炸裂!うどん活人拳
郷里侑侍
炸裂!うどん活人拳
「過去から逃れることはできない。君が君自身であるかぎり、いつかは自らの手でそれを手繰り寄せることになるのだ。さながら、うどんをすするように」
──ハンフリー・マクファーレン『天井の夏』
僕には行きつけのうどん屋がある。それは福岡市は
店の名前は『原うどん』。探せば同じ名前の店はけっこうありそうだが、そういうことを気にしそうな店主ではない。彼は無口な男で、入店とうどんの提供、あとは退店のときしか声を聴いたことがない。店内も飾り気がなく、店主一人で切り盛りしている。純粋に彼のうどんを味わうための場なのだ。
「ごちそうさま。今日も美味かったよ」山菜の天ぷらうどんを食べ終えた白髪交じりの男が店を出る。彼も何度もこの店で見かけた常連だが、それ以上のことは知らない。思えば初めてこの店に来たときにもいたかもしれない。よほど足しげく通っているのだろう。
「ありがとうございました」出入り口の引き戸を開けた男に店主が言った。ぶっきらぼうに聴こえるが、けして不快感はない言い方だ。
『原うどん』の特徴はなんと言ってもその麺のコシの強さだ。噛むと力強くこちらの歯を押し返してきて、その反発が小麦の豊かな香りを解放する。それがダシと混ざりあい、食欲をそそり、咀嚼を進めさせる。「食えば食うほど腹が減る」というような具合で次々に箸が進み、気付けば完食して食欲が満たされている。
さらに、僕はうどん出汁に浸かったごぼう天を引き上げてかじりついた。サクサクだった衣は出汁を吸ってすっかり柔らかくなっているが、この状態がなんとも形容しがたい美味しさなのだ。
楽しい時間はいつかは終わる。今日もまた僕は『原うどん』のごぼう天うどんを完食した。「ごちそうさま」どんぶりをそっとカウンターに置く。店主の声を背に受けながら店を出た。うどんが好きで他県にまで足を伸ばして食べ歩いてきたが、『原うどん』ほどの強いコシを持ったうどんは食べたことがない。もっと多くの人に『原うどん』を知ってほしいという想いもあるが、それは店主の望むところではないのだろう。
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その日、僕は朝から『原うどん』の前にいた。
というのも、友人から朝イチで映画を観に行こうと誘われてシネコンまで足を運んだものの(お互いに無計画極まりない話だが)肝心の映画はまだ封切り前だった。しかも、どうしようか話していると彼は急用ができたので帰ると言い出したのだ。バツの悪そうな顔からして嘘ではないようだが、それはそれとして僕は休日の朝から一人放り出された形になった。
都心の空気は何も目的を持たないものには妙によそよそしく、僕はすっかり手持無沙汰になってしまった。それならばと、まだ開店前の『原うどん』に行って開店まで並んでみようと思ったわけである。
元々人通りの少ない区画に店を構えていることもあり、
そのとき、音がした。店の中から何かを叩くような音が聴こえた。耳を澄ませていると何度も聴こえてくる。確かにさっきまでは聴こえなかったので、今しがたその音はしはじめたようだ。持て余した時間と好奇心が、僕の野次馬根性に火をつけた。もう一度謎の音に耳を澄ませる。店の奥の方でなにかをしているのだろうか。
周囲に人影がないことを確かめ、僕は『原うどん』と一軒となりにある古着屋との間の路地に入った。路地といってもほとんど隙間と呼ぶべきもので、人が通ることは想定されていないようだった。こういうところは人が入り込まないように柵などが立てられていることが多いが、ここにはなかったのでどうにか入り込めた。壁で身体ををこするようにして進むと、『原うどん』の外壁に小さな窓があるのを見つけた。何かを叩く音はそこから激しく聴こえた。
窓は磨りガラスになっていて、中の様子をうかがうことはできなかった。謎の音はつづいている。僕はわずかな期待をこめて窓枠に指をかけて力をこめた。すると窓はわずかにサッシの上をすべって隙間が生まれた。僕は好奇心に導かれるまま、窓の隙間をのぞいた。
謎の音の発生源は店主だった。せまく薄暗い室内はコンクリート打ちっぱなしで、倉庫のようだった。しかし、異様な光景がそこには存在していた。
まず、部屋の中央に棒の突き刺さった丸太のようなものが鎮座している。カンフー映画などで拳法の練習に使う木人というやつだろう。そして、店主がその木人にひたすら拳を打ち込んでいた。
