事故物件
さかもと
事故物件
ズドンと、外からの衝撃音。部屋の壁が少し震えた気がした。
リビングで、だらけた姿勢でテレビを観ていた私は一瞬何事かと思い、音のした方向、玄関ドアの方へ目を向けた。
ここはマンションの11階で、玄関ドアを開けた向こう側には廊下と柵しかない。さっきの衝撃音は、もしかしたら階下のどこかで何かが爆発した音なのかもしれない。
私は立ち上がり、おそるおそる玄関に向かって足を進めた。ドアスコープの目隠しカバーを横にずらして、そこから外の様子を伺う。すぐ目の前に廊下と柵が見えたが、その柵の手前に何かが置かれていることに気づいた。
「椅子?」
私は思わずつぶやいていた。柵の手前に、よく食卓に置かれているような木製の椅子が1つ、ぽつんと置かれていたのだ。
目をドアスコープから外して、ゆっくりと鍵を回してドアを開ける。外の暖かい空気が室内に入り込んでくるのを感じながら、目の前の柵に目を向けると、やはりそこには椅子が置かれていた。私は椅子の周囲に不審な物が置かれていないのを確認してから、ゆっくりとその椅子に近づいた。
実際に近くで見ると、それは何の変哲もない普通の4本足の椅子だった。適度に使い込まれてところどころ傷がついているが、それほど古びた感じはしない。腰を下ろす部分には、座布団が紐で結びつけられていた。
不意に人の気配を感じて私は顔を横に向けた。そこそこ長い廊下の先に、何人かの人の姿が見えた。きっと同じ階の住人が、先ほどの衝撃音を耳にして外に出てきたのだろう。その住人達は、柵にもたれかかるようにして、階下へ視線を向けている。皆一様に、眉を寄せたような表情をしていることに私は気づいた。嫌な予感がした。
私は柵に近づき、柵から身を乗り出すようにしてすぐ真下の地上に目を向けた。
人の形をした何かの姿が目に飛び込んできた。一瞬、人形かと思ったが、おそらくあれは人間だろう。上半身が裸で、下半身はパンツ一枚の姿だった。体格からして、明らかに男性だろう。それが、地面に倒れ込むような形で横になっていて、右手と左足が奇妙な形にねじ曲がっている。ここからは男の後頭部しか見えないが、その辺りから、赤黒い液体がじわじわとコンクリートの地面に広がっていくのが、離れたここからでもわかった。
今見ている物に現実感がなくて、あまりピンとこない。テレビドラマでよく見かけるようなシーンみたいだ。
一寸間を置いて、あれは一体誰なんだろうという疑問が心の中を満たしていった。このマンションの住人なのだろうか。もしかして、飛び降りた? さっきの衝撃音は、飛び降りた男が地面に激突した時の音だったのだろうか。
そこまで考えて、ようやく私は男の死体から目を背けた。そして、私のすぐ隣に置かれている椅子に、再び意識を戻した。
この椅子は、何?
そう思い、私は、もしかしてと思った。
あの男は、ここから飛び降りた?
廊下の柵の高さは、私の胸の所まであり、結構高い。この柵を乗り越えるのに必要だったから、どこかから椅子をここまで持ってきて、これを踏み台にして真下の地面に向かって飛び降りた?
どうして、と考えるより先に、私は薄気味悪さを感じていた。肌が、粟立っていた。
* * *
「大丈夫、由紀?」
仕事から帰ってきた夫の芳彦が、正面から私の顔を覗き込んできた。とても心配している顔つきだった。
「大丈夫だよ。けど、ずっと気味が悪くて……」
芳彦には、今日の昼間に起こったことの顛末を、さっきLINEで知らせてあった。
「警察がうちに来たって、本当なの?」
男が飛び降り自殺した現場を目撃してしまったのが今日のお昼過ぎで、それから4時間ほどして、制服を来た警察官が二人連れだって自宅を尋ねてきたのだ。
警察官からはまず、部屋のすぐ前の柵の手前に置かれた椅子のことを尋ねられた。私はただ、何も知らないと答えた。そして次に、飛び降り自殺した男は、実は私の部屋のちょうど真上の部屋で暮らしていた住人だということを明かした上で、その男と以前から面識があったのかどうかについて尋ねられた。
もちろん私は知らないと答えた。すると警察官は、おそらく私の部屋の前に置かれている椅子は、その男が自宅の部屋から持ち出して置いたものである可能性が高いと言ってきた。そしてそれは、その椅子を使って柵を乗り越え、飛び降りたのかもしれないということを意味していた。
私はその話を聞いて、思わず絶句してしまった。
真上の部屋の住人ということは、その男は自室からわざわざ椅子を持ち出して、1つ下の階の私の部屋まで持って来て、そこから柵を乗り越えて飛び降りたということなのか。
いったい何のために、という疑念が湧いた。飛び降りるにしても、自分の部屋の前から飛び降りずに、どうして1階下の部屋の前まで降りてきて、そうしたのかがわからない。
意図が全くわからない、という不気味さが、私の頭の中を支配していた。
その椅子は、証拠物件として警察の方で預かることになったらしく、その後、私の目の前で撤去されていった。
私が、今の気持ちを包み隠さずに芳彦に伝えると、彼は少し考えるような顔をしてから、
「確かに意味がわからないよな。でも、うちの真上の部屋って言ったら、前から由紀が気にしてたよな?」
