009.授業中の密談

 なんてこと無い日常が、今日もやって来る。

 前方には教員が一人、黒板に背を向けて熱弁を振るっていた。今は英語の授業。初回授業ということを鑑みて今日の内容の大半は中学の復習で構成されていた。

 少し記憶の奥底にやっていたとはいえ既に習った内容、学んだことを再びされるとただでさえ眠い毎日の授業睡眠導入が更に加速してしまう。

 その上この時間は午前最後の授業だ。生徒たちみんな、お昼に向けて気もそぞろになってしまっていることだろう。

 トドメはこの暖かな光だ。春の陽気を体現するかのような暖かな陽の光。優しく、ふわりと包み込むように差し込んでくるそれは俺の耐眠ゲージをゴリゴリと削っていく。むしろ眠っていないのが奇跡なほどだ。それは高校初日の授業という精神料でなんとか持っているに過ぎない。


 高校初日。

 正確には二日目だが、授業開始という意味では初日の今日。

 あれだけ暇を持て余していた春休みが、今や恋しく思うくらいに面倒な授業を俺たちは受けていた。

 辺りを見渡せばクラスメイトたちはみな真剣にノートへ書き込んでいて『頑張ろう』という気が感じ取れる。俺もそうだ。高校に入って頑張ろうと確かに思っている。しかし人間の欲求というものは意気込みとは違ったところから湧き上がってくる。

 睡眠。三大欲求の一つ。春休みに自堕落な生活をしてきたツケが今来ているのだろう。毎朝のコーヒーを飲んでも眠い瞼をこすりながら、他の生徒たちと同じく板書された文字をノートに書き込んでいく。

 しかしこれだけ眠いとそろそろ潰れてしまいそうだ。誰かと話でもできれば……せめて朗読やディペードなど、英語らしく口を動かす機会があればよかったのだが―――――


「………ねぇ」


 コックリコックリ。黒板に書かれた文字を一心不乱にノートに書き写しているうちに、カクンカクンと首が上下に揺れているさなか、ふとそんな声が聞こえた気がした。

 先生に眠ってるところを指摘されたのか!?そう思ってバッと顔を上げるも、肝心の先生はこちらに背を向けて何かを書いている様子。


 気のせいか……?

 とりあえず最悪な状況じゃなかったことに肩を撫で下ろし、真っ白なノートを見る。どうやら一心不乱に書いてたのは夢の世界の出来事だったようだ。未だ何も書かれていないノートに軽く絶望しながらもようやく一文字目を書こうと手を付けたところで、再び何者かの声が俺に投げかけられた。


「ねぇ……藤田くん」


 再び聞こえる俺を呼ぶ声。どうやら聞き間違いでは無かったようだ。

 声の方向に目線をやれば隣に座る冨永さんが手を口元に添えながら小声で話しかけて来ていた。


 冨永さん。中学のクラスメイトで業務連絡するくらいの知り合い。

 眼鏡の先に見える瞳がこちらを控えめながらも間違いなく俺を捉えていて、先生から見えないよう隠れながら少しだけ身体を彼女に近づける。。


「……どうした?俺が寝てる時、先生に目付けられた?」

「動かないなと思ってたら寝てたんだ……。ううん、そんなことないよ」


 よかった。そっちの心配はなさそうだ。

 なら他に何か理由があるのだろうか。


「じゃあどうした?忘れ物?」

「それも大丈夫……。その、聞きたいことがあって……昨日のことについて」

「昨日っていうと……狭川先輩のこと?」

「うん。"あの"狭川先輩とデートしたってクラス中もちきり……だよ?」


 そっか、そんなにか。

 確かに相手はあの有名な先輩、そして入学早々拉致……もとい一緒に何処かへ行ったら噂も立つものだろう。しかしデートは心外だ。俺も最初はそのつもりだったがしっかり柚菜も居ただろうに。


「別にデートじゃない。落とし物受け取るついでにちょっとお茶しただけ……ってか、そもそも今話すことか?これ」

「ごめんね。休み時間はその、……がいるから」

「いるって誰が?」

「……一ノ瀬さん」


 柚菜がいるから?別にそんなの気にせず普通に話せばいいのに。


「アイツがいるから?もしかして柚菜と喧嘩したとか?」

「う、ううん!そんなことないよ……!前から良くしてくれてるし。ただその……ね?圧が……」


 はぁ……圧?

 あの小動物みたいな柚菜から、圧?