店主は上半身を露にしていた。なんとなく彼が鍛えられた体格をしていることは察していたが、実際に見るそれは想像以上のものだった。まさしく筋骨隆々といった様子で、彼が木人に拳を繰り出すたびに筋肉は膨張し、しかも時計の歯車のように筋肉と筋肉が緻密に連動しているのだ。
だが、何よりも僕がこの目を疑ったのは、店主と木人の間にあるものだった。それは分厚いビニール袋に入れられたうどん生地だった。木人にかけられたうどん生地を、店主は殺人的な速度で連打していたのだ。その拳の速度と威力によって、うどん生地の入った袋はまるで木人に接着されているかのように微動だにしない。うどん生地に繰り出される拳の奔流は、次第に僕に極太のうどんを幻視させた。ただの小麦粉の塊に『うどんの魂』が打ち込まれ、うどん生地へと昇華されていくかのようだ。
「~~~~~~!!」
店主が甲高い怪鳥音をあげ、とりわけ強力な一撃をうどん生地に叩き込んだ。タイヤが破裂したかのような音が鳴り、僕の肌がびりびりと振動に震えた。店主は拳を打ち込んだ姿勢のまま動かない。すると、めりめりと音を立てながら木人は縦に真っ二つになった。生地の入った袋はタオルのように力なく店主の拳に覆いかぶさった。袋は破れていない。木人は店主の『麺打ち』に耐えきれず崩壊したのだ。
僕は悟った。あれこそが『原うどん』の異常なまでの麺のコシの秘密だと。
そのとき、店主が窓の方を振り向いた。恐ろしいほどに鋭い眼光だった。いつも常連客が目にする寡黙な料理人の目ではなく、冷徹な破壊者の眼光だった。僕は驚きと恐怖から叫び声をあげ、その場にへたりこんでしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開店前の『原うどん』は恐ろしいほど静まり返っていた。座席にかけた僕に、店主は水の入ったグラスを差し出した。
「さっきの『アレ』はいったい……?」
店主は重い口を開いた。
「腹の中に入れるものについては、誰でも知る権利がある。お話ししましょう」
十数年前、私はアジアの裏社会で名をはせた殺し屋でした。
孤児だった私は身を寄せるところもなく、盗みをすることで生きながらえていました。
ある日、私は一人の老人から財布をスリました。孤児の泥棒仲間と二人組で彼を狙い、獲物は折半するつもりでした。財布を盗んで逃げおおせたと思っていると、いつの間にか老人は私たちに追いついているのです。我々はその場から逃げられませんでした。老人からはなにか、相手に動けないと思わせるような『気』が出ていたと感じました。
老人は私たちをじろじろと見比べてから、私に「お前は見どころがある」と言いました。そして、泥棒仲間の胸を指先で小突いたかと思うと、彼は口の端から血を一筋流して汚い地面に倒れ、動かなくなりました。老人は「こうなりたくなければ私についてこい」と言いました。そうするよりほかありませんでした。
老人は不可思議な拳法を使う殺し屋でした。
「私も老い先短くなると、この一生をかけて磨き上げた殺人拳を誰かに継承し、遺したくなった」
老人が言うには、私にはその素質があるのだそうです。それからというもの、地獄のような鍛錬が始まりました。焼けた石の山に何度も手を突き入れたり、針の山の上を裸足で歩いたり、毒蛇だらけの部屋に閉じ込められたり、命綱もなしにビルの外壁につかまり、そのまま24時間を過ごしたりしました。自分でもなぜやりきれたのかは不思議ですが、当時の私はそれほどまでに生きることに執着していたのだと思います。
そして老人は病死し、私は後を継ぎました。私は老人から受け継いだ暗殺拳で人を殺め続けました。男を殺し、女を殺し、年寄を殺し、子供を殺し、父を殺し、母を殺し、商売敵を殺し、政敵を殺し、正義漢を殺し、悪漢を殺し、罪人を殺し、無辜の人を殺し、殺し屋を殺し、只人を殺しました。殺せば殺すほど私は尊敬され、畏れられ、裕福になっていきました。
ですが、殺し屋として成り上がるということは、常にだれかを殺さなければ生きていけないということなのです。「はい、おしまい」と抜け出すことはできません。それは気づかぬうちに私の精神をすり減らしていきました。私はいつしか無感動に生きるようになりました。私は私の心を殺し続けていたのです。
