後編

 川は太陽の光を反射してキラキラ輝いていて、凄く眩しい。あの橋の向こう、いつだったか二人で自転車に乗って、隣町を探検しに行ったっけ。

 あの頃は隣町に行くのだって目に映る全てが新鮮で、未知の世界だった。それが今では、隣の市にある高校へ当たり前のように通っているんだから、不思議なもんだ。

 ふと視線を動かすと、橋の真ん中あたりに人がいる。サラサラの黒髪、見慣れた制服を着たあれは…


「コト?!」


 今にもフラフラとどこかへ消えてしまいそうな虚ろな瞳。これを逃したらもう二度と会えない気がして、僕は夢中で彼女の元へと足を動かした。


「コト!」


 後数メートルの距離まで近づいても、全く反応もしない。まるで人形のような様子に、少しゾッとした。


「ねえ、ねえってば!」


 肩を掴んで少し揺さぶっても、瞬きすらしない。焦点のあっていない目に光は無くて、僕の事を認識すらしていないようだ。


「どうしたの?コト?」


 本当に長い事、僕は彼女に声を掛け続けた。こういうときって自分では冷静なつもりでもやっぱりそうじゃないみたいで、誰か人を呼ぼうとかは全く頭に浮かばなかった。まあ、思いついたとしても、携帯を家に置いてきている時点でどうしようもなかった気がする。


「あれ…、ヨ、ウ君…?」

「そう、ヨウ!ヨウだよ!」


 3日ぶりに聞いた声は少しかすれていて、それでもまた聞けたことが泣きそうになるくらい嬉しかった。


「みんな心配してるから、帰ろう」


 何があったか、どうしていなくなったのか。気になることはたくさんあるものの、それより今はまた会えたことだけでいい。早く心配しているであろう彼女の家族の元へ、連れていってあげないと。いつも楽しそうに家族のことを話す彼女の事だ。姿を消していた理由が何であれ、きっと会いたいはずだ。


「ごめん、嫌だ」


 だから、拒否されるなんて思ってもいなかった。

 どうしたらいい?どんな言葉をかけたらいい?如何せん同世代との関わりは目の前にいる彼女以外とは皆無で、だからって他に普段関わっているのも先生と家族くらい。こういう時に気の利いた言葉も、行動も、僕には到底出来っこないのである。


「あのね、ちょっとだけでいいから、話を聞いてほしい」


 だから、聞いたこともないくらい静かな声に、黙って頷くことしかできなかった。

 長くなるからって、小さい頃よく遊んでいた森の秘密基地に移動する道すがら、ぽつり、ぽつりとコトがこぼす言葉を聞いて、僕はなんにもわかっていなかったんだと痛感した。


 家庭の事情で、また引越しするかもしれないこと。

 両親が厳しくて、小さい頃から習い事も、部活も、趣味にだって口を出されてずっと息苦しかったこと。

 周りの人にそんな状況を知られたくなくて、ずっと仲良し家族を演じ、家族が求める理想の自分を演じ続けてきたこと。

 僕といる時は、不思議といつもより楽だったこと。

 二人で過ごす時間や、僕が勧めた本を読む時は嫌なことを忘れられる特別な時間になっていたこと。


 初めて聞いた心の叫びはいつも朗らかだった彼女からは全く想像できないもので、同時にこれだけ長く一緒に過ごしてきたのに今の今まで全く気づかず呑気に生きてきた自分へ猛烈に腹が立った。


 今、コトはずっと心に留めてきたことを初めて打ち明けてくれた。僕は、何を返せる?


「それでさ、もう全部嫌になって、気がついたらさっきの橋にいたの。私、自分が3日も帰ってなかったなんて知らなかったからびっくりした」


 どうして、そんなぎこちなく笑うのさ。さっきからずっと泣きそうな顔しているくせに。


「ありがとう。話してくれて。それでさ、コトはこれからどうしたい?」

「え…?」


 何があったのか、コトはそれこそ映像として頭に浮かびそうなくらい事細かに教えてくれた。でも、その中で辛かっただとか、悲しかっただとか、ああしたかったとかこうしたかったとか、コトの気持ちは全く出てこなかったのだ。もしかすると、長い間色々なことを我慢して自分を押し殺して生きてきたせいで、自分の心がわからなくなっているのかもしれない。


「やりたいこと…?私がやりたいこと、か…。そんなの、もう長い間考えたことなかったかも」


 今の自分たちにとってはもう随分狭く感じる秘密基地。椅子代わりにしているコンテナにちょこんと座っているコトは、なんだかあの頃のままに見えた。


「あのね、小さい頃は絵を描くことが好きで、芸術家とか、絵本を作る人になりたいって、言ってた。でもね、いつだったかお母さんが、そんな夢見がちなこと言ってないでもっといい仕事を目指しなさいって怒ったの。お父さんも、それを止めなかった。それから、また自分のやりたいこと言ったら怖いことになるって思って、考えないようになっていったのかも」


