最終話 先輩と屋上
間に合うかどうかはギリギリだった。
新幹線の発車時間時間が迫る中、東京駅に着いた俺は東海道・山新幹線に繋がる十六番線へ繋がるホームの階段をのぼる。
そこに紫奈先輩がいるはずだった。
だったのだが、ホームにそれらしき人影はない。
スマートフォンで時間を確認すると、新幹線の発着時刻はまだだった。
全身が痛い。肺も心臓も横腹も悲鳴を上げている。
辺りを見渡す。紫奈先輩が自分よりも遅い到着だというのはありえないだろう。
「最上君」
すると背後から声がかかった。
振り向くと、キャリーバッグを手に持った洋子さんがいた。
俺は目に映る洋子さんに違和感を感じた?
「洋子さん?」
どうして洋子さんが俺を憶えているのだろうか。
最後に会った時、洋子さんはもう消えそうなくらい世界から薄れていた。そうとしか言えない状況だった。
はずなのに。
俺はあらためて洋子さんの瞳を見る。
以前の霧がかった目じゃない。はっきりと自分がある。
間違いない。洋子さんの健忘症候群、あるいは神隠し的な症状は治りかけている。
だけど、理由がわからない。
少なくともぐっすり寝て治る風邪のようなものじゃないはずだ。
ふつふつと湧いて出てくる疑問に洋子さんは答えなかった。
「紫奈ならもう向かいましたよ」
洋子さんが答えてくれたのは、紫奈先輩のことだ。
俺は慌てて洋子さんに駆けよる。
途中で人混みに倒れそうになる俺の肩を洋子さんは支えた。
母親の温かみ。洋子さんはすっかり記憶を失う前まで戻っているようだった。直前に引越しすると言ってたし、原因はやっぱり家庭なのだろうか。
「落ち着いて。引越しの件はなしになりました」
洋子さんは荒く息を吐く俺にそう告げた。
「どこに?」
「いつもの場所に、と言ってましたよ」
それだけで十分だった。
俺は紫奈先輩が向かった場所へ走り出した。
◇◇◇
これでいいと思った。
全部、全部、投げ捨ててしまおうと決めた。
バスに揺られながら、私は諦めの境地にいた。
後悔ばかりだよ、ほんと。なにもかも欲しいと思ったときに手から滑り落ちる。日頃の行いのせいなのかな。
でもね、神様。
もし私を見ているなら聞いて欲しいな。
どうせ無理だとわかってても、自分の気持ちは伝えたい。
スマホが震えた。
「胡春ちゃんからLINE?」
胡春ちゃんから送られてきたメッセージは「本当にいいの?」だった。
私は胡春ちゃんの優しさに温かい気持ちになる。
この子の姉になれてよかった。そう思った。
胡春ちゃんは素直じゃない。家だとツンツンしてるし、まだ私のことを姉ちゃんと認めてはくれない。
でも、
「ふふ」
この距離感でいい。
気まずさを隠そうとしない上に、こちらの気まずさにも配慮してくれる。
「……いいの。もう、それしかないの」
お母さんの記憶は薄れるばかりであった。
記憶ときて、次は生活してきた証。自分の存在証明のようなもの。
そうして最後には自分が消える。そんなよくある世の中に転がる不思議の一つ。
実は、お母さんだけじゃない。
私のおばあちゃんも、ひいおばあちゃんも、そうだった。
理由はたぶん……
「紫奈」
お母さんの柔らかい声が私を呼ぶ。
いつもの当惑した声でなく、しっかりと私を捉えて。
「ごめんね。あなたをこんなことに巻き込んで」
お母さんの温かい手が私の頭を包む。
今まで抱えていたものが溢れそうになった。
私はどうして自分が泣いているのかすら
気づく。私は自分の気持ちを押し込めていたんだ。
好きになってはいけないんだって気づいていたんだ。
でも、どうしようもないよ。好きなものは好き。その気持ちは偽れない。
「……やっぱり、私」
諦めたくなかった。
好きだって言いたい。それすら言えずにさよならなんて絶対、絶対、ぜーったいに嫌だ!