そんな折、私は仕事で日本に来ました。海外進出を目論むヤクザを殺す仕事です。そして出会ったのです、うどんと。うどんは私の人生で最も優しく、柔らかなものでした。初めて食べたあの瞬間は忘れられないものなのですが……同時にどこか夢見心地というか、天の啓示を受けているような気分でした。
私は決めました。これからは暗殺拳を捨て、うどんと共に生きよう、と。うどんは私の死んだ魂を生き返らせてくれたのです。それから、私は殺し屋を引退しました。もっとも、そのためにまた私は屍山血河を築くことになったのですが……この話は今はよしましょう。あまりに長くなりすぎますから。
そして日本で修行をし、この店を持ちました。そして自分のうどんを探求する中で、皮肉にもこの血塗られた暗殺拳を使ってうどんを打つと素晴らしいコシが出ることがわかりました。
こうしてあなたが食べているうどんができたわけです。
僕は店主の話を聞き終わった。店主は厨房に戻り、店を開ける準備をしている。
正直なところ、店主の話はにわかには信じがたい。だが、先ほどの鬼気迫る麺打ちが彼の話に理屈ではない説得力を与えていた。
僕の脳裏にそれまでここで食べて来たうどんが思い浮かんだ。人殺しが作ったうどん。数多の血で汚されたうどん。そんなことを考え、僕はどきりとした──否、しようとしていた。
「もう注文できますか」
僕の言葉を聞いて店主は少し驚いたように顔を上げた。
「開店まであと10分もないですけど、待ったほうがいいですか」
彼の手がどれほどの命を奪ってきたとしても、彼のうどんの美味さは僕にとってまた別の話だ。それらを結びつけて社会規範に照らし合わせるなど、僕にはできないことだった。
店主は力が抜けたように微笑み、「特別です」と言いながら調理に入った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕が『原うどん』の真実を知ってから数か月が過ぎた。その間僕は夏限定のトマトのぶっかけうどんを食べ、秋限定の秋野菜天ぷらうどんを食べた。
冷たいうどんを食べるのが厳しい季節になったころ、僕は『原うどん』で肉うどんを食べていた。甘辛く煮られた牛肉とうどんとつゆが互いを引き立たせ合っていて、それが生み出す熱が僕の身体を内側から温めてくれる。
その日は仕事の野暮用に時間をとられてしまい、『原うどん』に着いたのは昼の営業時間のラストオーダー間際になってのことだった。
すでに述べたように『原うどん』はそこまで客が大入りになるような店でもないため、店内はちょうど僕ひとりだった。行きつけの店を貸し切りにしているような高揚感と、店主の時間をとらせてしまったことへの罪悪感が僕のなかにあった。
そうして、肉うどんを食べ終わった間際のことだった。一人の男性客が入店してきた。ところどころ擦り切れた皮のジャケットを着た男だった。ラストオーダーの時間はすぎているのに来店した男を、店主は気まずそうに見た。
「すみません、もう昼は終わりで……」
店主がそう告げたそのとき、男は突如脚を振り上げた。僕は驚いて呆然としたまま固まる。すると、「がらん」という音がしたかと思うと水がカウンター席を濡らした。見れば、卓上の冷水を入れたピッチャーが輪切りにされているではないか。
「ソン・ヨンホをおぼえているか」
男は地獄から吹き上がる風のような声でそう言った。
「俺はソン・ウジン。お前に殺された父の無念を晴らしに来た」
店主は見たこともないような冷徹な目つきになった。うどんを打っていたときの目つきよりもさらにぞっとするよう眼光だ。彼は厨房の火を消し、カウンター越しにウジンと名乗る男を見つめた。きっとあれが店主の殺し屋としての眼なのだ。だが、不思議とそのまなざしに──素人が何を言っているのかという話だが──殺意のようなものは感じられなかった。
ウジンは店内をぐるりと見回した。
「組織の依頼で父を殺し、俺たち家族をどん底に落としておきながら……自分は料理人に転職か。逃げ切れると思っていたのか? それとも、七つのマフィアを壊滅させて殺し屋を引退したことが償いになるとでも? 悪いが、そんなことは俺には何の意味もない」
店主は何も答えない。
「この日のために、俺も暗殺拳を修めた。ナイフや銃で殺しても意味はない。お前の人生をまるごと否定して復讐してやる。俺は今日まで、そのために生きて来た!」
