四日目未明

 風が出てきた。雨の気配がする。家に着いたのは真夜中過ぎだが、父も母も不在のようだった。スーダも何かおかしいと気付いて、戻らずに隣りで立ち尽くして いる。こういう時に携帯電話というものがあったら便利なのだろうけれど、我が家では仕事上必要であるらしい父と、ジェンナンダで大学に通っている弟しか持っていない。


「レニ!」


 バイクのエンジン音が近づいてきたかと思うと、石垣の向こうからライトがぐるりと回り込み、家の前に止まった。どことなく青白い顔をした父が降りてくる。

 

「盗まれた」


 強張った喉から絞り出された言葉の意味を、私は暫く理解できなかった。盗み? 隣近所誰も鍵を掛けて出かける必要のないようなこの島で? 盗むっていったって、人が少ないんだからすぐにバレてしまう。ノキさんぐらいになると、むしろバレるためにやりそうだけれど。


「……まさか、イージュさんが疑われてるとかじゃないよね」


 島の人間はお互いを知りすぎているから、真っ先に疑われるのは外部の人間だ。イージュさんが不法行為をするはずないじゃないか、と私は単純だか真摯に思う。選挙管理委員なのだ。だから何だと言われそうだが、だからどうしても、そうでなくてはならない。父は汗などかいていない額を拭い、声を落ち着かせた。


「違う、箱だ」


 投票箱が盗まれた。私はバイクに跨りエンジンを掛けた。上空で渦巻いた風がどう、と吹き下りてきて、椰子の木をしならせ葉をばたつかせる。私は一層暗くなった道の先を睨んで、捲き上げられた髪を撫ぜた。投票日まで三日、間に合うだろうか、という心配以上に、この島で選挙にそれほど利害関係か恨みを持つ者がいるということに、私は狼狽していた。



 宿泊所に着くと、全ての部屋に煌々と明かりが灯っていた。イージュさんのすらりとした影がそこに映って、私はバイクを跳び下り駆け出した。


「レニ、遅いのに」


 宿泊所の休憩室、つまり公民館の休憩室には、イージュさんと母、アリさん、ノキさん、ジンタさんが集まっていた。私が自由民族党後援会の会食に参加している間、イージュさんはアリさんと島の長老たちと一緒に呑んでいたらしい。イージュさんの呑みっぷりが良いことは、一昨日父の晩酌に付き合っていた様子からも窺い知れた。別に必要ではないのだけれど、気を許してもらって初めて聞くことのできるその土地の話も有るからね、と平然と言う。


「じゃあ、公民館に誰もいない時を見計らって、誰か侵入したということですか」


 みんなを見渡して問うと、ジンタさんが頷いてくれた。公民館と宿泊所の受付事務は私と母の交代制だ。尤も二人とも配達だとか畑の世話だとか他にやることがあるので、時折無人になる。夕方6時には受付が閉まるが、宿泊者の食事やその他のサービスは夜10時まで対応している。母も私も6時以降は家に戻って、調理したり呼ばれれば出向くことになる。なので、宿泊者も外出していれば無人である。まだ少し赤ら顔のアリさんが、溜め息を吐いた。


「盗難など無縁と思っていたがな、申し訳ない」

「予備の投票箱をジェンナンダから取り寄せることができますので、投票については問題ありません」

「でも一日掛かりますよ、明日は金曜日ですし……」


 イージュさんの言葉に、それまで項垂れていた母が小声で尋ねた。明日は多くの人々にとって礼拝日で、伝統的には休日だ。ただこの国は政教分離が国是で、公定のカレンダーではない。イージュさんはすまなそうに、丸まった母の背を撫ぜた。


「それでも優先されなければなりませんから」

「予備の投票箱と投票用紙が来るのはいいとしても、無くなったものを放置できないでしょう、悪用されるかもしれない」


 ノキさんの若干険を含んだ声に、私は首を傾げた。悪用? この島で起こり得るだろうか。そもそも投票箱やら投票用紙やらを悪用する用途が分からない。私が不審げな目をしているのに気付いたジンタさんが静かに言う。


「票をすり替えられたり、水増しされる恐れがあるということだ」


 両党の支持が拮抗しているからこそ、起こり得る。既に大差がついているものをひっくり返せば操作を疑われるが、何票何十票かすり替えればいいのなら。どちらかの陣営がその誘惑に逆らえなくなったのなら。アリさんが、よし、と立ち上がった。


「島内を探すよう人を手配します。もし何かに使う目的があって盗んだのなら、廃棄はされていないでしょう。林か海に紛れてしまったらなかなか手に負えませんが」


 お願いします、とイージュさんが答えている横で、私は混乱していた。投票日程自体は問題無いだろうけれど、紛失はイージュさんの管理責任になるだろう。そして宿泊施設を提供していた私たちの責任であり、一番の疑問は『なぜこの島でそんなことが起こったか』だ。握りしめた拳に何か触れるものがあって私は我に返った。いつの間にか母が傍らにきていて、ちょっと、と囁いた。

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