のみくだした、

小槻みしろ/白崎ぼたん

前編

 飛び込むように部屋の中に入った。

 重いドアの閉まる音が響く。薄っぺらな造りの玄関に靴を脱ぎ捨て、電灯のスイッチに手を叩きつける。乾いた音に次いで明るくなった廊下を行く。響く足音は気にしなかった。


 短い廊下はすぐに先のドアに突きあたる。佳代子は、ドアを開くと中に入り、また電灯のスイッチを叩くと、カバンを床に放り投げた。


 カーペットでは衝撃を吸収しきれず、重い鈍い音が立つ。余韻は最小限に、辺りは後味の悪い静けさに包まれる。電子音が空しく重なる。佳代子は居心地悪く眉をしかめた。そうして落ち着けるように髪をくしゃくしゃにした。長い息をつく。


 窓ガラスに、眉間に深くしわを寄せ、口許を固く強ばらせた女の顔が映っていた。カーテンを開け放したままだった。


「……ごはん」


 強ばりのとけない、半端に開いた口で、佳代子はぼんやりと呟いた。本来口から飛び出そうとしたものを、寸でで変えた台詞だった。何故変えたかはわからない。変えなければいけない気持ちだけがあった。


 小さな冷蔵庫の冷凍室から、冷凍ご飯をひとつ取り出した。おひとり様ずつ、ラップに包んであるそれを茶わんに移し、電子レンジに放り込んだ。スイッチを押す。くるくる、暖色の光をまとって回転するそれをしり目に、佳代子は電気ケトルでお湯を沸かす。スイッチを入れて、することがなくなると、その間、佳代子は数回深呼吸をした。


 いそがなければいけない、けれど落ち着かなければいけない、相反した気持ちが佳代子の中でぐるぐる回っている。どうにか折り合いをつけたかった。


 解凍し終わったご飯に、梅昆布茶を適当に振りかけるとテーブルの上に置いた。箸を忘れていたことに気付き、佳代子は小さくざらついた声でうなった。首を振り、それに弾みをもらって立ち上がる。箸を取り戻ってくると、ちょうど湯が沸いたらしい、ケトルがカチリという音を立てた。


 佳代子は座ると同時に、湯をご飯に勢いよくかけた。粉末の梅昆布茶が半端に溶ける。

 いびつな形に盛られたご飯が浸るまで湯がくると、ケトルを置いた。茶碗の縁まで溢れそうになった危ういそれを、こぼさぬように用心して茶碗の底をそっと手ですくい上げる。これまでの動作の中で、一番優しい手つきだった。


 茶碗の縁に口をつけて、梅昆布茶をすする。熱に怯えるように、時折唇を離した。茶が食べやすい量に減るまでの間、それを繰り返した。そうしていい塩梅になると、佳代子は、お茶碗を顔に近づけたまま、手に持っていた箸で、中のご飯をやわやわと突き崩した。


 一度顔を離し、茶碗を俯瞰で眺めると、いよいよという風に顔を近づけ、ご飯のかたまりをすすった。開いた口に、固形物を投げ入れる様に箸を動かした。一緒に梅昆布茶が流れ込んでくる。ご飯のほのかな甘味と、梅昆布茶の酸味を、感じているのかいないのか、黙々と喉の向こうに通過させていた。箸が茶碗に当たる音と、加代子の熱から逃げるどこか自棄ばちな息継ぎの音だけが、辺りに満ちた。


 ふと、椀から顔を離した佳代子の目は茶漬けをにらみつけるように、見開かれていた。しかし佳代子は実際、茶漬けを見ているのではなかった。ただ視界に適当にいれた状態で機械的に咀嚼をしているのだった。


 そうしてふいに、佳代子の見開かれたままの目から、ぼろりと涙がこぼれた。間をおかず次の雫が落ちる。

 佳代子は目を閉じなかった。頬も拭わなかった。ただ、怒ったように、眉間の皺が深く刻まれた。顔を隠すように、椀にもう一度唇をつけると、また中身をかきこみ始めた。


 乱暴に箸を動かすので、茶碗が鳴る音がよりけたたましくなる。咀嚼がおいつかず、口の中にご飯がたまっていく。佳代子は無理やり喉の奥へ、流し込もうとした。

 息苦しさに、ぐっと喉を詰まらせて、きつく目を瞑った。椀を傾けた格好のまま、じっと固まる。それからしばらくして、つめていた息を、ゆっくり吐きだした。


 椀から離した佳代子の目は、涙と湯気に湿っていた。佳代子は箸を置いた。途端、息切れをしたように、しゃくりあげ始める。佳代子は開いた手で目を覆った。喉から、甲高い、震える息の漏れる音がする。不規則で不安定な、佳代子の泣き声が、ワンルームの部屋に響いた。

 自分を抱きしめる様に、立てた膝に顔をうずめた。佳代子は喉の奥に引く、悲鳴のような声を何度も上げた。

 それまで、必死で堪えていたものだった。しかし、わざと声を上げた。そうしないと耐えきれそうになかった。

 

 今日、帰り道で人身事故があった。電車は遅れた。誰かが、嫌そうに顔をしかめた。

 死んだのは、佳代子の知らない人だった。顔も名前も、知らない人だった。そもそも人身事故が起きること自体、そう珍しいものでもなかった。


 けれど、今日の佳代子はそれがとても悲しかった。見知らぬ人の死が、何故か、どうしようもなく胸に堪えた。辺りの喧騒、文句、無関心の中で、何故かいきなり、自分が落ちたような錯覚にあった。

 その衝撃を、誰に伝えていいかわからない。今流しているのは、佳代子自身意味が分からない涙なのだ。

 そしてそんなとき咄嗟にかけようと思える電話番号が、佳代子にはなかった。


 涙をぬぐう。拭っても、拭っても後からこぼれてくる。落ちたマスカラのせいで指が黒く染まっていた。きっと顔はお化けの様になっているだろう。それが滑稽で、みじめでひたすら悲しかった。

 一人暮らしの部屋は、やけに広くて、寒くて、心もとなかった。

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