後編

 進学し、地元を離れてもう二年になる。大学には慣れた。生活に不満はなく、留年の心配もない。一緒に行動する友人もいる。それでも佳代子は、時々、この部屋から向こうには、誰もいないんじゃないかと思うときがある。そんなときはいつも、胸が潰れる様に冷たくて痛くて、息もできないような気持ちになった。

 しかし、そんな気持ちはここだから生み出されたものではない、佳代子は思いたかった。原因を、故郷から離れたこの場所に、一人暮らしの現状に求めることは佳代子にとって簡単な事だった。けれど、それはできなかった。

 佳代子にとって、ここにいることが不都合なものではない。地元とは勝手が違って心細くとも、自分が選んで来た場所だと思っている。

 地元で満たされていた何かは、確かに佳代子のもとから去ったかもしれない。しかし同時に、ここに来たことで満たされたものがあるはずだった。それに見て見ぬふりをして、この気持ちの原因にできるほど、佳代子はこの生活を嫌いにはなれない。そうすることで、また自分が何かを失ってしまう。そんな予感が漠然とあった。

 むしろこの気持ちは、昔から佳代子の中にあったものなのだ。それが、完全な他人に囲まれた鉄筋構造のマンションの中で、耳鳴りみたいに響く電子音を一人聞いている内に、浮かび上がってきた。そしてふとしたときに、無意識で、自分はそれを掬い上げてしまったのではないか。そんな風に佳代子は思う。


 ――そう。もしそうなんだったら、問題は何だっていうんだろう?

 それはわからなかった。

 問題をみとめるために、何かを否定はしたくない。否定は悲しい。でも、肯定だって痛くてできなかった。


 結局、佳代子にできることは、こうしてひっそりと泣いて、息をつくだけである。

 ――万事順調で、問題ない。

 佳代子は最近心の中でつぶやく。確認して、感謝するための言葉に必死になるのはなぜだろう。

 きっとこれでいいはずなのに。


 佳代子は、部屋の片隅で、涙をぬぐいながら、天井のシミを眺め思った。寒がりのように震えていた体は、少しずつおさまりを見せ始めている。ゆっくりと息を吐き出して、うずくまって震える息を抑えた。

 手を伸ばせば届く距離に、携帯はある。でも、伸ばすことが今ひどく怖かった。

 躊躇なく誰にでも電話をかけてしまいたい。――絶対に通話ボタンを押してはいけない。

 声を聴きたい。――でも、声を聴いたらもっと辛くなる。

 相反する気持ちが、十数センチの距離を遠くさせていた。


 今はだめだ。

 暫くしてわいた言葉は、どこか決然とした響きを持っていた。だめなのは、自分の状態なのか、電話なのか――それは両方であった。

 心のなかで繰り返した。今はだめだ。

 ――いっそ打ち明けてしまえばいい。そうすれば、友人はまた新たな佳代子を知り、親密になれるかもしれない。そう自分を鼓舞する。なのに、こういう時には、どうしようもないほど自信がなくなってしまう。

 

 自分を知る人に、心の奥をぶちまけるのが、ひどく怖い。気持ち悪いと思われないだろうかだとか、ひとつの事が一大事になり、佳代子をおそう。


 ――それならばいっそ、知らない人相手なら、いや、そもそも、心に寄り添ってくれるなら、いやむしろ聞いてくれるならだれでもいいとさえ思えてくる。

 すると今度は、そもそも、自分の中の、恥部とも暗部とも判断がつかないデリケートな話を、やっぱり自分をよく知らない人間にはできないというプライドが邪魔をする。

 そして、打ち明けられるような人間がそもそも自分の傍らにはいないから、こんな考えに陥るのだと、改めて傷ついてしまう。


 そんな自分のことを傲慢だとも、馬鹿らしいとも思う佳代子もまた存在しており、全てを笑ってごまかそうとしては、失敗する。


 そんならちもあかないことを飽きず繰り返しては、佳代子は結局誰にも言えぬまま、一人の夜を過ごしている。


 『たとえ、話せる相手がいたとしても、絶対に話さないくせに』

 心のなかで誰かがいう。

 だからお前はそんなに寒いのだと言う。それは間違いなく佳代子の声であった。


 それでも、佳代子は今どうしようもなく、携帯に手を伸ばしたい。

 例えば誰にでもこんな日はあるか、とか――それだけは知りたくて。


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のみくだした、 小槻みしろ/白崎ぼたん @tsuki_towa

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