樹海の奥地より

パチエモン

第1話

 「死」に魅入られる日が多くなった。


 自殺願望がある訳ではないし、快楽殺人に興味がある訳でもない。ただただ、気づけば人の死について考えていることが多くなった。


 きっかけは恐らく、SNSにたまたま流れてきた自殺の名所の画像だったと思う。年中曇天のように空を覆い隠す鬱蒼とした森の中に、自ら命を絶った者たちの痕跡が残されている画像だ。


 調べてみると、それらの画像をまとめて掲載しているサイトがヒットする。


 太い枝から垂れた麻縄の先は輪っかが作られているし、行楽用に舗装された遊歩道には綺麗に揃えられた真紅のピンヒールが獣道に向かって放置されている。土には聖書の一部が書かれた紙と共に真っ黒な十字架が刺してあり、樹の皮には荒々しい字体で男女の名前が並んだ相合傘が彫られている。自殺防止団体も定期的に見回りに来ており、それら痕跡は普通は数日で回収されてしまうようだ。


 あまりにも、生々しい。


 しかし私は、それらを食い入るように見漁った。

 彼ら、彼女らは何を思ってその場にいたのだろうか。何がそこへと駆り立てたのだろうか。そしてその後、どのようなを用いたのだろうか。






 夏の長期休暇、特に予定もなかった私は重い腰を上げ、現地に赴くことにした。


 別にそこへ行ったところで、きっと何かが分かる訳ではない。しかし、一度自分の目で確かめてみたくなった。


 金曜日に仕事を終え帰宅した後、夕飯を済ませてそのまま車で出発した。高速道路に乗り、都心部から車で数時間。大きな大きな山の麓にある粘着質な闇を纏った樹海が近づくにつれて、ハンドルを握る手がじわりと湿ってくる。真っ暗闇を照らすハイビームはむしろ木々の影をより濃くし、今にも何かが飛び出してきそうな雰囲気さえある。対向車も後続車もいないせいでひどく静かだ。


 突如その影にキラリと光るものが見えて、私は慌てて車を停めた。


 二つの小さな光る玉は、生き物の眼のように見える。到着早々、森に棲む得体のしれない者に遭遇してしまったのだろうか。心臓の鼓動は早まり、タラリと冷や汗が垂れる。お互いに身じろぎもしない膠着状態のなか、「『深淵を覗くとき、深淵もまたこちら覗いている』とはこういうことだろうか」なんて現実逃避じみた思考が頭をよぎった。


 じっと目を凝らしていると、先の尖った顔と立派な角が滑るように車道に出てきてヘッドライトに照らし出される。


「なんだ、鹿か……びっくりした……」


 我が物顔で車道を横断しはじめたその牡鹿は道の真ん中まで来ると立ち止まってじっとこちらを見つめ、やがて道を渡った先の森へと消えていった。ゆっくりと深呼吸をし、私は再びアクセルを踏んだ。


 森の中を縫うように敷かれたアスファルトをもう4~5分ほどひた走る。やがて、道路脇から森へと続く道を見つけた。入り口に車を停めて降りたった地面は先日の雨でぐずぐずになっている。


 懐中電灯は家にあった中でも一番大きなものを持ってきたが、街灯の光の欠片さえ見えない森の中にあっては無力感すら覚えるような、温白色のぼんやりとした明るさだ。少し古いものなので仕方がない。


 無いよりはマシだ、そう独りでぼやきながら私は奥へと進んでいった。もっと照度の強い懐中電灯を用意するべきだったかもしれない。






 遊歩道と呼べるかどうかすら怪しいその道はかろうじて踏み固められてはいるものの、皺だらけの老婆の指のような木の根があちこちから飛び出している。ふと上を見上げると星明りは木々に遮られ、夏の夜特有のまとわりつくような凪いだ空気が重い静寂を生み出している。


 手元の心許こころもとない明かりが歩調に合わせて揺れるせいで時折照らされた先の影のうねりが生き物のように見え、そのたびにビクリとして歩みを止めてしまう。


 まだ見ぬ自分の一面に苦笑してしまう。とはいえ、私は先に進むしかない。準備と移動にかなりの時間を割いておいて今更帰るというのも気が引けたし、なにより自分が満足できるようなナニカがあるのではないかという期待感も高まっていた。


