四日目暁
土砂降りの雨のせいで、視界は全て滲んでしまっている。私はまんじりともせず窓から外を見ていた。アリさんたちは仮眠を取って、7時からまた捜索を始めるようだが、私には確かめなければならないことがある。
みんなが集まっていた休憩室から私を連れ出して、母は辛そうに話した。夕方、母が宿泊所に灯油やティッシュなどの消耗品を運び入れていたところ、シュリばあちゃんが訪ねてきたのだという。母は雑談をして、シュリばあちゃんを公民館の休憩室に通した。シュリばあちゃんの、つまりユアンの家には冷房もテレビも無い。私たち姉弟は小さい頃からばあちゃんのところへ遊びに行っているので、そのことは母もよく知っている。だから、自分は忙しいけれど、ゆっくりしていって下さい、とお茶を出して休憩室を開けたのだという。母が宿泊所と倉庫と家の間を行ったり来たりしているうちに、日は暮れて、ばあちゃんの姿は見えなくなった。ユアンが迎えに来たのだろうと母は思ったのだが、イージュさんが帰ってきて投票箱が見えなくなった、と問われた時に、母が先ず疑わざるを得なかったのは、シュリばあちゃんだった。
「シュリさんじゃないよ、ねえ、そんな訳がない」
自分に言い聞かせようとする母は気の毒だった。私も同じ気持ちだから、これが隠匿に当たるのなら同罪だ。この島の住民は、みんなシュリばあちゃんに祝福されて生まれてきたのだ。ばあちゃんが悪を負っているのなら、この島がその源であって、私たちは呪われている。きっと選挙でなんて変われないほど、囚われてしまっているのだ。
「レニ、少し眠ったほうがいいわ」
私は宿泊所のスタッフ用仮眠室に陣取っていたのだが、目が冴えてしまって、廊下をうろうろしていたのだった。窓から外を眺めていると、イージュさんに声を掛けられた。イージュさんに、話してもいいものだろうか。話したとして、分かってはもらえないだろうと思う。この島に人が暮らし始めて随分経ってから、新しい言葉が入ってきて、新しい宗教が入ってきて、新しい経済が入ってきて、新しい政治が入ってきて、みんなそうやってここを『新しく解釈』しようとする。
「この島のご高齢の方の中には、日本語を話す人もいるのね、驚いたわ」
隣りに立ち、雫の滴る窓とその向こうの暗がりを見ながら、イージュさんが言った。昨夜、アリさんと村の長老たちと飲んでいながら、そんな話題になったのだろう。
「ええ、先の戦争で、コヒメ島は日本軍の停留地になっていたんです」
マレー半島とオーストラリアとの中継地として、丁度良かったのだと習いました。レダルニ島では連合軍と独立軍が入り混じってゲリラ活動をしていましたしね。“コヒメ“というのも、可愛らしい、っていう日本語だそうですね。上擦りそうになる声をなんとか明るくして答えたつもりだが、イージュさんは外の暗い光を受けた表情を変えることなく、口元で微笑んだだけだった。
「……イージュさんは、精霊を信じます?」
上空に雷鳴が走った。私は浮かび上がったイージュさんの端正な横顔に問いかけた。日本軍が来た時に、島の精霊は何も言わなかった。そのことを、戦後独立政府から批判されて伝統的な精霊信仰は廃れていってしまったのだ。精霊には人間の争いなど関係無いのだと、彼らは人と自然の仲介者でしかないのだという、巫師たちの言葉は呪術だと見做された。
「分からないわ、見たことがないから。でも見たことがないから、否定もできないでしょう?」
見ることができれば、“真実“であるだろうが、見えないからと言って、“真実“でないことにはならない。自分の見えているものなど、この世界のほんの一部に過ぎないとのだから。私は精霊の様子を想像してみることが好きだから、“
「選挙も、同じようなものよ。政治っていうのは、社会つまり『自分を含めた会ったことも見たこともない大勢の人々』を思い描いてみることから始まるの」
自分とは利害も意見も正反対の人だっているし、社会階級や階層が違う人もいっぱいいるけれどね、その中でできるだけ多くの人がよりよく生活できるような道を探ることが政治参加なのよ、私はそう思っている。だって、その人のことを想像できるなら、その人が辛ければあなただって辛いでしょう。政策的主張や主義を論じる以前に、共感性が大事なんだと思う。誰かが辛いなら分け合いたいと思うことね、まあこれが一番難しいんだけれど。最も根本的で最も単純で最も難しい。
「イージュさん、私たち、箱を持ち出した人物に心当たりが有るんです」
イージュさんの政治についての話はピンと来なかったが、私は泣きたくなった。そういうことを言ってもらいたかったのだと思う。この島の人間が漠然と抱えている哀しみを、分かってくれなくてもいいから、少しでも分け合ってもらいたかったのだ。
箱の中の海 田辺すみ @stanabe
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