 フワフワの権化みたいなやつなのに。まだポンのほうが圧あるぞ。


「ごめんね。突然気を悪くするようなこと言っちゃって……!」

「別にいいけどさ……。まぁ、狭川先輩のことだったな。あの後柚菜も連れて3人でお茶して帰っただけ。噂みたいにデートとかそういうのは一切なかったぞ」


 夢のこととかは言えやしないけどな。

 まず信じてもらえないし、信じたとしても限りなく心象は悪くなるだろう。


「そ、そうだよね……!藤田くんには一ノ瀬さんがいるもんね……!」

「いや別に、柚菜とは付き合ってるわけでもないぞ?」

「えっ……うそっ……!?」

「えっ?」

「えっ……?」


 ……なんだか俺たちの間に微妙な空気が流れる。

 いやまぁ、そこ驚くとこかな?中学時代、男子連中には度々からかわれて適当に否定してたりもしたのだが、彼女の耳には入っていなかったのだろうか。


「えっとその、藤田くん、付き合ってないの?」

「あぁ。てっきり中学の頃聞いていたかと」

「ううん、初めて知った……。そっか、付き合ってないんだ……」


 確かに俺達は常に一緒にいるからそう間違われることも度々ある。でも中学後半では何も言われなくなったから、てっきり訂正したのが実を結んで浸透したのかと。聞いてくれればいつでも訂正したのに。まぁ、普段から話す機会がなかったから仕方ないか。


「そもそも俺の好みはお姉さん系だからな。柚菜とは真逆だ」

「お姉さん……系?」

「あぁ。リードしてくれる人が好みだからな。俺」


 出不精で普段家でダラダラしている俺。そういう時に優しくリードして連れ出してくれる人がいい。

 そう考えると昨日柚菜に言った『陽の者は無理』という言葉と矛盾するかもしれないが、それはそれ、理想と現実というものだ。

 つまり理想だけを口にするならば狭川先輩なんて完璧すぎる。あれだけ完璧すぎたら逆に高嶺の花すぎて手を伸ばす気力さえ起きない。現実の俺から考えたらSNSで付き合う夢を見るのがお似合いだ。


「そっか、お姉さん……だから……」

「冨永さん?」


 彼女に言う必要無かったかもしれないが、隠すほどのことでもない。

 話の流れで口に出すとなにやら彼女は大きく頷いて考え事をしているようだった。それは何か得心がいった時のよう。俺の好みが何に繋がったのだろう。そう思って彼女の名を呼ぶと慌てたように意識を取り戻してこちらに顔を向ける。


「な、何でも無い、よ?ちょっと一ノ瀬さんの様子が変わったことについて納得がいって……」

「アイツの様子といや、あの高校デビューのことか?俺もびっくりした。理由も言わないし不思議なもんだよな」


 それにガンガンボロ出てるのにやるのだからなお不思議だ。

 やるなら徹底すればいいと思うのだが嘘の付けない柚菜のことだ。できないのだろう。


「藤田くんは元に戻って欲しいの?」

「まぁな。アイツが何を目指してるか知らないが、いつも通りが落ち着くからな」

「じゃあ、元に戻る魔法のコトバがあるって言ったら……どうする?」

「ほんとか!?」


 気にはなるが柚菜のしたいことだから特に何か言うことはない。気になるけど。

 そう思って口を出さずにいたものの、そんな言葉があると知って思わず目を丸くしてしまう。


 するとそんな折。突然前方からコホンと何者かが咳き込む音が聞こえてきた。


「…………藤田さん」

「あっ……。ごめんなさい」


 ……どうやら思った以上に声が大きくなってしまったみたいだ。

 咳き込みの主は板書していた先生。暗に諭されてしまった俺は頭を下げて身体を戻す。


 くそう……怒られてしまった。目をつけられた。こうなるとその魔法のコトバを聞くのが難しくなる。

 授業が終わるまで待とうか。しかし彼女が口を開いてくれるかわからない。やはりまた小声で話しかけるべきか。そう結論が出そうになったところで、不意に目の端から俺の机の上へ一枚の紙が飛び込んできた。


「これは……冨永さん?」


 飛び込んできたのは4つ折りになったノートの切れ端。横を見れば軽く手を振っている彼女の姿が見える。

 これは手紙……何か書いてくれたのか。どれどれ中身はっと…………


「っ…………これは…………!!」


 切れ端のノートに書かれた文字。

 そこに書かれていたのは間違いなく『魔法のコトバ』だった。

 柚菜の高校生デビューを落ち着かせるシンプルな言葉。しかしこれを……これを俺に言えと!?


 驚いて横を見れば苦笑いしつつ頷いている冨永さん。

 間違い……ないみたいだな。しかしこれを言うのか……うぅん…………。


 手紙に書かれた言葉たち。本当に口にするか頭を悩ませていると、ふと頭上から無機質な、そして待ち焦がれていたチャイムの音が響き渡る。


「……ここまでですね。明日から本格的に授業を開始しますので、今日の分をノートに取っておくように!学期末に回収しますので白紙の人は落第ですよ~!」


 こっちを見て、ニヤリと笑いながらそう言って去っていくのは我が英語担当の先生。

 ようやく授業が終わり、昼休みが始まる。俺の机の上にはさっき渡された小さな手紙と、結局一切書くことの無かった真っ白なノートが広がるのであった――――

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