と、言ってきた。
芳彦が言っているのは、きっと騒音のことだ。以前から、昼間の一定の時間だけ、上階からどたばたと床を踏みならすような音が聞こえてきていて、それが私の耳には気になっていたのだ。
騒音の方向からして、真上の部屋で間違いないことはわかっていたので、直接苦情を言いに行こうかと迷っていた時期があり、それを芳彦に相談したこともある。けど、近隣の住人と揉めることを嫌がったのか、芳彦からは苦情を言いに行くことを一旦止められていた。その代わりに、このマンションの管理人に頼んで、騒音の苦情が相手方に届くように交渉してみると彼は言っていた。その後、音沙汰がないので、まだその件を管理人に話しには行ってくれてはいないようだが。
それにしても、その騒音のことから鑑みるに、おそらく上の部屋には小さな子供が住んでいるはずだ。ということは、さきほど飛び降りて亡くなった男の子供なのだろうか。状況から考えて、その可能性が高いと思うが、残された家族のことに思いが至った。昼間に目撃した現場のインパクトが強すぎて、自分の中に沈殿しているショックをどう受け流すかということで気持ちが精一杯だったのだが、男の家族のことにまで思いが至り、私の胸は初めて小さな痛みを感じた。
「たぶん、上の部屋って、小さな子がいるはずなんだけど、気の毒にね……」
私は俯きながらそう言った。
「どんな事情があるにせよ、残された家族は大変だろうな、これから」
芳彦のその言葉が耳に入ってきて、あの男に一体どんな事情があったのだろうと私は考えた。全く何もわからないのだが、やはり解せないのは、私の部屋の前から飛び落りたということだった。男のことを考える時、どうしても、そこに意識の全てが持っていかれてしまう。まるで、私自身に何かを訴えかけられているような気がして、私は男の背景にありそうな様々な事象に対して思いをはせた。
「いくら考えたってしょうがないよ。結局何もわからない。所詮は赤の他人なんだし」
黙り込んでいる私に、芳彦はわざと明るい表情を作りながら声をかけてきた。
「そうだよね、同じマンションの上下の部屋の、こんなに近くで暮らしているのに、何もわからないんだよね」
そう言った私は、夕飯の支度がまだ何もできていないことに気づいた。
「ごめん、まだ晩ご飯の準備何もできてないんだ」
「いや、もう今日はいいよ。無理もないと思う。何か出前でも取ろうか?」
芳彦が胸ポケットからスマホを取り出して、指先でせわしなく画面をなぞり出す。私はその姿を横目にしながら、まだ男のことについてしばらく考えていた。
* * *
それから1ヶ月ほど経ったある日のことだった。私がいつものように自宅でリビングの掃除をしていると、例の真上の部屋から、またあのどたばたと足を踏みならす音が聞こえてきたのだ。
また始まったのか、と私は思った。
あの事件があってからというもの、真上の部屋から騒音が聞こえてきたことは一度たりともなかった。おそらくあんな事があったのだから、あの男の家族はしばらくどこか別の場所にでも身を寄せていたのかもしれない。それが、そろそろほとぼりが冷めた時期を見計らって、また上の部屋に戻ってきて、元の暮らしを始めたのかもしれない。そう考えながら、私はしばらく天井を見上げていた。
その日からその騒音は、毎日のように続くようになった。たいていお昼過ぎから夕方にかけて、断続的にどんどんという床を踏みならす音が聞こえてくる。一週間ほど様子を見てから、芳彦にその話をしてみたのだが、彼は「そうだな、管理人さんを見つけたら、それとなく俺の方から伝えてなんとかしてもらえないか相談しておくよ。前からそうするつもりだったし」と言ってくれた。
* * *
その日もお昼過ぎになると、上の部屋から子供の足音が聞こえていた。
どんどんどんどんどんどんどんどん。
いくつくらいの子供なのだろうか。奥さんはどんな人なのだろう。私の胸の中で、徐々に好奇心が頭をもたげてきていた。
私が今いるこのリビングの真上で、フローリングの床板を踏みならしながら縦横無尽に走り回る小さな子供の姿と、その傍らにいる女性の姿が同時に脳裏に浮かんだ。
ちょっと、様子を見に行ってみようか。突如、そんな考えが心に浮かんだ。今、私が上の部屋に行って、インターホンのチャイムを鳴らすと、きっと奥さんが出てくるだろう。1階下の住人であることだけを伝えて、騒音のことでやんわりと苦情を伝えてみたら、奥さんは一体どんな反応をするだろうか。もしかしたらそこから、奥さんとのゆるいつながりができて、例の椅子にまつわる不可解な出来事についても、何か知るきっかけになるかもしれない。
しばらく迷ったあげく、私は思いきって上の部屋に行ってみることにした。
私は自室のクローゼットをかき回して、黒っぽいブラウスとスカートに着替えた。鏡の前で軽く化粧をまぶしながら、一体自分は何をしようとしているんだろうと自問した。私は、あの男の死体を見てしまった時から、ずっと胸の中でつっかえている物を取り除いてすっきりとさせたいんだ。自分にそう言い聞かせる。
