金魚の恩返し

 いつもの仕事、いつもの残業。一人暮らしで真っ暗な部屋に帰ってきて、部屋の明かりを点けた。


 おっと、一人暮らしじゃないか。一人と一匹だな。


 ただいつもと違ったのは、その一匹が、水槽から消えていた。


「あ?」


 素っ頓狂な声を上げて、水槽の周りを探し出す。キョロキョロと水槽のまわり、近くの隙間を探すが、金魚は影すら見えない。


「えー… なんで?」


 鯉ほどデカいわけでも力が強いわけでもない、ただの琉金。閉まっているフタを跳ね飛ばせるわけでもなし。泥棒が入ってきて、金魚だけさらっていくわけも無いだろう。


「金太郎? どこいったよ?」


 そんなに大きい水槽でもない、砂利が敷いてあるだけで、装飾をしているわけでもない。水槽のどこかに隠れている可能性もゼロだ。


「金太郎ー? でてこいよー」


 イヌネコではないのだから声をかけたところで出てくるわけでもないのに、俺は声をかけ続けた。


 と、その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。


「はーい」


 画面を確認すると、見知らぬ女性が立っていた。


「お忙しいところ申し訳ありません」


 勧誘だわコレと思った俺は、つい出てしまった事を後悔しつつ、やんわりと断ろうと思い適当な嘘をついて対応しようとした。


「あ、今、高熱出てるので、ドア開けたらご迷惑おかけしますので」


「あ、あ、勧誘とかじゃないんです」


「では、失礼しま…」


「あの! ちがうんです! 今、おたくの金魚が居なくなっていませんか!」


 インターホンの画面に向かって、俺は目を丸くした。


「は?」


「金太郎、いなくなってますよね? あの、私、心当たりがありまして、あの、ご説明さしあげたいというか、あの、その」


 なんじゃこいつ?


 瞬時にぐるぐると考えはするが、この状況に整合性の取れる説明は思いつかない。仕方なくチェーンを掛けたまま、玄関で直接対応することにした。


「…どうも。どういう事ですか」


 俺が出てきて少しホッとしている女性は、たどたどしい口調で話し始める。


「えっと、あの、私の服装を見てもらいたいわけなんですが、あの、察してもらえたりしませんか、あの、その…」


 女性は、紅と白の絞り染めトップスに、白いフレアスカートを着ている。最近の流行とはとても言えるものではない。察してとは、そーゆー事だろうか?


「…はあ、素敵な絞り染めで…」


 女性は大袈裟に手を振り出す。どうやら意図と違ったようだ。


「そ、じゃ、なくてです! あの、さっき金魚の話してたじゃないですか?」


 まあ、確かに金魚と服は関連性が無い。それを関連付けるとすれば…


「あー… 金魚っぽい柄ですね。金魚マニアでいらっしゃるんですね…」


 またまた女性は慌て出す。


「ま、マニアじゃなくてですね、ほ、ほら! つ、鶴のなんちゃらとか、そういう方面で…」


 俺は思いっきり眉間に皺をよせた。この女性は何を言ってるんだ? 鶴のなんちゃら? 恩返しとか言いたいのか? つまり、自分が金太郎とでも言うのか?


「あの、ほんと俺、熱出てきたんで…」


 俺はもうこの茶番が嫌になり、適当に切り上げてドアを閉めようとした。


「し、信じて貰えないのは重々承知ですが! あの、では、あなたしか知らない情報を言います!」


「ん?」


「あなたは〇〇趣味で、わざわざ扉付きで買ってきた戸棚に〇〇モノのDVDを並べていて、だいたい2日に1回は…」


「わー!わー!わー!やめろー!」


 チェーンをかけたドアの隙間から手をだしてふりまくり、女性が語るのを止めた。


 何が恩返しだ! 俺の趣味をバラしかけてるぞおい! ってかなんで知ってるんだ!?


「ちょ、わかったんで! デカい声やめてもらえますか!?」


「あ、じゃ、えーと、いつもいただいているゴハンは、某アクアリウムメーカーの浮上性の消化に良いやつで… あの、私、アレ美味しくて好きなので、いつも感謝をですね…」


 ついに「私」って言ったな!?


