2話 また始まる

 ふわぁ〜と無防備に上げられた声が改人の意識を覚醒させた。薄ぼんやりとした視界にくすんだ色の茅葺き屋根が現れる。

 改めて改人は自分が起きたことを自覚した。眠気の残る身体に鞭打つのも気が引け、そのままの体勢で体温の移ったまゆに籠もる。

 防衛力の低いそれは床の硬さを直通で改人に伝える。故に上質の繭とは言えなかったが、冬には隙間風の絶えない襤褸屋ぼろや住まいの改人には、寒さを凌ぐ盾になるだけで、このボロ布を引き伸ばしたかのような寝具は充分な役をこなしていた。

 しばし天井の乾いた茅が織りなす線を右に左に眺めていた。萎びた老婆の髪の様だと毎朝感じる。絡み合う管のようなそれを目で追い、さっきの欠伸あくびは自分のものだったかと思い直す。

 ふと改人は布団から右手を取り出し安全領域から投げうった。木張りの床の低温が肌に侵食する。それは右腕から胸へ、三手に分かれ頭、左手、腹へと進む。寒暖の邂逅に背筋が浮きそうになり、目はより一層開かれた。

 そうすると目やにが気になり、冷気を供給中の片割れに気を使い、左の方を目にあてがう。

 目の端をゴシゴシと、しかし傷付けぬよう気をつけて夜に溜まったゴミを取り除く。

 そうすると改人の起床を阻むものはもう居なかった。

 いささか冷えた繭の中で投げ出された両脚を腹へ近づけ、折り畳むと尻を浮かし、勢いをつけて下半身を思い切り床に打ち付けた。

 そうなると次は上半身の出番で、片割れの半身がつけた速度に乗って前方へ飛び出す。

 こういったやり取りの末、改人の頭蓋は天井を向いた。そこに改人より何倍も早く起きた母がいつも通り、おはようと微笑む。

 喋りながらもその手は丈の低い食卓の上の食器やらなんやらを忙しなく並べている。

「おはようお母さん。もう食べる?」

 起床の為に吹っ飛んだ掛け布団には目をつぶりつつ、布団の上で胡座をかいて母に向き直る。

 母が笑顔でこちらを向くのを見て、前の発言とは裏腹にぼさついた髪を乱暴に掻いて、腰を上げゆっくりと戸へ向かった。背に、分かっているじゃないという母の視線を感じつつ。

 家はお世辞にも恵まれているとは言えない。金持ちや有力者ほど北に居を構える亀殻村で、改人たちは南端に住んでいるのがその第一の証拠だ。貧困具合は家屋の様子からも読み取れる。入ってすぐの土間を上がると六畳ほどの木張りの床、その左には簡素な調理の空間と物置等だけがあり、家の外に薪や水を置いておく場所を加えたらもう紹介すべきところはない。

 しかしそんな中、母は苦労を見せずに居てくれる。改人の笑顔だけで十分よと微笑んでくれる。だから改人は幼いながら母を大層尊敬していた。

 加えて母は礼儀作法にも厳しく。怠惰な改人がこうして朝一番顔を洗うのも大目玉を喰らいたくないからだ。

 自分も母のように毎日を懸命に、細やかな幸福を得てこの村で生きていけたらという無難な夢が改人には有った。

 ぶつぶつとそんなことを頭で唱えながら冷水で顔を洗い、踵を返して食卓へと向かった。

 今朝のご飯は白米と魚の乾物に汁物を付けたものだった。二人で手を合わせ、仲良く食べ始める。

 幾らか米を腹に入れて温めたところで米の椀をひっくり返し、改人は汁の椀へ残りを投入した。かき混ぜ、いい塩梅に混ざったそれを胃袋へすっと流し込む。体の内側を熱が通り過ぎていった。

 これが堪らなく好きで、改人の毎朝の習慣になっていた。初めは普通に食べなさいと諫めた母も根負けして、我関せずと魚に箸を伸ばしている。

 母が丁寧に焼き魚を解体している間に改人は全部を食べきり、ご馳走様でしたと感謝の意を表した。

 そして台所に重ねた食器を持っていき、すぐさま身を翻し戸口へ向かった。

「じゃ、行ってくるね」

 いつも通り告げると静かに魚の身を口へ運んでいた母は一瞬手を止め、こちらをちらと見た。

「いってらっしゃい。相変わらず食べるのが速いわね。また鳳露ちゃんのとこ?好きよねぇあんたもあの子のこと、気を付けてね」

「別に好きとかじゃないよ。あ、あとご飯は速く食べてもいいでしょ」

 捨て台詞を吐き、颯爽と改人は家を後にした。

 残された母は開けっ放しの扉を眺めながら食事を再開し、戸外へ消えたばかりの大きくなった息子の背を思い浮かべていた。

「また開けっ放し……。帰ったら言わなきゃね」

 彼女の小さな呟きは小言に違いなかったが、妙な笑みが口元に添えられていた。

 そんなことは露知らず、少年は今日も栄えた村落へ駆け出した。

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珀明の御子 夏楽 @karakuhiko

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