身なりを整え終えた私は、そのまま自分の部屋を出て、階段を使って1つ上の階に上がった。件の部屋の前までゆっくりと歩を進め、ドアの前で大きく深呼吸する。よし、行くぞ。意を決してインターホンのチャイムを鳴らした。
ピンポーンという間延びした電子音が部屋の中から聞こえてくる。全身の神経を顔に集中して笑顔を作り込んだ。そのまましばらく反応を待ってみたが、インターホンからはうんともすんとも聞こえてはこない。もう一度、チャイムのボタンを押し込んで音を鳴らした。壊れている訳ではない。きっと、ドアの向こう側にあるモニターには、作り笑いで引きつった私の顔が一面に映し出されているはずだ。
インターホンに出られる人は留守にしているのだろうか。小さな子供だけを一人残して、奥さんは買い物に行っているとか、そういうことなのかもしれない。
今日のところはあきらめて自分の部屋へ戻るしかないかな。そう思いながら、なんとなくドアのノブに手をかけて、手前に引いてみた。
ドアが音もなく開いた。
鍵がかかっていない。そのことに気づいたのと、開いたドアの先、ちょうど玄関の所に人の気配を感じて、私は思わず声をあげそうになった。
背の低い、子供。女の子が立っていた。
いくつくらいの女の子だろう。まだ小学校にも上がっていないくらいの、幼い感じの女の子だ。きっと、床を踏みならして部屋中を走り回っている子供がこの子なんだろうなと、私は思った。
それにしても、こんな小さな子供を一人で留守番させるのに、家の戸締まりをしていないなんて、不用心にもほどがある。
私は片手でドアを開けたまま、少しかがみ込んで中腰になった。女の子とちょうど目線の高さが揃うようにして、「こんにちわ、突然ごめんね」と声をかけた。
「家族の人に少しお話があるんだけど、今はお留守なのかな?」
続けてそう言いながら私は、とても暗い目をした女の子だなと感じていた。この子からは何というか、生気というものがあまり感じられない。青白い顔の上に、全てをあきらめてしまったような暗い表情。大袈裟かもしれないが、少なくともそれは、このくらいの年齢の女の子が普段から浮かべるような表情ではなかった。おまけに髪の毛はボサボサで、ところどころほつれているのがわかる。
「ずっと、いないの」
女の子の口から言葉が出てきた。その声にも、どこか生気がなかった。
「ずっとって、どういうこと?」
「ずっと前から、ママ帰ってこない」
この子の母親が帰ってこないとは、どういうことなのなだろう。
「ずっとって、どのくらい前から?」
「わかんない」
わからないくらい前から、この家に戻ってきていないということか。
「他に家族の人はいないの? ママ以外に」
すると女の子は、私の目を見つめながら、こくりとうなずいた。
父親があんな形で亡くなって、母親はどこかに出かけたきり戻ってこない。そういうことなんだろうか。女の子の暗い目を見ながら、私はちょっと信じられないという気持ちになった。
「じゃあ、ずっと一人でここにいるの?」
女の子はうつむいて、「うん」と答えた。
毎日の食事やお風呂なんかはどうしているんだろう。母親が戻ってこないのには、何か事情があるんだろうけど、このままこの子をここに放っておくのはまずい。
あまり深入りすべきではないと、私の理性が危険信号を送ってきていたが、それでも口が勝手に動いてしまっていた。
「ちょっと、うちに来ない? 何か食べるもの作ってあげるから」
女の子は何も答えずに、じっとうつむいたままだった。私と目を合わせようとしない。
「おいで」
そう言って、私は女の子の手をつかんでいた。
* * *
女の子を連れて、一階下の私の自宅まで来た。部屋に入れて、とりあえずリビングの食卓に座らせる。
私はキッチンへ行き、袋ラーメンに玉子を落としたものを急いで作って、とりあえずそれを食卓へ運んだ。すると女の子はかき込むような勢いで、あっという間にそれを平らげてしまった。たぶん、もう何日もまともな食事をしていなかったのだろう。
食べ終わった女の子は、椅子の背もたれに身をあずけたまま、ただじっとぼんやりと虚空の一点を見つめていた。
「少し、髪をといてあげるね」
そう言って私は洗面台から自分の櫛を持ってきて、椅子に座った女の子の後ろに立った。本当を言うと、お風呂に入れてあげたかったのだが、そこまでやることには抵抗を感じた。見ず知らずの赤の他人を、親の許可もなく自宅に連れて行くのは、もしかしたら誘拐のような罪に問われる行為に当たるかもしれない。そう思うと、とりあえずはご飯だけを食べさせて、今日のところは家に帰した方がよいと思ったのだ。
女の子の髪にゆっくりと櫛を通しながら、「あなた、名前はなんて言うの?」と尋ねてみた。
女の子は前を向いたまま、「ミサノ」とだけ答えが返ってきた。
続けて、「ふーん、ミサノちゃんは今いくつなの?」と尋ねてみたが、それに対する答えは返ってこなかった。もしかしたらまだ、年齢の概念もよくわかっていないのかもしれない。
ふと、父親のことを尋ねてみようかと思ったが、それはさすがに残酷すぎるだろうと思い、すぐに心の引き出しにしまった。自分の父親のしたことの、その意味も全く理解していないだろう。年齢や、死に対する概念がまだまだあやふやな年齢なのだ。そんな彼女に、これ以上、家族のあれやこれやについて問いかけるのはよしておいた方がいいだろう。
