Ⅺ
オーガストの足は、自然と山の方へと向かっていた。涙が止まらない。張り裂けた心が疼き、また涙が溢れ出した。
「あんまりじゃぁないか!」
鈍色の空に向け、叫ぶ。答えが返ってこないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
オーガストは感じてしまったのだ。ノアの魂を還したエマニュエルの心が、満ち足りているのを。魂を父の元に還すたびに感じる調和、安らぎを、エマニュエルはノアの死にも見出していた。いつもと同じ、あの満足感。父は、エマニュエルがそれを味わえるよう、あの波を寄越したのだろうか。予兆の無い、すべてを飲み込む大波——創造主のほかに、誰があれを起こせるだろう。
「——不公平だ。そう思っているのでしょう?」突然、頭上からセイヴィヤの声がした。
見上げると、木に留まる大鴉の姿を見つける。オーガストの方を見下ろし、首を傾げる大鴉の眼は、琥珀色だ。
「セイヴィヤか……? 何故ここに?」
「貴方のことが心配になったのです。蒼ヶ浜が波に飲まれるのが見えましたので」
深い声は、まるで子を気遣う父親のような優しさを帯びている。
「ノアが死んでしまった。僕の……宝が……」
嗚咽混じりに言うオーガストを慰めるように、大鴉が木から降りてきて、その肩に留まった。
「えぇ。見ていました。気の毒に。貴方にとって彼がどれだけ大切な存在だったか、創造主が理解していれば良かったのですが……」
「どうして、父上はエマニュエルにばかり与えるんだい? 僕だって彼の子だ。僕だって彼に仕えているじゃあないか」
幾星霜ものあいだ、奥底に抱えていた本心を吐露する。寵愛も、美貌も、力も、運も、エマニュエルはすべてを与えられている。嫉妬こそすれ、それに異を唱えたことはない。目を背けながら、ずっと天使としての務めを果たしてきたのだ。そんなオーガストにとって、ノアの存在は、やっと自分の元に巡ってきた恩寵——献身に対する、ささやかな報酬のようだった。なのに、エマニュエルはそれにすら目をつけ、父は躊躇なく、オーガストからそれを奪った——セイヴィヤの言った通りになったのだ。
「創造主は貴方が信じているような、公正な存在ではありません。もし公正なら、貴方にだけこんな苦しい思いをさせるはずが無いのですから」
オーガストの耳元で、セイヴィヤが諭すように語りかける。
「可哀想な若き天使様……不平等な父のせいで、これほどまで傷付かなくてはならないとは」
「父上は……僕は……!」
「貴方だって、薄々気付いているのでは? 貴方の父は、貴方に応えることはない……ずっと、お気に入りのエマニュエルを選ぶのだと」
「……違う……ちがう!」
身体を丸め、うずくまりながら、絶えず頭に浮かぶ疑念を払うように、言葉を絞り出す。
「なにも違いません。分かっているでしょう」
大鴉の姿のまま、セイヴィヤは瞳をぎらつかせた。
「創造主は、身勝手で気まぐれです。その性質は、被造物であるこの世にも如実に現れている。均衡とやらがこの世の在るべき姿なら、何故それは自然と崩れる方へ向かっていくのです? 何故、貴方たち天使は絶えず均衡を維持するために動かなくてはならないのですか?」
オーガストの内に抱く疑問——生まれた火種に薪を焚べるように、セイヴィヤは滔々と問い続ける。
「何故、この世は悪徳と不平等に溢れているのです? 何故、差異が存在するのです? 何故……双子である貴方の弟が、兄である貴方よりも愛されているのでしょう? これだけの不条理さ、歪さを前にして、いつまで貴方は目を瞑っていられますか?」
これまで毛の筋ほども疑うことのなかったこの世の在り方、父の存在そのものに対する認識が、根底から揺さぶられていた。振り払うことのできない、止めどなく沸き起こる疑問、喪失の痛み、そして応えられることのない父への期待が、混ざり合う——結晶と化したそれは、オーガストと創造主の繋がりの真髄である信仰心を、ついに砕いてしまった。
胸を刃で貫かれたかのような激痛のあと、深い水の底に沈むような感覚とともに、無数の悲鳴が起こる。悍ましい響きを耳に残し、オーガストの意識は闇に沈んでいった。
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