも飛び出してくる。まだ多くの人が残ってて恥ずかしいんだっていうのに……。ほら、チラチラこっち見てきてるじゃないか。

 普段なら人前でこういう事をしてこないのだが、今日の柚菜は人目も憚らず撫でてくるなど随分と上機嫌だ。なにかいい事でもあったのだろうか。それともこれから楽しみなことでも待っているのか?


「ほら、もう終わったし帰るぞ」

「むぅ……もうちょっと遅かったらポンちゃんみたいにワシャワシャしてあげたのに……」

「俺を殺す気か」


 もちろん、恥ずか死的な意味で。幼馴染とはいえクラスメイトにやられるとか羞恥心で死んでしまう。

 文句が止まらない柚菜を放っておいて一人机の上を片付けて変える準備をする。広げていたものは机の中にポイして借りたノートは事前に言われていたように冨永さんの机にしまう。


 さて暗くなる前に帰るか。今日は特に用事も……って、そういえば途中柚菜がなんか言ってたな。


「そう言えば柚菜、さっきどこか行くって言ってたよな。どこ行くんだ?」

「えっ?あぁうん、ちょっとスーパーにお夕飯買いに行こうかなって」

「なんだ、街じゃなくて買い物か。しゃーない、荷物持ちになってやるか」


 わざわざ行きたいところなんて言われたからどんなところかと思ったが、どうやらただの買い物らしい。

 柚菜は非力だ。だからお米とか牛乳とか重いものを買い込む時は度々俺とともにスーパーにいく。しかし俺もあまり体力に自信ないからどっちがマシか程度の話で結局俺も夜には筋肉痛となるのがお約束だ。

 筋肉痛が嫌なら逃げるという選択肢も考えられるのだが、よく柚菜のご飯を御馳走になっている以上断ることもできやしない。いつも俺好みの料理を作ってくれるからね。仕方ないね。


 善は急げだ。曇り空だし雨が降る前に事を済ませておきたい。

 そう考えてさっさと教室を出ようとするも、柚菜はスマホをイジっていて動く気配がない。


「何スマホいじってるんだよ柚菜、さっさと行くぞ」

「あ、待って颯!さっき颯ママから連絡あって伝えることが……!」

「母さん……?」


 母さんが柚菜に?一体どうしたのかとおもって自らのスマホを取り出すもこちらには何も連絡が来ていない。

 一体どうしたのだろうと振り返ると、彼女はいそいそと荷物をまとめて近くへ駆け寄ってくる。


「おまたせっ!さ、行こ!」

「あ、あぁ。それで母さんがなんだって?」

「うん、それがね、今夜楓ママが――――」

「あぁよかった。二人ともまだ居てくれたのね」


 ちかくに駆け寄った柚菜とともに俺たちは並んで教室を出ていく。


 ――――しかし、廊下に足を踏み出した瞬間、聞き覚えのある声がかけられた。

 一体誰か、考えるまでもない。だってつい最近も聞いた声だから。凛としつつも優しさをも感じる女性の声。その声に顔を上げると、銀の髪をたなびかせた少女が今日もまた廊下に立っていた。

 走ってきたのか肩は若干上下に動いている。昨日の今日でどうしたのだろう。忘れ物や落とし物はしていないはずだ。深く息をする彼女に俺たちは疑問を投げかけた。


「狭川先輩?どうしたんですか?こんなところまで

「ごめんね帰る所に。昨日言ったでしょう?さっそく来ちゃった」

「さっそく…………」


 優しげな顔で顔をジッと見つめるのは憧れの先輩である狭川先輩。

 その表情は「有言実行」と言わんばかりの笑顔。そして、段々と茶目っ気たっぷりな顔に変わっていき、手を差し伸べる。


「言ったでしょう?あなたは私の"運命の相手"だって。それじゃ、さっそくデート……行きましょ?」


 パチンと可愛らしくウインクする狭川先輩。その表情はイタズラ心たっぷりの笑顔。この表情を目に収めたのは俺と柚菜しかいない。

 ここは帰る者も数多くいる学校の廊下。直後、真意など知る由もない生徒たちから驚きの声が空間を大きく震わせるのであった。

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恋バナはモーニングコーヒーの余韻で 春野 安芸 @haruno_aki

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