【3】
塾は夜の仕事だ。授業が終わるのが夜の9時で、今日は社員が私しか出勤していないので、一人で全ての教室の清掃をして、その他の仕事を片付けたときには11時を回っていた。
電車を降りて家に向かう途中で、いきなりの豪雨に見舞われた。あいにく傘も持っていなかった私は、慌ててすぐ近くの、普段は使わない牛丼屋に駆け込んだ。
いらっしゃいませー、という若い女性の声が店の奥の方から聞こえる。一番安い豚丼とサラダのセットの食券を買って、カウンター席に座ってハンカチで濡れた髪を拭く。お店にはお客さんは他にいなくて、店員もさっきの女の子だけで回しているらしい。
洗い物かなにかを済ませた店員が、食券を受け取りに来る。長くてつやのある髪を後ろに束ねた姿が視界に入る。テーブルの上に置いてあった食券を受け取って、ちらとこちらを見て、目を丸くするのに気がついた。
「もしかして、かなめ先生?」
思いがけず名前を呼ばれて、初めて相手の顔を正面から見る。大学生くらいだろうか。ぱっちりとした二重まぶたと、女子にしては低めのハスキーボイスに覚えがあった。
「ええっと…花梨さん?」
「そうです!嬉しい、覚えていてくれたんですね!」
三浦花梨さん。私が以前勤めていた高校で、受け持っていた文芸部に所属していた子だった。千人を越える生徒を抱えるマンモス校の、古びた旧校舎の一室を使った5,6人の部員によるこぢんまりとした活動で、生徒達にとってどうだったかはわからないけど私にはすごく居心地の良い場所だった。
他のお客さんが来る気配もなく、私と花梨さんはひとしきり、思い出話と近況報告に花を咲かせた。花梨さんの通っている大学のこと、私の仕事のこと。
疲れていたのか、森村さんとのことや、真斗君のことを、もちろん当たり障りのない範囲ではあるのだけどつい花梨さんに話してしまう。教え子に愚痴を言うなんて、本当に私は何をやっているんだろうと思うのだけど、花梨さんはそんな話も楽しそうに聞いてくれる。
「かなめ先生って、なんで先生になろうと思ったんですか?」
何の気なしに、だったのだろうか。花梨さんが急に話題を変えたけど、今の私にはそれはひどく答えづらい問いのような気がした。
「なんでだったかなあ…」
答えようと思えば答えられないことではない。私が教員になろうと思った理由、特に国語の先生になりたいと思ったきっかけとなった出来事は確かにある。それを人に話して聞かせたことも数え切れない。ただ、今の私は、国語の先生を志したそのときの私とは変わっていて、だから、そのときの思い出はもう、押し入れの奥にしまわれたアルバムのような、大切ではあってもそう度々取り出すほどに重要なものではなくなってしまっている。
「きっかけが何であっても、もう戻れないからさ」
花梨さんが軽く首をかしげる。
「先生になんかなるんじゃなかったなって、前はよく思ったんだよね。もっと違う仕事についていればって」
グラスに水を注ぎながら、先の言葉を考える。
「それで、なんで先生なんかになっちゃったんだろうって考えるの。だけど、いくら考えても、そのときの自分にはそれ以外の選択肢無かったなって思うし、現に今、私はもう先生で、多分今更他の仕事なんかできなくて、それならもう、どうして先生になったのかとか、考えても仕方ないなって結論にしかならなくて」
我ながら、一体何が言いたいのだろうと思うけど、花梨さんは特に不審がるでもなく、聞いてくれている。
「でも良かったです。かなめ先生が元気そうで」
「元気そう?」
思わず苦笑する。どうして私が元気なものか。むしろ疲れ切っているよ。森村さんにどうやって自分の考えを伝えればいいのか、真斗君が来週こそは三角形の面積の求め方を覚えくれるか、ああでもないこうでもないと考えているけど、どうせ徒労に終わるのだろうと諦めてしまっている自分もいる。
「もう何もかも投げ出して、出家でもしたいなって思うくらいには全てが嫌になってるよ」
「でも、実際投げ出してはいないじゃないですか。それは元気って言うんですよ」
そうなんだろうか。
「沙有里曰く、かなめ先生の人生が順調になることなんかないんだから、社会人を続けられるだけでも大変な偉業、なんだそうですよ」
「何それ」
沙有里というのは花梨さんの同期で、文芸部の部長だった子だ。とにかく頭の切れる子で、文章も抜群に上手かった。
「昔、かなめ先生の理想の人生プランっていうのを、沙有里と一緒に妄想したことがあるんですよ」
「はい?」
「色々考えた結果、経済力のある男と結婚して週3日くらい非常勤講師として働くっていうのが一番良いだろうっていう結論になりました」
なるほど、それは気楽そうだし、適度に仕事を楽しめそうだ。問題は、そういう相手を見つけられそうにないということだけだ。
「でも、話していて思ったんですよ。これって、かなめ先生が幸せになるプランじゃなくて、私たちが安心できるプランを考えてるだけだなって」
そういえば、どういうわけだか、生徒達には私が彼らの理解可能な範疇の「幸福」をつかむことを強く要求してくるという性質がある。
「好きな人には自分に想像できる範囲内の人生を歩んでいて欲しいっていう気持ちがあるんですよね。なんというか、自分の身近な人が自分の理解を超えたところに行ってしまうのが不安で。でも、それって私たちのエゴじゃないですか」
「そう?」
何であれ自分を案じてくれる人がいるのはありがたいことじゃないかという気もするけど、実際私に面と向かって「はやく良い男を見つけなさいよ」などと言う人間がいたら、多分私はその人と極力関わりを持たないようにするだろうとも思う。
「エゴなんですよ。かなめ先生は私たちのものじゃないんだから。だから、私も沙有里も、かなめ先生にはとにかく元気でいてくれればそれでいいよねって」
そんなにキラキラした人生とか、悩みのない生活に恵まれる日が来るとも思えないけど、ともかくどこかで元気に先生をやっていてくれればそれでいいと、そういう結論に至ったのだそうだ。私は生徒に恵まれている。よくわからないけど、そう思った。
窓の外を見ると、いつの間にか雨はやんでいたけど、外に出ると、まだ空は曇っていて、湿っぽいジトッとした空気が漂っている。お店を出るときに、花梨さんと連絡先を交換したけど、多分数回やりとりするくらいでしばらくしたらお互い連絡も取らなくなるだろうし、多分このお店にももう来ないのだろうなという気がする。ちょっと寂しいけど、それでいい。それがいい。
坂道 垣内玲 @r_kakiuchi_0921
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