これからどうしたものかと、私は考えていた。
状況から考えて、この子が今置かれている状況は、あきらかに親によるネグレクトだろう。最近父親が亡くなったことから考えて、事情はかなり複雑に入り組んでいるんだろうけど、家族の外から何らかの支援が必要なことは明らかだ。こういう時、どこかに相談できる行政施設の窓口が確かあったはずだ。後でネットで調べてみて、私がそこへ連絡するのがベストかもしれない。
そんなことを考えながら、櫛でミサノちゃんの髪を梳かし終えた。
私はミサノちゃんの前に回り、中腰になって目線を合わせた。相変わらず、目の色が暗い子だなと思った。食事を終えても、見た目を取り繕っても、そこだけは変わらなかった。
「ミサノちゃん、このままここでくつろいでもらう訳にはいかなくて、一度おうちに戻ってもらわないといけないんだ」
ミサノちゃんがじっとこちらの目を見つめてくる。その目には何の感情もこもっていないように私には見えた。
「明日の朝に、また私がおうちまで迎えにいくから、それまで私のこと待っててくれるかな?」
ミサノちゃんが軽くうなずいたような気がした。私はその様子を見てから、ミサノちゃんの手をつかんで椅子から立ち上がらせた。
* * *
ミサノちゃんを上階にある彼女の自宅の前まで連れて行き、ドアを開けて彼女を中に入れた。
「おうちの鍵のかけ方わかる?」
別れる前にそう尋ねると、ミサノちゃんはドアの鍵の辺りを手でまさぐるような仕草をするのだが、実際に鍵を回してかけたり外したりすることはできないようだった。このマンションの玄関ドアの鍵は、セキュリティの関係で鍵の側の小さなつまみを押さえながら回さなければならないので、そのあたりの仕組みを理解するのが、小さな子供には難しいのかもしれない。
「わからないよね……しょうがないか」
私はそう言って、ミサノちゃんを中に入れてドアを閉めた。鍵がかかっていないのは不安だったが、致し方ない。できるだけ早く彼女をなんとかしなければいけない、そう思いながら、私はドアに背を向けて自室へ向かった。
* * *
自室へ戻ってきた私がまず最初にしたことは、自分のパソコンを立ち上げて、ネットで児童虐待のことについて調べることだった。
児童虐待は、大きく分けて4つのカテゴリに分類されており、身体的虐待・心理的虐待・性的虐待・ネグレクトの4つがあるということだった。この内、ミサノちゃんが受けている虐待は4つ目のネグレクトにあたるのだろう。子供を家に残して外出し、その間一切の食事を与えない、という行為がそれにあたる。
気になるのはどの位の期間、ミサノちゃんが放置されているかだった。彼女に尋ねた時は、「ずっと前から、ママが帰ってこない」とだけ言っていた。「ずっと」ということは、それなりに長い期間、最低でもここ4~5日くらいは母親は帰宅していないのではないか。その間、彼女はおそらく水道の蛇口をひねって水を飲み、冷蔵庫の中にあるものを適当に食べて飢えを凌いでいたのではないだろうか。
そこまで考えて、私は自室の天井に目を向けた。今のところはまだ、ミサノちゃんが部屋の中を走り回る足音が聞こえてきているので、それなりに元気はあるのだろう。体力的な意味では、まだ安心なのかもしれない。けれども、他方ではそれは、彼女の情緒が不安定になっていることが行動として表に現れてきているのかもしれない。そのことに思いが至り、私は苦しい気持ちになった。
私はさらにネット検索を使って、私たちが住んでいる市が運営している児童相談所の緊急ダイアルの番号を調べた。今夜、芳彦が仕事から帰宅するのを待って、彼に今日あったことを相談してみようと思った。その上で明日にでも、この緊急ダイアルに連絡してみようと私は考えていた。
* * *
仕事から戻ってきた芳彦は、リビングに入ってくるなり怪訝そうな顔をしながら私に話しかけてきた。
「さっき、マンションの玄関のところで管理人の人と会ったんだけどさ、例のこと伝えておいたよ」
伝えておいたと言うのは、上の部屋の騒音のことだろう。でも、今日の昼間の出来事で、状況はさらに複雑になっている。そのことを芳彦にどうやって説明しようかと躊躇していると、彼の方が意外なことを口にした。
「でも、変な話なんだけど、管理人さんが言うには、この真上の部屋に住んでる人、今は誰もいないらしいんだよ」
芳彦はどうにも解せないという顔をしている。
「誰もいないって、どういうこと?」
「おかしいだろ? 由紀は、確かにこの上から足音みたいな騒音を何度も耳にしてるんだよね?」
私は強くうなずきながら、「誰も住んでる人がいないっていうのは何かの間違いだと思う」と答えた。
私は言葉を続ける。
「上の部屋には今、小さな女の子が一人でいるのよ」
「どういうこと?」
さっぱりわからないという顔をして、芳彦が尋ねてくる。
私は、今日の昼間あったことを、手短に芳彦に説明した。彼はずっと黙って聞いていたが、どうも母親からネグレクトされているのではないかという意味のことを伝えた時に、少し眉をひそめるような表情をしていた。
