【夜窓】
一弓
無視できませんからねぇ、虫だけに。
夏の夜なんかはですね、部屋の光に虫が集まって窓をコンコンと叩くもので、煩くて仕方ないんですね。私の住んでる賃貸も、郊外にある古びたところでしたから、それはもう虫が寄ってくるんです。仮に兜虫やら、鍬形虫なら私も子供心が刺激されて嬉しいかもしれませんが、大体は亀虫やら黄金虫で、面白みにも欠けるわけです。
加えて、私の賃貸の窓は大きくてですね、昔は出入りにも使われていたみたいなんですが。どうも幾年も前からレーンにガタが来ているようで、私が入ってから開くことは一度もありませんでした。外から回り込めば掃除はできるので、外が見えなくなることはありませんでしたし、出入りをこの窓からしたいと思ったことはありません。
さて、音が鳴って困ることと言っても、ただ鬱陶しいだけだろう、と思う人もいるかも知れません。しかしですね、今やリモートワークの時代ですから、仕事から帰ってきた後に、パソコンを開いてまた仕事をするなんて馬鹿なことがあるわけです。ただでさえ家で仕事なんてしたくないのに、そこに鬱陶しさがあれば尚のことというわけです。私は虫を駆除してやろうとは思いませんでしたが、寄りつかない方法くらいは知りたいものでした。
同僚にそのことを相談しても、会社に魂を握られた者ばかりでしたから、会社に泊まり込めばいい、などと真顔で言うわけです。慣れというのは怖いもので、その同僚の机の下には寝袋やら着替えやらがまるで登山を予定しているかのように敷き詰められていました。とはいえ、同僚から目元の隈と倦怠感を指摘された時には、私も同じ穴の狢であったことを認めざるを得ませんでした。
一通り仕事を終えて、定時にもなっていましたから、残りは家でやろうと荷物を纏めているとですね。同僚は夕食をコンビニで買ってきていました。彼が出勤している姿を見たのはもう一週間も前のことです。我が社の定時は十時ですから、すっかり暗くなった帰路を辿りました。
帰宅した時に私は自身の失態に気が付きました。朝に電気を付けっぱなしだったのです。案の定、外から見える私の部屋の窓は虫がびっしり張り付いていました。その中でも一際大きな虫が何度も何度も窓の向こうの光を求めて体当たりをしていたので、不安になって私はすぐさま玄関の鍵を開け、部屋に入りました。
嫌な予感というものほど良く的中するものです。カーテンを開けると、ほんの一部ですが、窓が薄く欠けていました。触るとざらり、と表層の破片が指について私に後悔を齎しました。虫の小さな体でも、何度もぶつかれば窓も欠けるというのは驚嘆でした。何故窓の表層が欠けた程度でこうも悔いているのかと言うと、敷金のお話になります。
敷金というのは、退去時に部屋を元あった状態に戻すための回復費用として大家に預けるお金のことを言います。つまり何も壊さず、何も汚さずで出れば丸々帰って来るはずの費用なのですが、ここの大家さんはこの敷金を意地でも返したくないのか、少しでも破損があれば全て取り替えるといって敷金を返却しません。昔の隣人は壁に少し凹みがあったというだけで、壁を張り替えると言われていました。未だに改修工事が始まっている様子はないみたいですが。
つまるところ、この僅かな窓の破損を見て、開かない窓をついでに貼り替えようと私の敷金が使われることは目に見えていました。だからこそ、窓だけは壊したくなかったです。しかし起きたことを悔いても仕方がないので、私はそれ以上窓に傷をつけないため、仕事をそっちのけで電気を消し、その日は布団に潜り込みました。
朝の自らの失態への後悔と憤りがない混ぜになって、暫くは眠れませんでした。目を閉じ、体の動きを止めて、二時ごろでしょうか。漸く眠気がやってきた、という時にそれは鳴りました。
コン、コン。私の窓を叩くような音です。また虫か、と布団から顔を出した私は、違和感に気が付きます。部屋の電気は付いていないのです。それはそのはず、寝るために部屋の電気を消したのだから、付いているわけはありません。だというのに、何故虫が寄ってきたのでしょうか。偶然かと思い目を閉じた数分後には、またコン、コンと。
何度も繰り返される内に、偶然ではないのだろう、ということに気が付きました。何かしらの理由があって、虫がまた集ってきているのでしょう。段々と間隔が短くなっていく音に、私は幾度となく睡眠を妨害され、次第に憤りを覚えるようになりました。
如何に醜悪な虫が私の睡眠を妨げ、敷金さえも奪い、仕事を滞らせているのだろうか。そう考えるうちに、私は布団から出て、カーテンの前に陣取っていました。その虫の姿を、一目見てやりたかったのです。暗がりでよく見えないかもしれませんが、それでも気が収まらなかったのです。
コン、コン、コン。五分と経たないうちに、一際大きな音でまた鳴り、同時に私はカーテンを勢いよく開きました。そこには、人間が立っていました。月明かりが逆光となり、詳しいことは見えませんでしたが、その顔から男であったように思います。現実に頭が追いつき、腰を抜かし呆然と座り込みました。数刻もしないうちに、男は私と目も合わせず、ただ目の前を見つめ、震え、顔を青ざめさせながら去っていきました。私はそれをただ眺める事しかできず、その晩は眠ることが結局出来ませんでした。
翌朝、会社へ赴き同僚にその件を話すと、どうやら空き巣の手口のようでした。窓にノックをし、何も反応が無ければ外出中として侵入するようです。普段明かりがついている時間に電気を消していたことから、今日は家にいないと思われていたのかもしれません。
何故逃げ出したのか、と考えれば、犯行が露見したからだという理屈が頭に馴染みますが、どうにも私は納得がいきません。腰を抜かした私の視線も合わせなかった男が、どうして私を恐れるでしょうか。あの時、私には男が違う何かを見ていたような気がしてならないのです。
しかしまぁ、考え事をしながら仕事をすると進まないもので、昨日滞らせた分と合わせて私は今日も定時までに仕事が終わることはありませんでした。しかし、どうにも欠けた窓を思い出して家に帰りたくない私は、最終的に同僚から替えの寝袋を借り、会社に魂を握られる者の一員となってしまいました。
本当に怖いのは、替えの寝袋まで完備している同僚なのかもしれません。
【終】
【夜窓】 一弓 @YUMI0625
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