ズダン!と大きな音が聞こえた。それは店主は厨房から跳躍し、ウジンに飛び膝蹴りを見舞った音だった。ウジンは両腕を交差させてその一撃を受け止めている。店主は着地し、ウジンから距離をとると、僕を見た。
「店から出てください。巻き込みたくない」
店主の言葉から僕は並みならぬ真剣さを感じ取った。僕は足を床から引きはがすようにして店を出て、入口から店内の様子を伺った。
店主とウジンの間の空気が張り詰め、撓む。空間が断裂するような音とともに、二人は激突した。弾かれるように距離をとると、互いに互いの拳をさばきあいはじめた。ウジンの手が手刀のような型をとり、店主の喉元めがけ繰り出された。店主は軽く身をひねって回避し、ウジンの身体に掌底を打ち込んだ……というよりも軽く触れたようにしか見えなかった。すると鈍い音がしてウジンは吹き飛んだ。椅子やテーブルがウジンとぶつかってひっくり返る。
店主が自らの頬を指先でぬぐう。ウジンの手刀が切り裂かれ、血が流れでている。
「碧刃拳か。よく練られている。何人手にかけた?」
ウジンは瞬時に立ち上がり構えをとりなおし、対峙する。
「お前と一緒にするな。父の無念を晴らすために鍛えたこの拳、誰の血も吸わせてはいない。欲しいのはお前の血だけだ」
店主は構えをとらない。いや、よく見ればとっている。だが限りなく自然体に近い。
「私が言っても命乞いに聴こえるだろうが、やめたほうがいい。どんな目的だろうと、誰を殺そうと、その先には何もない。ただ心がすり減っていくだけだ」
「確かに、命乞いとしか思えないな」
「お前まで道を踏み外すことはない。これ以上自分の罪が拡がっていくところは見たくない」
ウジンは嘲笑を浮かべた。
「それもお前への罰の一部だな。お前がいなければ今の俺はない」
ウジンが手刀を突き出しながら距離を詰める。店主は手刀をはじいて攻撃をかわす。だが、それによって生じた防御の偏りに膝蹴りをねじ込む。店主の表情が小さく歪み、動きに一瞬の硬直が生まれる。ウジンは膝蹴りの脚でそのまま蹴りを連続で放ち、店主は後ずさりした。ウジンが軸足を変えると目で追えないほどの速度の回し蹴りが店主の首を狙った。先ほどピッチャーを切断した蹴りだ。しかしその一撃は文字通り空を切った。店主は股割りの体勢になって回避していたのだ。そのままの体勢から店主はあん馬の演技のような動きで足払いを繰り出す。蹴りをかわされて不安定な姿勢のウジンはそれをまともにくらってしまい、背中を床に打ち付けた。だが、彼は即座に床を転がって距離をとってから跳ね起き、再び構える。
だが、それと同時に店主が彼の目の前に立っていた。傍から見ていた僕にもいつ店主が移動したのかわからなかった。コマ落ちの映像のように、移動する過程が抜けていたとしか思えないのだ。
ウジンは身体を動かそうとしたが、店主のジャブのような突きが先にウジンをとらえた。雷に打たれたように動きが硬直するウジン。店主は休みなく拳を連続で打ち込んでいく。ウジンは後ずさりすることも逃げることもなく、立ち止まってただ打撃をうけつづけていた。その眼には驚愕の色が浮かんでいた。
太く、途切れることなく続く店主の打撃。それがあの日のように太く長いうどんの奔流のように見えて、僕は気づいた。店主のこの技を僕は見たことがある。あの日、拳法を使って麺打ちをしていたときの、あの技だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奇妙。店主の拳をまともに受けた瞬間、ウジンはそう思った。衝撃はある。痛みもある。肉体は軋みを上げている。しかし、死の予感がしない。過去に戦った強敵とは違う。目の前の男は俺の技量を上回っている。だがこれはどういうことなのか。彼の暗殺拳は錆びついたのだろうか。
しかし、打撃とは違う感覚がウジンを襲った。熱。香り。そして……味。
深みのある出汁の旨味と香り。うどん麺の力強いコシ。それらを一口にすすると、熱とともにすべての要素が絡まり合い、身体を暖かな感覚が満たす……。
信じられないことだが、ウジンは確信する。今自分は、『うどんを食べている』。店主の謎の拳がうどんを幻視させているのだ。ないはずの味を堪能しつづけ、心がゆるむ。違う。俺の求めるものはそれではない。復讐と死。それらを思い出してうどんを拒絶しようとするが、できない。
男の暗殺拳は錆びついたのではない! 変化したのだ! ひとつの技術から、まったく別の思想・目的を持つ技術へと枝分かれしたのだ!