「いいのよ」
「お母さんのことなら心配しないでいいから、行きなさい」
「でも」
お母さんのことは心配。
その気持ちも嘘偽りない。お母さんの症状はお父さんと離れてから快方に向かっている。
もうボーっとして事故を起こしたり、誰かを忘れてしまうこともない。皮肉だよね。
「……紫奈」
お母さんはしっかりと私の目を見て、私の名前を呼ぶ。
「私には恋をすることが叶わなかったけど……ううん。したんだけど、奪われちゃったの」
お母さんは口惜しげに言う。
きっとお母さんも青春時代は今の私みたいに恋をしたのだろう。
恋をして、頑張ってアピールしたのだろう。もしかするとアプローチされて絆されちゃったパターンかもしれない。
なんにせよ、恋をしたから今こうして娘である私がいる。
でも、お母さんの恋は……愛は、記憶ごと奪われた。
「親は子供に夢を託すの。私が叶えられなかったことを紫奈が叶えてくれる?」
「……うん」
私は次止まりますのボタンを押した。
迷いはあるし、心配ごとも沢山ある。
だけど、今行かなかったら私はずっと一生後悔するだろう。
「もし優斗がそっち行ってたら伝えといて! 『いつものところで待ってるから!』」
バス停から学校まで走る。
優斗と私の関係は屋上で始まった。なら、その関係に決着をつけるのも……そこ以外はありえない。
◇◇◇
屋上に行くと、転落防止柵に背中を預けて白い毛並みをたなびかせていた。
風に揺れる髪はヨットの帆みたいだった。
空という青い海にぽっかりと浮かぶ雲。
「先輩、探しましたよ」
俺は荒い息を整えながら言う。駅までは電車を乗り継いで、さらに走ってきたため、体感、疲れは溜まっている。
今更過ぎなことだが、学校を途中で抜け出して、また戻ってきたのだから生徒指導室行きは確定だろう。
「ごめんね。にへへ」
紫奈先輩はいつものように笑って謝る。
悪びれもない笑み。だけど、その笑顔を見たかった。
体の力がふっと抜ける。膝ががくがくしていた。
先輩に会えた。それだけで……俺の体は安堵してしまったのだ。
「なんでずっと避けてたんですか」
「うん。ごめん……」
紫奈先輩は俯いた。
「優斗には伝えないといけないよね」
そして言葉を続ける。
「私の家から生まれてくる女の子はね、私もお母さんもそうだったけど、体が弱いんだ」
紫奈先輩の体の弱さは知っている。
それが原因で中学生活のほとんどを病院で過ごしたらしい。そのせいで友達との縁が切れてしまった痛ましい話も覚えている。
「……おばあちゃんも、ひいおばあちゃんもそうだったの。昔から体が弱くて、徐々に記憶を失って、ついには……消えて。お墓もないんだよ」
「神隠し」
「そう、神隠し。よく知ってたね」
「オカルト雑誌で見ました。信じてはないですけど」
「一応言っておくけど、神様っても、うちの神様はすっごいよ。人を連れ去るんじゃなくて、ほんとに消し去れるんだから」
こちらも信じてないのか皮肉たっぷりに紫奈先輩は言う。
神様に怒れたらいいのに。以前、紫奈先輩はそう話していた。
「神社の賽銭でも盗んだんですか?」
「うちはそんなに卑しい家系じゃないからね? 罰当たりすぎ」
「では、神様に好かれたんですかね? 紫奈先輩の家系は美人だし」
「だったら優斗は神様に横恋慕してるんだよ」
紫奈先輩は屈託のない笑顔を浮かべる。
俺も笑った。横恋慕。いいじゃないか。上等だ。
「記憶があいまいになって消える。そう消えるの」
「理由はわからなかった。怖くなった。自分が自分でなくなるのは嫌だった。そういう身内を見てきたから」
「だから学校でも人とは深く関わらないようにしてたんですね?」
「うん。急に理由もわからず忘れられるのなんてヤダし」
怖いだろうな。
自分に当てはめてみたら、その怖さが生々しく実感できた。
朝、目が醒めて、いつものように友達に話しかけたら「え、誰?」ってなるんだ。そんなのいじめだろ。