「おかしいよな、確かに管理人さんは今は空部屋になってるって言ってたんだけどな……」
確かに、そこは辻褄があっていなかった。かと言って、私がさっきまで女の子と一緒にいたことは事実だし、そこは管理人さんが何か勘違いしているだけなのではないかと思った。
「私、児童相談所の緊急ダイアルに相談してみようと思う」と芳彦に伝えると、「ちょっと待って」と彼は私に言った。
「とりあえず明日の朝にでも、管理人さんをつかまえて、上の部屋の様子を見に行ってもらおうよ。管理人さんに立ちあってもらって、部屋の中を調べてもらって、本当に女の子が一人で置き去りにされているっていう事実を確認してから、その上で児童相談所なり、何かの福祉につなげてもらうっていうことにした方がよくないか?」
芳彦のその話を聞いた私も、そうした方がいいのではないかと思えた。私たちで深入りするよりも、信頼できる第三者に調べてもらった上で対応をお願いする方が筋が通っていると思ったのだ。
「いいよ、じゃあそうしよう」
そう答えて、私は天井を見上げた。例の足音は聞こえてこない。ミサノちゃんはもう眠っているのだろうか。
* * *
翌朝、私は、仕事を午前休にしてくれた芳彦と共に、9時きっかりにマンションの1階にある管理人室へ向かった。
管理人室のインターホンを鳴らし、中から出てきた小太りの中年男性に、芳彦から事の経緯を説明してもらった。一通り説明し終えると、管理人さんは難しい顔をしながら、「すると、1205号室に今でも誰か住んでいると、そういうことですか?」と確認を求めてきた。
「はい、確かに昨日訪ねた時には、小さな女の子が一人でお留守番していたんです」
私からそう伝えると、管理人さんは
「おかしいな。先月、例の事があってから、亡くなった男性のご親族の方からは、しばらく空き部屋になるので何かあったらお願いしますと連絡を受けているんですけどね」
そんなはずはない、と思いながら私は、管理人さんが『男性のご親族』という言い方をしたことが気になった。
「あの、先月亡くなった男性には、小さな女の子のお子さんがいらして、男性が亡くなるまでは一緒に暮らされていたんですよね?」
私がそう訪ねると、管理人さんは何かを言いかけて、「いや、ちょっとそれは個人情報にあたるので、他の住人の方にお伝えすることはできないんですよ」と言い直した。
やはり解せない。昨日私が出会った女の子は、あの男の子供ではないかもしれないということなのか。もしそうだとしたら、一体あの子は誰なのだろう。
「女の子が一人で1205号室にいるのを、確かに確認されたんですよね?」
管理人さんが念押ししてくるので、私は、「はい、確かにいたんです」と答えた。
「もしそうだとしたら、不法侵入の疑いがあるので、警察を呼んで立ち会いのもとで部屋を確認することになります。これからどうするかは私の方で管理会社と相談しながら決めますので、もし今後の状況に進展がありましたら、私の方からお伝えにあがります。ですので、今日のところはお引き取り願えませんでしょうか?」
そう言うと管理人さんは深く頭を下げて、管理人室へ引っ込んでしまった。
その場に取り残された私と芳彦は、お互いに顔を見合わせてため息をついた。
「なんなんだろうね、一体」
「私もわからない。狐に騙されてたのかな、もしかして」
「狐というか、なんかその、幽霊みたいなものを見たんじゃないの?」
ミサノちゃんが幽霊? そんなことあるわけない。私は、彼女の髪を梳かした時の手の感触をありありと思い出すことができた。
「ばかなこと言わないでよ」
そう言って、私は芳彦の顔から目を逸らす。
「とりあえず、今の俺たちにできることはもうないから、あとは管理人さんなり警察なりに任せておけばいいんじゃないかな。俺たちは一旦、家に戻ろうか」
そう言ってエレベーターホールへ歩き出す芳彦の後について、私も歩き出した。
* * *
自室に戻ると芳彦はすぐに、「仕事へ行ってくる」と言い残して、そのまま出て行ってしまった。芳彦は、このことを一体どう思っているのだろう。変な話になってしまったと感じているのかもしれないが、とりたててそれほど気にしているような様子もなかった。それは、飄々とした彼の性格をよく表している。
私はというと、昨日の出来事が気になって仕方がなかった。確かにミサノちゃんは今も上の部屋に住んでいるというのに、それがあっさりと否定されてしまうことに納得がいかなかった。おまけに、ミサノちゃん自身が何者なのかという点まで疑わしくなってきていて、正直頭が混乱していた。それに、さっき芳彦が言った『幽霊』という言葉も気になっていた。幽霊など、これまでの人生で一度たりとも遭遇したことはなかったが、私はその存在自体を否定している訳ではない。実は、私の父方の叔父が、そういったいわゆる『霊感』のようなものに強いらしくて、私が幼い頃からよく不思議な話を聞かされて育ってきたせいなのかもしれない。
そう、さっき『幽霊』という言葉を聞いた時から、ネットで調べてみようと思いついたことがあったのだ。