これこそが両手を血で染め続けてきた男が、殺人拳を捨て、うどんに救われ、うどんを打つことで生み出した活人拳──『うどん活人拳』であった。
だが。
「ウジン」
生気を失った、父の死体がウジンに呼びかけた。死体の後ろには虚ろな闇だけが広がっていた。そちらに行ってもなにもないことはわかっていた。
しかし。
それでも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
店主の拳が止まり、ウジンは天井を仰いで立ち尽くしていた。戦いは終わったのだろうか。肌が焼けるような空気感はなくなっていた。
「あの……」
僕はおずおずと声をかけた。店主は僕を振り返り、視線を交わした。そのときだった。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!」
ウジンは獣のごとく咆えた。店主が何かをする前に、ウジンの手刀が弧を描いた。花吹雪のように鮮血が舞い、店主はその場にくずおれた。僕は後先も考えずに駆け出し、店主を抱き上げる。ウジンの一撃は店主の身体を刀のように切り裂き、傷口からあふれる血は彼のシャツを黒々と染めあげている。
「救急車、救急車を……!」
うろたえる僕の手を店主が握った。
「なにも……しないでください。いつか、こうなることはわかっていた……。彼を恨まないでください……」
ウジンは呆然と立ち尽くしていた。彼の心が読めるわけではないが、少なくとも仇を討った達成感は感じられなかった。
「手加減したんですか?」
「いや、あれは人を殺める拳ではなく……人を活かす拳です。彼に、殺人者としての道を外れてほしかった。私のしてきたことが、強い殺意を持った復讐者を生みだすことはわかっていました。そして、暗殺拳を捨てた私に、それを止める力がないことも……」
店主は顔を上げ、ウジンを見た。
「人を殺すことは虚しい。復讐となればなおさらだ。もうお前を支えていた憎悪はどこにもいない」
「お前が言うな……」
ウジンはつぶやいた。そこには先ほどのような憎悪はこもっていなかった。
「そうだな」店主がせき込むと、彼の口の端から血が一筋流れた。「だが、だからこそどうにかしたい。せめて殺し屋をやめたからには、私の行いのために、血なまぐさいだけの虚しい道を歩む者をこれ以上増やしたくない」
「どうすればいいというんだ」
「うどんだ。今、お前に拳を通じて伝わったはずだ。うどんの美味しさが。温かさが。優しさが。それを頼りに生きていくんだ。麺をすするように……」
それ以上言葉は紡がれなかった。店主は息絶えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それから二年が過ぎた。その間、もう春限定の桜えびのかき揚げうどんを食べることも、夏限定のトマトのぶっかけうどんを食べることも、秋限定の秋野菜天ぷらうどんを食べることも、冬限定の牛すき鍋うどんを食べることもなかった。そしてこれからも食べることはない。
店主の亡骸を含めた事後処理は、あの常連の白髪交じりの男が済ませていた。あの日、ウジンが店を去り、物言わぬ店主を抱えたまま僕が呆然としていると彼がやってきた。
「大将からこういうことがいつか起きるって聞いててさ。いろいろ頼まれてんだ。あとは任せて」
そう言って彼は僕を帰した。後日、自分の見たものが信じられずに『原うどん』をおとずれたところ、白髪の男が数人の部下らしき男に指示を出しながら店を片づけているところだった。そこで店主は──彼が偽造していた身分においては──事故死ということになり、遺言により海に散骨されたということを聞いた。白髪の彼は何者なのかをたずねようとしたが、どうせ何も教えてはくれないだろうと思い、僕はその場を去った。
それ以来、海を見ては散骨されたという店主のことを考えてしまう。店主は広大な海に放たれることで自分の過去から解放され、死して自由を得たのだろうか。
いや、やめよう。所詮僕は、彼の死よりも彼のうどんを二度と食べることができないことを一番悲しんでいる、無粋で打算的な自分を誤魔化したいだけなのだ。
ある日、僕は西新に新しくうどん屋ができたことを知り足を運んだ。暖簾をくぐると、まだ新しい内装が僕を浮足立たせた。厨房に立つ人物を見て僕は驚いた。ウジンがいたからだ。彼も僕を見ておどろいたようだったが、それだけで何も言葉を交わさなかった。店は小さく、彼一人で回していた。
注文をしてから少しして、海老天ののったうどんが運ばれてきた。『原うどん』のようなコシのある讃岐うどん系ではなく、
復讐にとらわれていたウジンがこのうどんを作ったということに、僕はあの日起きたことも忘れて笑顔になった。店主は──そして、うどんは──確かに彼を救ったのだ。
それから、僕はウジンの店に通うようになった。『原うどん』のうどんはもう食べられなくなったが、ウジンのうどんを食べていると店主がかつて生きていたことを確かに感じることができるからだ。そして単純に、彼のうどんはとても美味しいのだ。
炸裂!うどん活人拳 郷里侑侍 @kyouri_yuuji
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