「やっと理由がわかったの」
紫奈先輩は達観したような口ぶり。
「恋をすることだったんだ」
恋をする。そう聞いて腑に落ちた。
だから洋子さんは徐々に薄れかけていたのか。
俺の推理はほとんど正解だけど、ハズレだった。
「洋子さんの健忘症候群は前の家庭が原因だと思ってました」
事実そうなんだろう。
でも、本質はそこじゃなかった。
「ごめん優斗。わたし……」
「先輩が好きです」
「え?」
「……すみません。こればっかりは譲れないです」
「もぅ、せっかく準備してためてたのに」
「こっちもですよ」
「優斗はいつから?」
「テスト前……いや」
「もしかしたら一目惚れかもしれません」
「一目惚れ?」
「ええ。屋上という特別な空間にいた特別な人。運命だと思いませんか?」
「優斗って意外とロマンチストなんだね」
「まあ、童話は好きですよ。特に結ばれた二人がずっと幸せに暮らすやつとか」
俺はそこまで言い切って、
「もし、本当に先輩が言うような呪いがあるなら……俺がなんとかします」
神様がいるのならどんな犠牲でも払う。
悪魔がいるのならどんな契約でも結ぶ。
前に紫奈先輩は神様に怒りをぶつけるのは空気を殴るのと一緒と言ってたけど、それで意味を成すなら空気でもなんでも殴ってやる。
「俺はこの気持ちを無かったことにしたくない」
心からの叫びだった。
気づけば俺は紫奈先輩を抱き寄せていた。
ようやく伝えられた。
好きだって言えた。しかも両想いだった。
これ以上の幸福なんてあるもんか。
失いたくない。
大好きな人をよくわからない不思議なんかに奪わせたりはしない。
そう決意をして拳を強く握る。
「私もだよ。私も嫌だよ」
紫奈先輩は溜め込んだ涙を迸らせた。
それを手のひらで拭うけど、渇く間もなく流れがどっと押し寄せてきている。
背中を優しく撫でた。しゃくりあげる声に呼応して背中が揺れ動く。
「大丈夫。俺が何とかしますから」
術はわからない。自信もない。
だけど、紫奈先輩を安心させてあげられるなら嘘だっていとわない。
俺に出来るのは、楽観的なことを言って紫奈先輩の不安を取り除いてあげるだけだ。
「ねえ優斗、キスしよ」
「いいんですか? 初めてなんでしょ?」
「優斗も初めてだよね? え、もしかして違うの?」
途端に紫奈先輩は焦った顔をする。
「あ、たぶん初めてだと思います、はい」
「歯切れ悪い」
「若菜と昔に……家族ごっこで、したような、しなかったような?」
「浮気」
「小学生の時はノーカンにしません?」
「だったら言わないでよ。いじわる」
「ごめんなさい。で、キスなんですけど、したいんですか?」
「いじわる!」
紫奈先輩は恥ずかしそうに顔を逸らす。
「ほら、童話だとよくあるでしょ?」
照れくさく顔をそらす俺に紫奈先輩はそう言って笑った。
童話だと王子様のキスがお姫様を目覚めさせるってあるしな。
言い訳だ。本当は紫奈先輩とキスがしたい。
けど、お互いに不器用で正面切って言うなんてできなかった。
「そうですね。そういうことにしましょう」
だから俺も乗っかった。
そうあって欲しい。そうなるならハッピーエンドだ。
俺は紫奈先輩に近づいて……
「これはきっと、おまじない」
こうして俺たちは恋人になった。
屋上から始まった出会いは、屋上で結ばれた。
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本当はもっと色々と書きたいことがあったんですけど、二人が幸せになるのが見たかったんで完結にします。ここまで読んでくださりありがとうございました。
屋上にいる先輩を餌付けしてみたら、とんでもなく懐かれた 春町 @KKYuyyyk
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