 奥に進むにつれて、少し遠いところでパキッという音が聞こえるようになった。風が凪いでいるせいで木ずれの音もなく、やけによく響く。さっきの牡鹿のような動物たちが枝を踏み折った音なのか、または別のナニカか。風化した骨が折れるときはこんな音なのだろうか、そう考えてしまい思わずブルリと体が震える。


 しばらく進むと道が二手に分かれている丁字路に出た。分岐部分には看板が立っており、周辺の簡易地図が載っている。左の道はそのまま別の出口に繋がっており、右はどうやら奥まで進むと立入禁止になっているらしい。


 私は迷わず右に進み始めた。看板があるから戻るときもここで曲がり損ねることは無いだろう。もし看板を素通りしたとしても別の出口に出るだけだ、そこから車道を辿って車まで戻ればよい。そう考え、深い深い森のさらに奥へと歩を進めていく。


 歩くうちにふと、聞こえ始めたときよりも周囲からの音が近いような気がしてきた。静かな森の中でパキッ、という音が鮮明に聞こえる。様子をうかがわれているような、監視されているような、そんな錯覚に陥る。


 大丈夫、まだ、逃げられる。


 逃げられる?なにから?






 看板から歩くこと約10分、「立入禁止」と書かれた黒と黄の縞模様が入っている柵が見えてきた。ここが看板にあった部分だろう。道の先は小高い丘に沿ってカーブになっているため先が見えない。手前で少し逡巡しつつも、私はその柵を避けて先へと進んだ。


 丘を避けるようにして曲がったところでふと向こうを照らすと、大きな岩のシルエットが見える。なんだろうと近づいた私は、ヒュッと息を吸い込み固まった。


 その大岩はゴツゴツとした雫のような形をしており、注連縄しめなわのような太い縄が巻かれている。そして。


 岩肌の全面に、おびただしい数の呪符のようなものが貼ってあった。


 オカルトや神事に詳しくない為、私には読むことができない。もしかすると神聖なお札なのかもしれない。しかし本能的な忌避きひ感を感じる。


 近づいてはいけない、触ってはいけない、目をそらしたい。


 私はそんなおどろおどろしい大岩を、立ち尽くしたまま見上げていた。恐怖すら感じる岩から目が離せない。いや、恐怖を感じるからこそだろうか。この岩はなんなのだろう、人を死に引き込むナニカを鎮めるためのものか、はたまた呪いの元凶のようなものなのか。とにもかくにも、これは要石である、絶対に動かしてはいけない。私は漠然とそう思った。


 よく見ると、岩陰でひらひらしたものが揺れている。最初は風に揺れた葉っぱか何かかと思って気にもしなかったが、あることに気づいた。


 いま、全く風は吹いていない。


 全身が総毛立つ。木々の葉がこすれる音さえしないこの沈黙の森で、一体何が揺れている?分からない。全く分からない。しかし。


 見たい、その正体を。そのために来たのだ。


 私は岩を中心にしてゆっくりと回り込んでいく。取れかけたお札か?いや、それよりも大きい。紅白の布のようだ。布?なぜ布がこんなところに?紅白模様もまだらだし、揺れ方から見てかなり薄い生地に見える。まるで、ドレスのような……。


 ドレス……?


 そこまで考えた私は、来た道を弾かれたように駆け出した。立入禁止の柵を越え、ぬかるむ地面から跳ねる泥も気にせず、必死に、ナニカに追われるようにして、走る、走る、走る。気づいてしまった、気づかされてしまった。


 突然、木々のざわめきが聞こえ出した。風が吹いている。そして同時に、パキッと枝を踏み折るような音が、後ろから付いてきているように聞こえる。気づいたことに気づかれたのか、何が何だか分からない。今はただこの場を、一刻も早く離れたい。


 あれは、ヒトだ。


 死装束に選んだ純白のドレスを自らの血で染めた、ヒトだ。ヒトだったものだ。だとしたら、今、私は何に追いかけられている?亡霊か?化け物か?それとも、「死」そのものか?バカな。