私は自分の部屋へ行くと、パソコンを立ち上げた。検索サイトを開いて、まず『事故物件』と打ち込んだ。すると画面の一番上に『大島てる物件公示サイト』という文字が表示された。確かこれだったはずだ。私はマウスを動かして、その文字をクリックしていた。
もうかなり以前に、私の友人が引っ越し先を探していたことがあり、その際、過去に人の死に関わるような事件が発生した部屋に当たらないようにする為に、ネット上の情報を調べたと言っていたのだ。その際に使ったサイトのことを『大島てる』と言っていたような気がする。きっと、このサイトのことなのだろう。
サイトを開くと、画面全体に日本地図が表示された。私はマウスを動かして、その地図を拡大表示していき、私が住んでいる地域全体が表示されるようにした。
私は次に、地図上にあるはずの私の住んでいるマンションを探した。ゆっくりと地図を拡大表示していき、自分のマンションを見つけた。表示された私のマンションの上に、炎のようなマークが表示されている。
この炎のようなマークはなんなのだろう。そう思いながら、その炎マークにマウスカーソルを乗せて、クリックした。すると、画面の左側に文章が表示されることに気づいた。
『30代の男性が11階から飛び降り自殺』
そこに表示された文字を目にした時、私はこのサイトの意味を理解した。きっとこれは、なんらかの死亡事件や事故などが発生した際に、それを目撃した人が、地図上の位置情報と紐付けて投稿できるようになっているサイトなのだろう。私の友達も、確かにそういう意味のことを言っていたような気がする。
この投稿の日付は今から1ヶ月ほど前になっている。ということは明らかにこれは私の部屋の前から飛び降りたあの男に関する投稿だ。あの事件を目撃した、このマンションの住人の誰かが、このサイトに投稿したのだろうか。それはよくわからないが、忌まわしい事件が起こった現場に関する情報が、こんなにもあからさまにネット上で公開されてしまっていることに、私はあまりいい気持ちではいられなかった。
そして私は、今クリックした炎アイコンの隣に、同じアイコンがもう1つあることに気づいた。これはなんだろう、もしかしてもう1つ何かこのマンションで起こった事件があって、それに関する情報が投稿されているのだろうか、そう思いながら私はもう1つのアイコンをクリックした。
『1205号室。3歳の女の子が母親のネグレクトによる孤独死』
私は思わず、「これって……」と声を漏らしていた。
3歳の女の子。孤独死。1205号室。
この投稿がされた日付は、今から4年前になっていた。4年前と言えば、私たち夫婦がこの部屋に引っ越してくる1年ほど前のことだ。そんな以前に、この上の部屋で、子供が亡くなるような悲惨な事件があったということか。
「ミサノちゃん……」
私はどんどん混乱していく頭を、なんとか落ち着けたいと思った。マウスから手を離し、すぐ傍らに置いてあったスマホを手に取る。LINEのアプリを開いて、最近は滅多に連絡を取っていない叔父のアイコンを探し、そこへメッセージを入力した。
「ちょっと相談したいことがあるんだけど」
それだけの文字を入力して、送信ボタンをタップする。しばらく反応を待ってみたが、既読はつかない。すぐに返事が返ってきそうな気配はなかった。
私はしばらく迷った挙げ句、スマホを手にしたまま立ち上がった。そのまま玄関へ向かい、自室を出る。階段を使って、上の階まで上がった。
昨日ミサノちゃんと出会った、あの部屋へと足を向ける。
4年前になくなった女の子とは、ミサノちゃんのことなのだろうか。だとすると、私が昨日出会った彼女は、俗に言う『霊的な存在』だということになる。けれども、もしそうだったとしても、今の私の中には不思議と恐怖などの感情が湧き上がってこなかった。それよりも、一体彼女は何を思って私の前に出てきたのだろうという疑問の方が強かった。もしかすると、何か周囲にいる大人に対して、言いたいことや伝えたい何かがあったのではないだろうか。私はそれが知りたい。そう思っていた。
私は、件の部屋の前に立ち、ためらうことなくインターホンを鳴らした。しばらく待ってみて、反応がないことを確認してから、ドアノブに手をかけて手前に引いた。だが、昨日と違ってびくともしない。何度か強くドアノブを引いてみたが、やはり内側から鍵がかかっているようで、それが開くことは決してなかった。
私は目の前のドアをじっと見つめながら、しばらく呆然としていた。
その時、右手に持っていたスマホが振動し、それに驚いた私は思わず取り落としそうになった。かろうじてなんとか掴んだスマホを裏返して画面を確認すると、さっき叔父に送ったLINEに、「相談って何?」というメッセージが返ってきていた。
私が、「ごめん、今、音声通話できる?」と打って送信すると、すぐに叔父から音声通話のリクエストが飛んできた。通話ボタンをタップして、スマホを耳にあてる。
「叔父さん、こんにちわ。お久しぶりです」
「なんだよ、由紀ちゃんが俺に相談なんて、珍しいからびっくりしたよ」
