Ⅻ
瓦礫の山と化した蒼ヶ浜を後にし、内陸へ向かって当てもなく歩いていたエマニュエルは、突然流れ込んできた激痛に思わず胸を押さえた。すぐに、その感覚がオーガストから来ているものだと気付く。嫌な予感がした。なにか、とても悪いことが起きたのだ。最後に見た、オーガストの苦悶の表情を思い出す。何故、あれほどまで嘆いていたかは判らないが、あんな兄の顔は見たことがなかった。
ふと、兄の気配を感じる。気配のする方に目をやると、遠くの方に聳える岩山が見えた。いつだったか、オーガストが悪魔を捜しに行った場所だ——オーガストはあそこに居るのだと、直感する。
「オーガスト……どうか無事で……」
そう呟き、歩き出した。
冷たい闇の中で、目を覚ます。胸の痛みはいくらかましになっていた。
青白い光が差しているのが見える。月明かりだ。光を頼りに、闇から這い出ると、何時ぞやの山頂に出た——いつのまに、あの場所に辿り着いたのだろうか。
月星が瞬く夜空を見上げて、異変に気が付いた。空が、いつもと違って見えるのだ。星の位置も、空の色も、なにひとつ変わっていない。それなのに、すべてが乱れて見える。藍色の闇も、散りばめられた星の輝きも、すべてがおかしい。間違っている。
無秩序で、乱雑で、歪んでいる——反吐が出そうだった。そのとき初めて、オーガストは自身が父への信仰を失くしたことに気が付いた——堕ちたのだと。創造主との繋がりが断たれ、悪魔となったのだと。
「オーガスト!」悲痛な声で、我に返る。
エマニュエルが、崖側に立っていた。兄を案ずるその顔が、いつにも増して美しく見える。
「ここで一体なにをしているのです? どうしたのですか?」
エマニュエルが問いながら迫るが、オーガストは弟を睨み付けたまま、微動だにしない。
「答えてください。一体なにが——」何かに気付いたエマニュエルが、絶句した。
「……オーガスト。その目は……」
エマニュエルがオーガストの頬に手を添え、引き寄せる。潤んだ薄翠色の瞳に映るオーガストの瞳の色は、秋晴れのような空色から、美しくも、どこか邪な輝きを秘めた、スミレ色に変わっていた。
「——堕ちたのですね」
兄の身になにが起きたのかを悟り、エマニュエルが呟く。オーガストは口を閉ざしたままだが、その沈黙が、堕天の事実をより強く肯定していた。エマニュエルがすっと身を引く。
「何故、父上さまを裏切ったのですか? 蒼ヶ浜の人々が流されたからですか?」
困惑した面持ちで訊ねるエマニュエルを、オーガストが睨んだ。
「君には分かるまい。すべてを手にできる、創造主のお気に入りである君にはね……」
瞳に憎悪を燃やしながら、オーガストは挑発するように両腕を広げる。
「いつだったか、『悪魔など滅びるべき』と君は言ったね? それなら、ほら、
そう言って、両手を広げた格好のまま、オーガストは待った。
苛烈な罵声を浴びせるか、それとも粛々と祓魔に取り掛かるか——創造主のお気に入りは、果たしてどうするだろう。
しかし、どれだけ待っても、なにも起きない。
エマニュエルの方を見ると、美しい天使は夜空を仰ぎ、泣いていた。
「……祓わないと? 僕を生かしておけば、僕はほかの悪魔たちのように、均衡を崩す脅威となるのに……」
かつての弟の思わぬ反応に興醒めし、オーガストが腕を下ろす。
「えぇ……そうなるでしょうね」
涙を拭いながら、エマニュエルが答えた。その目には悲しみと、軽蔑の色がある。
「祓うのは、あなたがそうなってからでもいいでしょう……あなたは……」
言い切ることなく、エマニュエルは口をつぐんだ。諦観と、自嘲を含んだ溜息が漏れる。
「自分のしたことの重みを背負って、この世を悪魔として彷徨いなさい……」
溜息混じりにそう告げると、エマニュエルはオーガストに背を向け、逃げるように立ち去った。
「あなたの秋空のような瞳が失われて残念です……オーガスト」
天使の残した呟きは、悪魔の耳に届くことはなかった。
魂に空いた大穴——暗く、深く、底なしの大穴からくる疼きを感じながら、オーガストは涙を流した。
空、大地、人々の顔——美しいと思っていたものがすべて、ひどく醜く見える。虚しくて、仕方がなかった。
頭上で、大鴉がその雄々しい翼を羽ばたかせた。勝ち誇ったように鳴きながら、セイヴィヤが何処かへと飛び去っていく。
醜く、不条理な世界にひとり取り残されたオーガストは、声を上げて泣いた。
膿んだ心が、ついに渇き切るまで。
こよなき悲しみ 第三話 尊きもの かねむ @kanem
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