 木の根に足を取られそうになりながら、森を疾駆する。懐中電灯が急にチカチカと不規則に点滅を繰り返す、電池は出発前に交換したはずだ、クソッ。


 一体なんなんだ。なんであんなところには居たんだ。立入禁止で人は来ないが、それを越えてしまう者がいればまず最初に見つかるような、そんな場所に。


 まだまだ背後からの音は止まない。近付いてきてさえいる。やはり、いる。確実に、そこにいる。


 もっとだ、もっと離れなければ。


 しばらく走ったせいで息も絶え絶えになりながらふと、看板のある丁字路まではこんなに距離があっただろうかと思い始めた。全力疾走で鈍くなっている頭で考え事なんぞしているせいか看板は見逃したようだ。後ろに戻る訳にはいかない、このまま車道へ出るしかない。とにかく逃げなくては。


 その時だった。


「…に………いの?」


 かすれたような声が聞こえた気がして、私は頭が真っ白になる。コイツ、のか。思わず振り返るが、そこにあるのは虚ろな闇のみだ。


 もう訳が分からない、早くここから遠ざかろう。車に戻って、エンジンをかけて、アクセルを踏む、それだけだ。早く、早く、早く。


 背後に迫る得体の知れない恐怖と闘いながら走り続け、暗闇に完全に目が慣れてきている。もうすぐだ、街灯と白いガードレールが向こうにチラチラ見えている。


「……にい……ないの?」


 聞こえてくる声は、耳元で直接響くような鮮明さを帯びてきている。このままではマズイ、そう思ったが私に出来るのはただただ走ることだけだ。


 苦しい、吐く息さえも血が滲んでいるかのようにざらついている。頭は冴えている気がするのに、酸素が全く足りていない。アドレナリンの供給が止まったようだ、さっきまで気にもならなかったのに足が鉛のようだ。あと少し、あと少しなんだ。


 でも、少しくらい休んでも……。


 そんな訳はない!我に返った私は自分の思考に酷く驚いていた。どこのどいつがこの状況で座り込んで休むというのだ、そんな発想が出てくること自体に悪寒がする。まるで自分の頭の中を見知らぬ誰かに操作されたかのような、ひどい違和感が残っている。

 

 妙な思考を振り切り、とうとう車道が見えてきた。あと少し!あと少しだ!


 最後の力を振り絞り、囁く声には耳も貸さずに森から飛び出す。バッと見回した景色には見覚えがある……そうだ!牡鹿に驚いて車を停めた場所だ!であればあっちに向かえば……!


 気付けば私をさいなませていた声は止まり、開けた道に吹いた風が木々の葉を揺らしている。なんだかホッとした私は、上がり切った息を落ち着かせつつ車を停めた場所へと向かう。






 その後のことはあまり覚えていない。翌日目覚めると自宅のベッドに横になっていて、ぼーっとした頭で「ああ、家に帰ったんだな」と思った。


 昨日の疲れと夜更かしで起きたのは昼の15時頃だった。何か夢を見たような気もするが、何故か思い出そうとすることすら躊躇ためらわれた。


 昨晩のことを思い出す。超常現象に襲われた、のだろう。最早樹海に出かけたことすら夢だったのではないかと思えるが、玄関の靴に付いたままの乾いた土がそうではないと言っている。


 声の主であろうドレスの女性はしきりに私に囁いていた。何を囁いていたのか、あの時は無我夢中で逃げていて、耳を傾ける余裕が無かった。喉元過ぎればなんとやら、無事に帰ったいま「ああちゃんと聞いておけばよかった」などと考える自分の愚かさに思わず苦笑が漏れる。


 目覚めてしまったが、やはり疲れたな。もうひと眠りするとしよう。


 そう思い微睡みに任せて再び目を閉じた瞬間。


 まぶたの裏には、呪符まみれの岩と、暗い森が広がっていて。視界の端、至近距離でひらりとはためく血濡れのドレスが。


 叫び声をあげようとして、声が出ないことに気付く。身体も動かない。夢、そう、これは夢だ。

 

 必死に目前の光景を否定する私の真横には、ナニカが立っている。は、ゆっくりと私の耳元に顔を寄せて、こう言った。


「いっしょに、いかないの?」





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1. 鹿は生死を司るとされ、古来より神の使いとして描かれる。

2. 自殺者がその痕跡をあえて残すのは、誰かに見つけてもらうためである。

3. あの世の者に気に入られたまま、まっすぐ家へ帰ってはいけない。

4. 作者が実際に遭遇したのは、死者ではない。これ以上は言えない。

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