私は、「ちょっと意見を聞きたいことがあって」と切り出し、今まであったことの経緯をあらかた簡潔に整理して叔父に伝えた。昔から霊的なものに抵抗のない叔父にだったら、ミサノちゃんのことを話しても、笑わずに真剣に聞いてくれると思ったのだ。
叔父は私の話を聞きながら、スマホの向こうでパソコンを操作しているようだった。きっと私が調べた時に出てきた例の事故物件サイトを確認しているのだろう。
一通り説明し終えた私は、「ミサノちゃん、どうして私の前に出てきたんだろう?」と、叔父に尋ねてみた。
「今、この大島てるっていうサイトを見てるんだけど、3歳の女の子が母親のネグレクトで餓死っていうことは、たぶん母親が子供を家に閉じ込めたまま何日も帰ってこなかったんだろうな。家の鍵を内側から開ける方法を知らなかったから、外に助けを呼ぶこともできずに、ただただずっと母親の帰りを待ち続けて、そのまま亡くなったってことなんだろう」
私は叔父の話を黙って聞いていた。小さな女の子が飢えで亡くなるなんてことが、今の時代に起こりうることなんだろうか。その時の女の子の気持ちを考えると、胸がつまりそうになる。
夏になると、幼い我が子をエアコンを切った車の中に残してパチンコに興じていて、そのまま子供を熱中症で亡くしてしまう親がたまにいる。新聞やニュースなどで毎年のように報じられているのを目にするにつけ、そういうことはそれほど珍しいことでもないのだろう。そういう親がいるということは、子供のいない私にも想像はできる。理解はできないが。
叔父は話を続けた。
「きっと、お腹をすかせて衰弱しながら母親の帰りをずっと何日も待ち続けたっていう、その強い気持ちが霊的な存在として、今も由紀ちゃんの上の部屋に残り続けているんじゃないだろうか」
『霊的な存在』という言葉を叔父の口から耳にしても、今の私には何も違和感はなかった。それは、ごくごく自然に私たちの身近に溶け込んでいるもののように感じられた。
「ここからは、俺の推察なんだけど、このサイトの投稿には、母親の存在しか書かれていないよな?」
私は、「うん」と答えた。確かに大島てるのサイトには、『母親のネグレクト』としか書かれていない。
「じゃあ、父親の方はどうしていたんだって、俺なんかは思ってしまうんだよな。おそらく離婚していて、シングルマザーだったんじゃないのかなって思う。それで、そんな母親だから、離婚した後で、自宅に別の男を連れ込んだりしていたんじゃないかな。すぐ側に、その女の子もずっと一緒に暮らしているわけだよな。母親の方は、女の子の存在を邪魔だと感じながら、別の男と過ごしていたんじゃないかなって思う」
叔父の話が、あまり想像したくない方向へ流れ始めた。
「その女の子は、ミサノちゃんっていうんだっけ? 3歳なんだよな。3歳っていっても、そういう自分が周囲から疎まれているという空気みたいなものは理解できる位の年齢だと思うんだ。きっと、そういう空気の中で暮らしていく中で、若い男性に対する嫌悪感みたいなものを抱きながら日々過ごしていたんじゃないかって思うんだ」
そうかもしれない。私はそこまで考えていなかった。
「で、その嫌悪感みたいなマイナスの感情な。そういうのって、霊的なものとものすごく親和性が高くて、その感情が発生した場所に結びついて、ずっと残り続けることがよくあるんだよ」
叔父が、何を言おうとしているのかよくわからなかった。
「大島てるのサイトに載ってる、もう1つの事故物件ケースがあるだろ。先月、飛び降り自殺した若い男の件だ。きっとその男は、ミサノちゃんが亡くなった後で、空き部屋になったその部屋に、新たに引っ越してきたんだろう。そして、その場所に残っていたミサノちゃんの嫌悪感というか、そのネガティブな霊的なものが、男に対してなんらかの反応を起こしてしまったとしたら……」
気づかなかった。ミサノちゃんの霊的なもの、よく、呪いだとか怨念だとか、そういう言葉で表現されるものが、ミサノちゃんから発せられて、男がそれに巻き込まれる形で命を落としたのだとしたら。
「おい、由紀ちゃん。聞いてるか?」
「うん、聞いてるよ。でも、その男の人が自殺したのが、ミサノちゃんのせいだなんて、どうしても思えないよ。あんなに小さくてか弱い感じの女の子が、そんな残酷なことできるわけないって思ってしまうんだ」
「でも、実際そんなもんなんだよ。俺、昔からよく、『見える』って言ってただろ?」
「言ってたね」
「あれって、何が見えてるかっていうと、その場所にずっと残り続けている人間の感情とか、それはたいてい恨みだったり妬みだったり、ネガティブなものが多いんだけど、そういうのが人の形になって見えてるんだ。ただそれは、その人が生きていた時の感情だけがその場に残っているだけで、その人自身の個性だったり思考だったりは、そこから取り除かれてしまっていることが多い。だから、純粋に人を恨むだけの存在が、その場所に固着して取れなくなってしまってる状態だって言えばわかってもらえるかな。そして、その場所に近づいた人は、それに否応なく巻き込まれて、なんらかの影響を受けてしまう」
