坂道
垣内玲
【1】
「仲澤さんはさ、読書が好きな人だから子どもにも本を読ませたいっていう気持ちもわかるんだけど、普通の子どもからすると、活字の本ってハードルが高いから」
森村さんの諭すような言い方にささくれ立つ気持ちを抑える。
「いえ、そういうことではなくて、今どき漫画って、スマホでただで読めるんですよ。読みたい子はだから、家でいくらでも漫画は読めるんです。そうじゃなくて、子ども達が家にいては出会えないものを…」
新設するフリースクールの本棚に人気の漫画を揃えようという森村さんに、それよりは児童書みたいな活字の本を置いた方がよいのではないかという話をしているのだけど、どうしても私の専門が国語で、かつ個人的に活字の本が好きだから子どもにもそれを読ませたがっていると受け取られてしまう。
クレメンティア・アカデミーは、都内に4つの教室を展開する、発達障害の小中学生を対象とした学習塾だ。来年の3月から、新たに発達障害・不登校の小中学生を対象とするフリースクール事業を立ち上げることになり、そのチームに私も加わることになった。
大学を卒業してから8年ほど、私立高校の非常勤や塾のバイトを転々としつつ、細々と食いつないできた私にとって、2年前から勤務していたクレメンティアで、正社員としてフリースクールの立ち上げスタッフに加わらないかという代表の誘いは願ってもない話だった。
クレメンティアの社員の給与は、公立学校の専任教諭になっている同期のそれに比べれば遙かに見劣りするものではあったとはいえ、一人暮らしを維持するだけならなんとかなるだろうという程度のものではあって、大きな病気やけがをしたときの入院費をどこから捻出すれば良いか、老後の蓄えはどうするのか、同い年の人間が着実に社会経験を広げていく中で、自分だけが毎年毎年、ただただ非常勤講師として授業だけを担当する環境にいてこの先のキャリアをどうすればよいのか、そういう不安からはとりあえず解放された。
学校の教員には、専任教諭と講師という区別がある。専任というのは民間企業で言うところの正社員で、公立ならば各自治体の教員採用試験に合格しなければ専任にはなれないが、採用試験に落ちても講師という立場で勤務することもある。講師の中には授業だけを受け持ち、担任業務や学校行事、部活動には関わらない非常勤講師と、専任と同じく担任や校務分掌が割り振られる常勤講師がいる。常勤講師の仕事内容は専任と何も変わらないが契約は期間限定だ。
専任に採用されず、講師として教壇に立つ人は多いけれども、要するにフリーターなのだ。そのまま専任になれなかったらどうするのかと聞かれれば、どうしようもないとしか言いようがない。言うまでもないが、年齢を重ねれば重ねるほど、経験は増えるけれども年齢制限の壁が近づいてくる。
教育界はスポーツやアートや芸能の世界に近いのだろうと思っている。そこに憧れる人は多いけれども、安定した収入を得られる立場になれる人間は限られている。その限られた人たちの中に入れなかった者には、干からびた現実だけが残される。
私の能力不足なら諦めもつくけれど、では今専任として勤務している連中は、みんながみんな私より優秀なのだろうかというととてもそうは思えない。いや、これは嫉妬と焦りのせいで私の認知が歪んでしまっているせいでそう見えているだけなのだろうか。そうなのかもしれないけれど、その辺の専任よりも自分の方が遙かに良い授業をしていると、自分に言い聞かせでもしなければ今にも心が折れてしまいそうになるのだ。
元々、自分の頭が良いとは思っていない。昔から数学だけは得意だったけど、それ以外はからっきしだった。しかも何の因果か、一番苦手だった国語の先生になろうと思い立ってしまった。だから必死に勉強した。大学入試と高校入試は毎年全国の問題を解いた。毎日毎日、本を読んだ。哲学、社会学、心理学、文化人類学、歴史、行動経済学、言語学、批評理論。授業に関係すると思われるものは手当たり次第に何でも読んだ。問題集も何冊も解いた。学校では国語しか教えられないが、塾では他の教科も教えるから、ほとんど全科目を勉強した。私より勉強している同業者が何人いるのかと思える程度には勉強した。それでも、私は採用試験に落ち続けた。私より若くて、少なくとも私の目から見ればあまりにも勉強不足な後輩が何人も講師から専任に上がっていった。授業が下手だからだろうか。協調性がないように思われているのだろうか。いやそんなことはない、単に上の連中の見る目がないのだ。いやいや、そういう傲慢な考えを見透かされているのだ。では今専任になっている教員達はそれほど謙虚で慎み深い人たちなのか。専任になった途端、講師には廊下ですれ違っても挨拶もしなくなるような人もいる。私はそういう人たちよりも能力・人格ともに劣っているのだろうか…
