【2】

 学校に通うことが全てではない。勉強ができるようになることが全てではない。それはその通りだ。けれどもそれは、勉強を教えなくて良いという意味ではないはずだ。教える仕事をしてお金をもらっている以上、子どもを何らかの意味でレベルアップさせられないのであれば、与えられた役割を全うしたとは言えない気がする。


 そうかと言って、ではお前は自分の生徒をレベルアップさせられているのかと言われると返す言葉がない。

 「真斗君、一昨日やったこと覚えてる?」

 小学5年生の西村真斗君が、元気よく「はい!」と答える。

 「よし、じゃあ三角形の面積の求め方、言ってみようか?」

塾なので教員免許には関係なく、どの教科も教える。クレメンティアの社員になって専門である国語を教える機会がめっきり減ってしまったけど、それは覚悟していたことだし、元々国語よりも数学の方が得意だったのだから、算数の授業だって嫌ではない。

 「タテカケルヨコ!」

 「うーん、残念。それは、長方形の面積の求め方だねえ」

間違いを指摘されても真斗君はひたすらニコニコして、やっぱり「ハイ!」と勢いよく返事をする。この2週間ほど、ずっと繰り返されている光景だ。

 「三角形の面積は、底辺かける…?」

 「ヨコ!」

 真斗君につけられている診断名は、自閉症スペクトラム障害。保護者曰く、知的には問題ないということだったが、実際教えてみるととてもそうは思えない。彼にとって、一度覚えてしまった「タテカケルヨコ」というフレーズの印象は強烈だったらしく、それ以外の情報をインプットするのには大変苦労している。

 「よし、じゃあやっぱりノート見てみようか」

 先々週の授業で書いた「底辺×高さ÷2」という文字列を見てようやく、「テイヘンカケルタカサワルニ!」と嬉しそうに、しかしややうんざりした調子で答える。真斗君はいつもニコニコしているけど、ストレスを感じないわけではない。ストレスを感じてもそれをストレスと認識することができないのだ。彼に授業の感想を聞けば、必ず「楽しかったです!」と答えるけど、それは単に彼が授業の感想を語る言葉として「楽しかった」以外の語彙を持っていないからでしかない。今みたいに、何度も間違いを指摘され、内心苛立っている私の気持ちを無意識に察知することで、彼の心は確実に摩耗している。

 三角形の面積を求める問題の復習をして、できれば今日こそ、台形の面積の解説に入りたいのだが、既に授業時間は30分経過している。残りの50分でどこまでいけるか、また三角形の面積の問題を1問解いて終わりになるかもしれない。


 三角形の面積の求め方を覚えることが、真斗君の人生にとってどれほど重要なのかと言われると、私にもそれほど明確な答えはない。そもそも、彼はいくら頑張っても三角形の面積の求め方を理解することはできないのかもしれない。そうであれば、今私がやっていることは、無意味に彼を苦しめることでしかない。せめて基本的な図形の面積くらいは、せめて分数の計算くらいは。そういう気持ちは、単に私のエゴでしかないのかも知れない。彼に必要なことは、森村さんのようなおおらかな気持ちで彼を受け入れてあげられるような大人に出会うことであって、算数が少しばかりできるようになることではないのかも知れない。


 安定した生活が欲しかった。正社員になって、安定を手に入れられたときは、自分の人生の問題は全て解決したとさえ思えた。フリースクールの立ち上げという仕事にもやりがいを感じられた。私は長いこと高校の先生だったけれど、学生時代アルバイトをしていた塾で、最初に受け持った生徒は不登校の小学生だったから、不登校のことや発達障害のことも勉強したし、フリースクールの立ち上げに関わるのは運命のようなものを感じた。

 非常勤講師だった時代は、まるで出口の見えない長い長いトンネルのようで、トンネルを抜けてようやく明るい場所にたどり着けたのだと思った。それでもやっぱりなにか、重いものが私の肩にいつまでものしかかったままなのだ。

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