ぱいなつぷる

紫陽_凛

みちか15歳

「暑い日が続くわねぇ」


 曾祖母はまったりと、日当たりのいい縁側に寛いでいた。グリーンカーテンをやめてしまった後の、緑色のネットだけが風にそよいでいる。割烹着は白で、藤色のモンペを穿いている。花柄のシャツは綿製だろうか。でも、とても、遠かった。遠くぼやけて、熱気の澱に隠れていた。


 私は日陰のテーブルで、ゆっくりと水を飲む。炬燵布団を外しただけのテーブルだ。曾祖母の声だけが、上から降ってくる。


「みちか。あんた、幾つになったんだっけ」

「十五歳」

「そか。みちかも十五か。はやいねぇ」

「──ね、。何年経ったと思う?」

 私は曾祖母に尋ねた。心から尋ねた。

「わからんねえ。何年経ったの」

「内緒」

「まあた、いじわるばっかりして。何年よ」


──あれ、蚊取り線香の匂いがする。


「みちかが蚊に食われてしまうからね。部活は何に入ったんだっけ?」


 マッチを振って消す手つきは慣れている。私は縁側から顔を背けた。

「……教えたでしょ」

「なんべんでも教えてよ」

「すいそーがくぶ!」

「音楽の?」

「そう、クラリネット奏者なのです」

「クラリネットって、何色だっけ。金色?」

「ぶっぶうー」


 私は傷だらけのコップをなぞった。そしてきつく目を閉じる。


「ばっちゃ、いつまでいるの」

「……許されるんならいつまでも」

「許すからもうちょっと一緒にいてよ」


 もう一度目を開いた時、曾祖母がいなくなっている気がした。目さえ閉じていれば、曾祖母はどこにも行かない。そんな確信さえあった。

 私は目を瞑ったまま、縁側に顔を向けた。


「みちかも言うようになったねえ」


 蚊取り線香の匂いの中に、慣れた線香の匂いが混じってくる。風向きが変わった。奥の窓から吹き抜けてくるぬるい風は、容赦なく私を現実に繋ぎ止める。線香の煙。線香の煙。線香の……。

 仏壇の匂い。


「ばっちゃ、ばっちゃはさ、私が見てる夢なんだよ」

「じゃあばっちゃも、みちかの夢を見てるんだろう、一緒だねえ」

「目を開けたら覚めちゃう夢なんでしょ」

「そうかもしれない」

 

 気配がした。ひどく軽い、冷たい手が、ゆっくりゆっくり私の頭を撫でる。

「みちか、あんなに小さかったのにね」

「当たり前じゃん」

 私はぎゅっと目を閉じた。

「私だって、生まれて十五年経ったんです」

「わたしが死んで何年?」

 曾祖母の手は私の髪の毛をすいて離れていく。

「二年」

「二年でこんなになるものかね。嘘だ」


──だって。

 私は口を噤む。

──だって、どんどんぼけていったじゃない。


 中学校に入学した時にはもう、曾祖母は私のことを忘れていた。

『どこのお嬢さんかしら? 中学生?』

 少女のように可憐で爽やかな笑みは口元しか覚えていない、遺影として残された写真の、つんと澄ました曾祖母の口元は、ナメられてたまるもんかよと「への字」だった。他の写真はなかったのかと散々親族の間でも揉めたけれども。でも、これでいいんだと私は思う。ばっちゃがばっちゃだった時の写真ならもうなんでもよかった。苦しいこと悲しいこと新しいこと全部削いで落としたばっちゃの安らかな笑顔なんか、見たくなかった。


「ばっちゃが覚えてる私は幾つなの」

「そうだねぇ、みちかはね、五歳」

「十年も前じゃん、私、記憶ないし」

「ばっちゃはね、みっちゃんと手を繋いで何処までも行けたよ」

 曾祖母は歌うように言う。すうっと首筋を冷たい風が吹き抜けていった。私はいっそう固く目を閉じて、ガラスのコップを手放した。


「昔みたいに、みっちゃんが行きたいところに行こうか」


──行こうかな、

 と、一瞬だけ思う。


「探検しよか、それとも、ほら、あの川べりの花畑に行こうか」


 瞼の裏にぱあっと黄色い花々が咲き乱れた。最初は黄色、次はピンク、赤……明瞭なイメージは私の頭に直接入ってぐるぐる回った。イメージは回り回って、涼しそうな川沿いの、花畑に囲まれた、冷たそうな水の流れの前に立ったとき──川向こうのばっちゃは小さな背を曲げて、こちらを見ていた。微笑んでいる。

 無垢な少女みたいに。

「みっちゃん、おいで」





 その時だ。


 ぼっとん! ばらばらばら!

 はっと目を開けると縁側にばっちゃはいなくて、誰が点けたともわからない蚊取り線香が灰をぽとりとおとした。

 慌てて音のした方へ視線を滑らせる。仏壇では線香が燃え尽きる寸前の煙をくゆらせており、への字の遺影はそのまま有り……しかし、しっかりとお供えしていたパイナップルが畳に転がっていた。桃もキウイも積み上げていたものが崩れて、とんでもない有様だ。


「え、ええ……」


 私は慌てて元あったように桃とキウイを積み上げると、最後にパイナップルを拾い上げた。


「どういうこと……」


「みちかー!」

 とそこで買い物に出掛けていた母が戻った、私はパイナップルを抱えたまま、玄関まで母親を迎えに出た。


「あれ。蚊取り線香なんか焚いたの?」

「それ、私じゃないよ」

「……じゃあ他に誰がいるのよ。あんたはいつもおとぼけさんで──火なんか弄った日には不始末を起こしそうで……」

 母の小言が続く。私は黙るほか無くなってしまう。

「ところでそのパイナップルどうしたの」

「……ばっちゃが投げて寄越した」

「何言ってんの?」


 自分でも何を言ってるかよくわかっていない。

 でも、多分投げたのはばっちゃだよなぁ、と私は思う。確証はないけど、そう思いたい。


「私が間違えて三途の川渡りそうになったから、ばっちゃが投げて寄越したの」


 母はいっそう解せぬという顔をした。口がへの字になり、まゆがハの字になり……孫の中に「その姿」を認めた私は、パイナップルを抱え直した。


「ね、このパイナップル食べごろかな」

「またあんたは食べることばっかり考えて……」

「いいじゃない、夏なんだし。夏休みなんだしさ」

「食べてもいいけど、自分で切りな」

「はーい」


 私はスマホでパイナップルの切り方を検索する。母親は盆の準備を進めていく。


 遺影の中のへの字口は、私たち親子をしっかり見守っていた。



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