不安定な生活と将来への不安と、卑屈と自信過剰とを行き来する毎日が、少しずつ少しずつ、私の心を削っていく。
安定した生活が欲しかった。生活が安定すれば、心も安定するのだと思っていた。いや、実際に、生活の安定はある程度の心の安定をもたらしてくれはした。それでも、重い荷物を下ろす場所は無いらしい。
結局私の意見は、森村さんには通らなかった。森村さんはフリースクール事業立ち上げのリーダーで、正社員のスタッフは森村さんと私の他に男の先生がもうひとりいて、それ以外はアルバイトやボランティアで回す予定だ。
40代半ばの森村さんは、公認心理師としてカウンセリングや個別指導をやってきた人で、生徒や保護者と1対1で向き合って、心を開かせるような働きかけがとても上手い。場面緘黙で、知らない人相手には全く話ができないという小学生が、2,3回森村さんと面談しただけで好きなアイドルの話を夢中になって語り出すというようなことがいくらでもあって、そういうところは本当にすごい人なのだけど、子どもの学力を上げるということにあまり意欲を持っていない。少なくとも、私には持っていないように見える。
フリースクールの開校は来年だから、私も森村さんも、普段は塾に通っている小中学生を教えている。勉強に忌避感を持つ生徒は多い。特にクレメンティアは、発達障害の子どもを対象にしているので尚更だ。だからまずはお勉強っぽくないことを入り口にしようという発想が自然に出てくる。
森村さんの授業では、「まずは勉強を楽しんでもらいたい」と言っては、英語の絵本を子どもと一緒に音読して単語の意味を教えたりしているのだけど、文法を教えるでもなく、前に教わった単語を子どもが覚えていなくても意に介さずといった状況で、私などはどうしても、子どもをレベルアップさせることを考えなくて良いのだろうかと思ってしまう。発達障害があって学校に馴染めず、不登校になってしまったというような子どもの親からすると、ともかく塾に通って机に座り、勉強らしきことをしているとなれば、それだけで満足してくれることも少なくない。森村さんの授業を受けて、家に帰って塾のことを親に楽しそうに話してくれているのであれば、顧客のニーズには応えていると言えるのかも知れない。
とはいえ、今作ろうとしているのは完全個別制の塾ではなく、集団生活を前提にしたフリースクールだ。そこに通う生徒達は、朝10時から午後の3時までスクールの教室で過ごす。それだけ長い時間、生徒を預かって、その分当然ながら塾よりも遙かに高い月謝を受け取り、それでいて「楽しく過ごす」ことだけを目標にしているのではさすがに保護者も納得しないだろう。偏差値や内申点のような数値化された目標を追いかける必要はないにせよ、だからこそ教室として生徒をどのように伸ばすことができるのかを示さなければいけない。いけないと私は思うのだが、その辺りの感覚が森村さんとすり合わせられずにいる。
森村さんからすれば、ずっと高校や普通の進学塾で働いていた私は、必要以上に勉強を教えることに拘りすぎているように見えるらしい。私の鞄の中に、少し分厚い、三百ページほどの人文書が入っていたのをみた森村さんに、「読書も良いけどもっと楽しいこともしないと子どもと打ち解けられないんじゃない?」と言われたことがある。そもそも私にとってその本を読むのは「楽しいこと」であって、別にお勉強のために嫌々読んでいるわけではない。さらに言えば、森村さんが今教室に置こうとしている流行りの漫画だって私はほとんど読んでいる。読んだ上で、流行が一過性のもので終わりそうな作品や、過激な描写の目立つものを外して、活字の本や、漫画を奥にしても子ども達の生活範囲では知る機会の少ない作品を取り入れてはどうかと言っているのだけど、なかなか理解してもらえないのは多分、私の伝え方が拙いのもあるのだろう。
どこに行っても、楽になるっていうことはないのだなとつくづく思う。
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