じゃあ、私の前に現れたミサノちゃんは一体何だったのだ。彼女は生きている人に対して、何か害悪を及ぼすような存在には決して見えなかった。普通の子供と同じように、親に甘え、親を頼りにしている存在のように思えた。
私はそのことを叔父に伝えた。
「男が飛び降り自殺した時、その飛び降りた場所は、由紀の部屋の前だって言ってたよな」
私はそれに対して返事ができずに、黙り込んでしまった。柵の前に置かれていた椅子。飛び降りた男の死体。それらは、目を閉じると今でもまぶたの裏に蘇ってくる。
「これも全く憶測の域を出ないんだけど、ミサノちゃんは、由紀に、気づいて欲しかったんじゃないかって思うんだ」
「気づくって、何を?」
「自分の存在をだよ。男をただ自殺させるだけなら、自分が住んでる部屋のベランダから飛び降りるように仕向ければいいだけだろう? それをあえて、自分の部屋の椅子をわざわざ1つ下の階にまで運んで、そこから飛び降りさせるっていうのは、そこになんらかの意図があったと思うんだよな」
気づいて欲しかった。私に、ミサノちゃんの存在を。
「上階から足を踏みならす音がずっと聞こえてたっていうのも、そういうことなんだろう。なんとかして、由紀に自分の存在を知らせたかったんだよ。きっと、由紀に母親の姿を重ねてるんじゃないのか」
叔父はそう言って、しばらく黙り込んだ。
母親が連れ込んでいた若い男に対する嫌悪感から、若い男に対しては残酷になれる。
私のような若い女に対しては、母親に対して求めるような感じで、愛情を求めてくるということなのか。
「でも、それって、ぜんぶ叔父さんの憶測でしょ?」
「まぁな、俺が勝手に自分の考えを披露してるだけだから、1つの意見として受け止めてもらえればいいと思う。でも、由紀ちゃんの住んでいる部屋の上の部屋は、今はあまりよくない状態になってるな。危険なんだよ、そういう部屋は」
私は、目の前のドアに目を向けた。このドアの向こう側に、霊的なものが固着している。そのことが、私にとって危険なことだと叔父は言っている。
「もう由紀ちゃんは、今後その部屋には近づかない方がいいと思う。由紀ちゃんに対しては母親のように接してくるかもしれないけど、いつそれが残酷なものに変化するかわかったもんじゃないからな。いいか、霊的なものってのは、すごく原始的なんだ。時には愛情を持って接してくることもあれば、手のひらを返すように残虐性を出してくることもある。生きている人間の思考と違って、一貫性や主体性があまりないんだ」
「私、今、ミサノちゃんの部屋の前にいるんだけど」
「それは」と、叔父が息をのむ気配が伝わってきた。
「今すぐ自分の部屋に戻れ。そこにいるとまた出てくるかもしれん。」
私はドアを見つめ続けたまま、1歩後ずさりした。
「わかった、今から自分の部屋に戻るよ」
そう言って私は、スマホを耳から外し、階段の方へ向かって小走りで移動を始めた。
* * *
階段を降りきったところで私は一度、上階を振り返った。なにも異常はなかった。
右手に握りしめたスマホは、まだ叔父と通話でつながっている。私はただ、叔父に意見を聞きたかっただけなのだが、結果として霊的なものから身を護る為に、助言を受けるような形になってしまった。
確かに、昨日出会ったあの女の子が、私に危害を加えてくるようにはとても思えない。だが、亡くなった男のことを考えると、用心しておかなければいけないという気持ちになってくる。
私は廊下を歩いて自分の部屋の前まで行き、ドアの鍵を開けて、開いた。
部屋の内側から、風圧を感じた。
玄関。ミサノちゃんが、そこに立っていた。
私は思わず「ひっ」という声を上げていた。
昨日と同じ、無表情で、その目はどこにも焦点が合っていないように見えた。
私は思わず後ずさりする。
その後ずさりした分だけ、玄関にいるミサノちゃんが、一歩前に進んできた。
その時、ミサノちゃんが右の方の手で何かを引きずっているのが視界に入ってきた。
椅子。リビングの食卓にあった椅子。それを、ミサノちゃんが小さな体で引きずっている。
ミサノちゃんが一歩前に進む。私は一歩後ずさりする。
「どうして……」
声に出したが、ミサノちゃんは何も答えない。ただ、無表情のままに距離をつめてくる。
そのまま何歩か私が後退して、ミサノちゃんもその分だけ前進して、お互い向かい合ったまま、手を伸ばせば届きそうな距離で、じっと睨み合っていた。
背中が、廊下の柵にふれた。私は右手に持っていたスマホを落としてしまった。
「おい、由紀ちゃん。どうした? 何かあったのか?」
スマホから叔父の声がかすかに漏れてくるが、私にはその声はもうほとんど届かない。
膝から崩れ落ちそうになる。なんとか足を踏ん張ってこらえようとするが、がくがくして無理だった。廊下の柵に背をあずけたまま、尻餅をつくような体勢になっていた。
ミサノちゃんが引きずっている椅子の脚がきぃきぃと音を立てる。それが止まり、ミサノちゃんの顔が目の前にまで迫ってくる。その目はどこにも焦点があっていない。
事故物件 さかもと @sakamoto_777
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