 俺は諦めて、とりあえずチェーンをはずしてドアを開けた。


「どういうつもりか分からないのですが、さすがにそこまで情報あると、ストーカーか、貴女が金太郎か、どちらかですね」


「そ、そうです! あ、ストーカーの方じゃなくて、あの、信じてもらえると嬉しいです。彼女の影もなくて、友達も来ない淋しいおうちですので、あの、私が知ってるのは、その、やっぱり一緒に住んでるからで、その」


「軽くディスり入れるのやめてもらえませんかね」


「あ、あ、ごめんなさい! 急にこき下ろしてしまって、わたし、あの、どうしたら… とりあえず、お、おうちに入っても…?」


 俺はため息をついた。あの食い意地がはっていて堂々としている金太郎が、本当にコレなんだろうかと思いつつ。だがこれ以上、個人情報を漏洩されるのは困る。か弱そうな女性、特に持っている物も無さそうだ。ストーカーじゃない事を祈りつつ、うちに入れることにした。


「…まあ、玄関までなら…」


「あ、良かった。あの、お邪魔します」


 女性はするりと玄関先に入ると、チラリと水槽を見て、ふわりと微笑んだ。


「ああ、私は広いと思っていたけど、こんなに小さいんですね」


「まあ、金魚一匹なのでね」


「いえ、一匹だけの私に、いつもありがとうございます」


 丁寧にお辞儀をする女性に、特に敵意を感じる事もない。といってもこれ以上は入らないように、壁に手を付きながら俺は女性に対応する。


「んで、恩返しとか言ってましたけど、どういう事でしょう?」


「あ、いえ、恩返しっていうのは例え話でして、本当はちょっと一言申し上げたく、人間の姿でまかりこしましてございます」


 急に口調が変わってきた女性は、とても真剣な顔でこちらをみすえる。


「ええ… なんですか…」


「金太郎という名前を頂戴しておりますが! 私、れっきとした女性なので…! 改名をお願いしたく…!」


「……………は?」


 俺はもう、頭がおかしくなったかと思った。


 いや、改名って。そのために人間の姿になったって。なんじゃそら。


「いつも慈しむ目線で、金太郎おはよう、金太郎ただいまとお声をかけてくださるのは、家族の一員のようで光栄の極み…!ですが、やはり金太郎と呼ばれますと、男性と思われてるのかと女心がチクチクするのでございます…」


「いや、まず金魚の性別とか気にしてなくて、その、すまん」


「夏の屋台で、窮屈に泳いでいた私を掬ってくださったご恩はありますが…」


「…あの時は酔っ払っててな、あの、なんかすまん」


「〇〇のお相手も、できればしたいところではありますが、金魚の身にはあまりにもハード…!」


「それは別にどうでもいいだろぉ!?」


「まずは私を女性と認識していただきたく、改名を…! ぜひ…!」


 玄関先で物申しながら、正座で深々と頭を下げだした女性にドン引きしている俺は、とりあえず答える。


「つまりは改名すればいいんだな? …金子でいい?」


「きんこ!? あなたのセンスどうなっておられるのですか!?」


 頭が痛くなってきた。俺にセンスが無いのは認めるが、ここまで大袈裟に言われると、仕事で疲れている身には堪える。


「じゃ、何がいいんだよ…」


「では僭越せんえつながら、私のことは花子とお呼びください」


「そのセンスもどうなってんだよ…」


「なんと!? 花びらのようにヒラヒラとなびくこのヒレに、花のような煌びやかさで泳ぐ私にピッタリかと思うのですが!?」


「あ、はい、そうっスか…」


 玄関先にいた時のたどたどしさは何処どこへやら。自称花子は、自意識過剰ぶりを発揮していた。


「ん、じゃ、花子…さん? これで良い?」


「はい、有難ありがとう存じます」


 満面の笑顔になった自称花子はスクっと立ち上がり、パンパンとスカートのほこりを払った。


「これで解決したよな。あんたも遅くなんないうちに帰りなよ」


 意味のわからない流れで会話の終わりを迎え、ドアを指さして、自称花子に帰りを促した。


「はい、では…」


 そう言うと自称花子は、壁に手をつけている俺の腕の下をくぐりぬけた。


「あ! なにして…」


 自称花子は一目散に水槽へ走り、フタを取って手を入れると、シュルシュルと吸い込まれていった。


「へ?」


 あまりに突然の事に、俺は呆然とした。はっとして水槽を見ると、見慣れた金魚がゆったりと尾ビレをくねらせていた。


「え、は、え? マジ…?」


 水槽に近づくと、口をパクパクさせてエサをねだって来る。とりあえずエサをひとつまみパラパラと水面に浮かべると、金魚はすごい勢いで吸い込んでいった。


 何が何だか分からなくなった俺は、水槽を見つめながら座り込んだ。


「え…あ… とりあえず、何も無かったことに、するか…」


 そう呟きながらも、俺は仕事バッグからメモ帳を取り出した。


 1枚破り、大きく「花子」と書くと、水槽の端っこにペタリと貼り付けた。

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