僕とお姉さんの調査レポート
三国三久
『擬態生物の観察』
「8月20日。国鉄20号外郭環状脇。施設入口前」
録音を始める。
「準備はいいかね」
奇人教授か奇人探偵みたいな口調でお姉さんが聞く。
「はい。オッケーですよ」
苦労学生か苦労助手のように僕が答える。
普段のお姉さんは白いワンピースを着ている。今日は長袖、長ズボン、軍手、安全靴、ゴーグル、マスクの完全装備だ。長い黒髪も小さくまとめて括っている。
野外活動のための服装ではあるが、形と言動から入る人だからこういう格好をしているとも言える。
ちなみに家庭教師をする時は黒縁眼鏡と三つ編みである。
雨が降ったばかりで周囲の雑草がまだ濡れている。ここに来るまでにすっかり裾が湿っている。
多少開けた場所に四角い小さな建物。鉄扉が一枚だけ。何の看板も説明書きも無い。
「ここに入るんですか」
「ちゃんと許可を貰っているから心配無いよ。正式に依頼を受けた害虫駆除の事前調査だ」
そう言ってお姉さんはプレート付きの鍵を取り出して見せた。
「先生は多忙だから助手の私が仕事を引き受ける。その私の助手であるキミが自由研究の題材で調査活動を引き受ける。多重下請け構造ってやつだねえ」
「車を出してくれたうえに、ついてきてまでくれるのは有り難いですよ」
言いながら服や靴の隙間を念入りにチェックする。虫除けスプレーも全身に振り掛け直す。
お姉さんが鍵を開け、重い鉄扉を押し開けた。
「では、行こう」
心なしかワクワクした様子で、ニコニコした目でこちらを見ながら言った。
狭い階段を下りていく。
埃が纏わりついた天井灯は申し訳程度の役に立っている。
遠くから低い雑音が響く。地下鉄の音だろうか。
「こっちは旧路線だから列車は来ないよ」
先に立って下りるお姉さんが足元を注視しながら言う。
「しかし虫取りとは、若いのに随分とレトロ趣味だね。今時セミも鳴かないってのに」
「お姉さんの専攻に合わせただけですよ。せっかく身近に専門家がいるんだから、手伝ってもらえる分野にした方が効率的でしょう。ついでに借りた専門書で読書感想文も書いて、一挙両得です」
「文章の丸写しはだめだからね。キミ自身の意見もきちんと書きたまえよ」
踊り場程度の空間に出る。金網で覆われたエレベーターがあった。
それに乗り、着いた先で更に階段を下りる。
左右の溝を川のような速さで水が流れている。
「肌寒いですね」
「地下は20度くらいだからね」
今日の外気温は昨日と同じく40度。それに比べると相当涼しい。
お姉さんは時々立ち止まり、溝を覗き込む。
「こういうところに……いた。ミズムシだ」
指差す先を見てみると、小さくて白っぽい虫が水中で動いていた。
「ほら、標本採取。やってごらん」
「これをですか?」
「顔に出るねえ。手袋をしているし、スポイトで吸えばいいんだから、別に平気だろう」
「物理ではなく感情として平気ではないんです」
渋々言われた通りに作業した。サンプルケースの中で泳ぐ虫をお姉さんが満足げに見る。
「これの成虫は風船虫とも言う。面白い実験が出来るんだよ」
いずれ試そう、と言ってお姉さんはニッコリ笑った。
やがて広めの空間に出た。
「古い浄化槽だ。地下鉄からはここを調べてほしいと言われているんだ」
お姉さんが辺りを見て回るのを眺めていると、ふと、音が聞こえた。
地下鉄の走行音ではない。もっと気に障るような、鳥肌が立つような音だ。
「何か聞こえます」
「私には何も……いや、どんな音だね」
「モスキート音に似ています。でもなんだか、“分厚い”です」
あの微かでも酷い音が、“凄い厚み”で近づいている、と感じた。
急に素早い動きでお姉さんがライトを向けた。そこに。
ぼんやりした人影。
輪郭がぼやけている。
表面が流動している。
ノイズで構成された人体。
人間のシルエットの形をした、大量の虫の群れがいた。
「おお!チカテツカの変異種だ!気温が安定した地下鉄で通年繁殖しているやつでね!深層では生態に大きな違いが出るらしいがここまで異なるとは!蚊柱は本来ユスリカが形成するもので」
「ギャー!!」
逃げ出そうとする僕の服をお姉さんが引っ掴む。
「ホラ標本!採って!」
渡された小瓶をめちゃくちゃに振り回す。手袋越しに細かい何かがぶつかる。
「オッケー確保!」
言葉が終わるのを待たずに走り出した。
階段を一気に駆け上がる。“厚みのあるモスキート音”が追いかけてくる。
「ギャー!!」
「あはははは!!撤退撤退!!」
お姉さんの顔は見えていないが、明らかにワクワクした声だった。きっとニコニコした目もしている。
鉄扉をしっかりと閉めた。
息を落ち着かせながらお姉さんに問う。
「録画がだめだったのはこういうことですか」
「そうだ。ああいう生物の映像が拡散されるのを防ぐためにね。キミの管理を信じないわけではないが、例えば家に空き巣が入って機材ごと盗まれるといったリスクはあり得るからね」
てことは、と口に出して愚痴る。
「あんなのがいるって予想していたんですよね。意地悪すぎやしませんか。お姉さんは虫が好きだからいいかもしれませんが……」
「え、別に好きじゃないよ」
「え」
「地下鉄とか地下ビルとかが好きなんだ。そういうところに行けるから地下生物が研究テーマのゼミに入ったのだよ。一挙両得だ。涼しいし」
「そんな理由で専攻を決めたんですか。なんていい加減なんだ」
何より、とお姉さんは続ける。
「キミが素直に慌てふためく様子が見たかったからね。ああ、実にいい顔だった!」
なんて人だ。
「ともかく大量発生を確認した。地下鉄と先生に連絡だ」
歩き出しながら電話を掛けるお姉さん。僕はその後をついていく。
間もなく辺り一帯の旧路線を含む地下鉄が一時運休。殺虫剤が充填された。
翌朝。
キッチンに入ると、お姉さんが朝食を作っているところだった。
柔らかい声で「おはよう」と声を掛けてくる。僕も「おはよう」と返す。
形と言動から入る人だから、家にいる時はエプロンを着けて、ゆるく一つに結んだ髪を肩から手前に流す髪型をしている。
「今日も遅くなるから晩ごはん作っておくね。宿題は帰ってから見てあげるね」
「うん。ありがとう」
出掛ける時には白いワンピースを着る。
お姉さんは元気に「行ってきまーす」と言って玄関を出る。僕は「いってらっしゃーい」と言って見送る。
午前中に昨日のレポートをまとめ終わり、昼からは思う存分ゲームをした。
僕とお姉さんの調査レポート 三国三久 @MikuniMiku
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