 はぁ?!なんだそれ?幼いコトが、部屋の隅でうずくまっているところが頭に浮かんで、思わず手に力が入る。


「コトの家族が言う《いい仕事》って何なんだろうね?芸術家も、絵本を作る人も、誰かの心を動かしたり、誰かを笑顔にしたりできる最高の仕事だろ!それを馬鹿にするなんてありえない」

「そう、かな?なんか私、お父さんとお母さんの言う《良い子》を演じるのに必死で、二人の言う事が正解だって信じてきた。だから、ずっとそれ以外の考えが頭に浮かぶ自分が間違ってる、おかしいんだって否定し続けてたの。そのせいかな。なんか本音を肯定されたのなんて初めてで………ごめんっ、ちょっと待ってね」


 スン、スン、と鼻をすする音と風で揺れる葉っぱの音だけが響いて、どれくらいたっただろう。


「あー、ごめんね!随分お待たせしちゃた」


 冗談めかした口調も笑顔もいつも通り。こすったのかわずかに赤くなった目元だけが、唯一今までの一連の出来事が現実だと教えてくれる。

 自分の殻に閉じこもっていた僕を、暗闇にいた僕を、太陽のように照らしてくれた転校生のコト。

 僕のヒーローで、幼馴染で、一番の友達・・で。明日も、来年も、その先も、きっと隣にいると信じて疑わなかった。

 近くにいたのに今まで何も知らなくて、のんきに過ごしていた自分。今更遅いかもしれない。それでも、今僕にできることは?僕はどうしたい?


「…あのさ、コト」

「あのね、ヨウ君」


 考えて考えて、口を開けばピッタリ声が重なる。


「被っちゃった。お先にいい?」

「どうぞ」


 こんな時なのに、思わず二人して笑ってしまった。


「私ね、一つ見つけた。やりたいこととちょっと離れちゃうかもしれないけど。………これからもね、ヨウ君と一緒にいたい。《いい子》じゃなくてちゃんと《私》を見てくれる人の隣に居たい」


 ちょっと頬を赤くして、でも瞳は真っ直ぐにこちらを向いている。

 ああ、先に言われてしまった。これじゃちょっとかっこつかない。しかも、《目立つ傷のあるかわいそうな子》じゃなくて、《僕》をちゃんと見つけてくれたのは彼女の方じゃないか。

 僕は、僕はただ陽だまりみたいにあったかい雰囲気に惹かれて、彼女の話で新しい世界に触れることが楽しくて、自分とは違う考えを持っていて興味深くて、たまに二人の時見せるいつもより無邪気な笑顔が可愛くて。一人で過ごすのが好きなはずなのに一緒に居たいと思えて。あれ…?僕のこの気持ちは、友達とは別のもっとこう、違うものなのでは?

 世に言う青春?す、す、す…えぇーい!こうなればなるようになれ、だ!高校生の内はまだ厳しくても卒業して働くなり進学するなりすれば、もっとずっと自由になれる。そうすれば、きっと状況を変えられるはずだ。もちろんだからって、今もコトを一人にしないために、全力を尽くさないといけない。物理的には難しくても絶対に心は一人にしないようにしないと。


「僕も、この先コトと離れるなんて考えられない。気づくのが遅くなったけど、僕ずっと、ずっとコトのことが、す」


 ピシャーン!


 まさか、と思った。しかしそのまさかで、どこかの本で読んだようなお約束のように、一番大事なところで雷からの大雨。


「うわあ…、凄い降ってきちゃったね」

「…………だね」


 吹き込む風で、あっという間に服が重くなる。


「このままじゃ動くのも危ないだろうし、もうちょっと雨が止むまでコトの話、聞かせてよ」


 もう一度言い直すのはとてもじゃないけど心臓がもたないし、そもそもそんな空気じゃない。こんなに一緒にいたのに、僕はまだ彼女のことを知らなすぎるから。だから、少しでも彼女の見ている世界を、抱えていた思いを聞きたかった。


 そうしてどれくらいたっただろう。雨はすっかり止んで、吹き込んできた雨や葉っぱその他もろもろで体中汚れた僕らは、差し込む日差しに導かれるように秘密基地をあとにした。

眩しそうに空を見上げたコトの顔がパッと輝く。


「ねぇ!見て!上!」

「へっ……?うわ!」


 虹だ!それも二重の!


「あーあ!家に帰ったら大目玉だ!こんな大事件起こすなんて!って。でもさ、この際だからいい子ちゃん卒業しちゃおっかな!なんか、吹っ切れたかも」


 そう言って駆け出したコトの笑顔は顔中、いや体中泥まみれであろうと今まで見た何よりもまぶしかった。

 ああ、僕は君のそんなところがたまらなく、すき、なんだ。

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コトノハ 織羽朔久 @orisaku3939

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