三日目

 何十枚目かの違反ポスターを見付けて、私は風の出てきた天を仰いだ。昨日宿泊所に戻る道すがら、イージュさんが指し示して教えてくれたところによると、選挙ポスターは本来、許可印を押されたものを規定の場所にしか掲示することができない。ところがここでは塀にも壁にも立ち木にまでペタペタとコピーが貼ってある。今朝イージュさんは中央との電話会議があるので、私は思い出しついでに違反ポスターの回収・調査をしてみることにしたのだった。故意というよりは知らずに貼っているんだろうなあ、と思う。選挙活動にそんな細かい規定があるなんて、普通は気付かないだろうけど、面白い。候補者の財力によって不公平にならないようにするための措置なのだそうだ。


「レニ、手伝うわ」


 小さな声で呼ばれて、私は振り向いた。ゆったりとしたワンピースをまとったタイラが、道端からこっちに手を振っていた。タイラと会うのは久しぶりだ。私は嬉しくなって駆け寄った。


「私もボランティアに参加したかったの。でも、ナティスとお義母さんが、大事にしなきゃ駄目だって」


 口を尖らすように言うが、そりゃそうだろう。タイラは妊娠6ヶ月なのだ。でも、もう安定してるし、何かしたいわ。大きな目が零れそうに私を見上げる。少し躊躇して、囁くように続けた。子供が大切なのは家のためよ、母親じゃない私なんて、望まれてないのよ。私は言葉に詰まった。タイラがそんなことを言うのは意外だったけれど、タイラだからそういうことに悩むんだろうな、とも思った。学年でいつも一番成績の良かったタイラが、進学せずナティスと結婚すると言った時は、驚くというより悔しかった。タイラは私の憧れで、だから進学して都会に出て活躍するものだと思っていた。それは私の勝手な願望で、幼馴染のナティスはちょっとお堅いところがあるが真面目で働き者だし、二人が両思いなのは知っていたから、祝福するべきだったのだ。


「ずっと家にだけいると、自分が存在しているのかすら、分からなくなってきちゃう」


 あんまり寂しそうに笑うので、私は思わずタイラのふわふわとした癖っ毛を撫ぜた。大丈夫、大丈夫、タイラはちゃんとここにいるでしょ、ね? それにね、タイラがいなきゃ、今こうして選挙のことをやってる私もいないのよ。勉強が嫌いにならないで済んだのは、タイラのおかげなんだから。鼻を啜って、タイラは顔を上げた。ありがと、私にも一つは誇れるものが有ったね。学生の時みたいに手を繋いで、街外れの道を二人で歩く。タイラさあ、議員になったらいいんじゃない。そしたら私、事務方になって応援するよ。なれるかな、私、大学も行ってないし、正規の仕事にも就いたことないんだけど。学歴は関係無いってイージュさん言ってたよ。それにジェンナンダには最近、女性向けや母親向けの奨学金制度があるんだって。タイラとお喋りを始めると止まらない。将来の夢の話をしたのは、いつぶりだろうか。


 ハイビスカスの花が咲き乱れる道を下っていったところで、小さな背中が土塀の向こうをゆっくり横切っていくのが見えた。


「シュリばあちゃん!」


 私もタイラも慌てて駆け出そうとするが、タイラはゆっくり来て、と私は先に駆け降りる。シュリばあちゃんは杖をついて畦道を歩いていた。まあレニちゃん、久しぶりだね。ここ何日か、精霊たちが騒がしくてねえ、でも今お供えものをしてきたから、大丈夫。にこにこと私の名前を呼んで、差し出した手を撫ぜてくれる。シュリばあちゃんは、この島の最後の巫師だ。精霊の言葉を聞いて、どうやったら稔りが多くなるとか、漁が安全かとか、病が治るとか教えてくれる。私は幼い頃から、ばあちゃんの話してくれる伝説や精霊の物語が大好きだった。敬愛の挨拶に、ばあちゃんの手を額に付けて腰を屈める。タイラが追いついてきて、同じように挨拶して言った。


「ばあちゃん、一緒に帰りましょう。レニ、私がばあちゃんに付き添うから、仕事に戻って」


 タイラちゃん、お腹大きくなってきたね。きっと元気な子が生まれるよ。ばあちゃん毎晩お祈りしてるからね。シュリばあちゃんはこの島で生まれた全ての子どもに祝福してきたので、みんなのおばあちゃんなのだ。嬉しそうにタイラのお腹を撫ぜるシュリばあちゃんと、手を振るタイラを後にして、私は置き去りにしたままのバイクと回収したポスターを取りに戻ることにした。


 せっかくうきうきした気分だったのに、台無しだ。父と母から自由民族党後援会の会食に参加するよう申し渡されて、家を追い出された。両親の名代なんてわざとらしい。行きたくないだけに違いない。その上会場まで来たらスーダがいた。スーダの一族は、というより漁師組合は熱心な自由民族党支持者の集まりである。漁業に対する補助金政策や、漁師への保険料優遇策は、自由民族党の変わり映えしない“おハコ“キャンペーンなのだ。従って、会場にはスーダの両親も親戚たちの姿もあった。私は会長に心付だけ渡して壁際へ隠れようとしたのだが、不幸なことにスーダに見つかった。


「レニ、ちょっとこっち来い」


 引っ張られてスーダの両親や親戚や付き合いのある漁業関係者に挨拶をして回る。自分一人でやればいいじゃないの、と愛想笑いもせずにいたが、妙に生暖かい視線を向けられているうちに気がついた。スーダをテラスへ蹴り出し、問い詰める。


「いいだろ、お前も俺もしばらくは『早く結婚しろ』なんて言われなくて済む」


 この男は、親戚関係者一同に、ただの腐れ縁の女を、婚約者であるかのように紹介したのである。俺は言ってないぜ、向こうは勘違いするかもしれないけどな。腹が立ってしょうがなかったので、とにかく飲み食いしてやることにした。誰の懐から出た金だか知らないが。なぜかスーダも同じらしく、会長や党本部関係者の長い長いスピーチをツマミのようにして、黙々と呑んでいる。適当なところで帰ろうとしたら、送っていくと言われた。ますます誤解が深まるだろうと呆れて見たが、やけに目が座っているので、これはこっちが送っていった方が良さそうだ、と頭を抱えたくなる。普段はあまり呑む機会も無いはずだ。漁船は毎日未明に出港するからである。バイクに乗るのも危なそうなので、二人で押しながら、畑と防風林の間の道を歩く。星空には切れ切れに雲が掛かって、捌けた縁がぼんやりと輝いていた。


「……分かってるんだ、本当は。保険金や補助金をもらうだけじゃ解決にならないって」


 歩く自分の陰を見ながら、スーダは俯き加減に呟いた。島民みんなが利用できるもっと高度な医療設備がいるんだ。レダルニ島に病人を送らなくても、ここで各種の専門手術や集中治療を施せたらどんなにいいか。漁業振興だって、加工品製造までできたら付加価値が付くし、仕事だって増える。そういうところに金を使うべきなんだ。でも、既得権益構造を変えるのは難しい。スーダもいろいろ考えていたんだな、と私もほどほど酔った頭でちょっとだけ同情した。諦められないのは、俺だ。


 その時宿泊所で何が起きていたのか、私は知る由もなかった。


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