かいしゃくちがい

さくご

神経の有無が虫との違いだったね。

 腹のなくなったカブトムシを見たことがある。


 小学校の裏手に形成されたビオトープだった。鳥に啄まれでもしたのだろう。緑に濁った池の縁で裏返り、半数になった足をぴくぴく動かしながら、それはまだ生きていた。空洞になった腹の背で血管が脈打っていた。


 靴底ですりつぶした。足をどけたとき、破片は湿った地面に混ざって泥と区別がつかなくなっていた。角が残っていたので、池に蹴り入れた。


 同様に、木登りに失敗して背中を打った少年が、仰向けになって喘鳴しているさまを思う。死にかけのカブトムシのようだ。


 地面には虫取り網とかごが置かれていて、ひと目で昆虫採集にきたのだということが窺い知れる。高い場所にいるムシを取ろうとして、失敗したのか。子どもの体重で木を揺らすのは難しいだろう。


 ずっと見ているが立つ気配が一向にない。リュックサックなどクッションになりそうなものがあいだに挟まっているわけでもなく、落下の衝撃をもろに受けて骨や筋を痛めた可能性がある。


「きみ、大丈夫?」


「……大丈夫に見えます?」


 口が利けているから、言語野に影響がでるほどの損傷はどうやら受けていないらしい。もちろん、経過次第ではあるが。


 救急車を呼ぶことを検討し、連絡手段を断って、身分保証書も捨てて、身一つで踏み込んだのを思い出す。


「ここ、樹海だけど。自殺スポットだって知ってる?」


「踏みつける人の足が遠のく場所のほうが自然は育まれてるものでは?」


 知れたことなのになぜ言及するのか、と不思議そうに目を瞬かせた少年は、身を起こそうとする意図か、首をわずかにもたげ、しかし、それ以上の動作を行わない。いや、行えないのか。


「クソガキ。──動けないのに、そんな態度取っていいの?」


「自殺志願者相手に取り繕っても」


「まあ、たしかに」


 手近の木に吊り下がった、まだ死にたてほやほやの死体の傍らに落ちている、割れ画面のスマホを見つつ、私は訊いた。


「きみは持ってないの、スマホ」


「位置情報知られたら連れ戻されるでしょう。だから置いてきました」


「なんかふつうに電波通じるんだっけ……ほんとにムシ採りにきただけなんだね、きみ」


「外、暑いですし。ここなら直射日光ないから昆虫採集向きの環境ではないかな、と」


「たしかに、立ってるだけで死ぬみたいな環境ではないかもだね」


 陽射しの届かない樹海の地面に草木は茂っておらず、苔が生すばかりだ。


 地面は固く、岩のようだ。火山活動の結果、溶岩流が堆積して出来上がった地表。そのため、落下時に打ち付けた部位が致命打になった。


 打ち所が悪かった──そういうことだろう。


「水もらっちゃうね。……きみはもう飲まないでしょ?」


 外と比べたらそんなに暑くないとはいえ、水分補給は大事だった。虫かごと一緒に転がっているステンレスの水筒を拾って見下ろせば、少年の問いかけるような眼差しとかちあった。


 自殺志願者ではないのか── 


「そう名乗ったつもりはないよ。私さ。少し外でやらかしちゃって、ほとぼりが冷めるまで身を隠したいってだけなんだよね」


 だいたい死にたいだけなら樹海にまで踏み込む理由はない。木々に遮られた山中を出た外界は、息するだけで灼けるような熱気で満ちている。都会に出れば対策をせず歩くだけで死ねるコンクリートジャングルが広がっているわけだし。


「いったい、なにをやったんですか……」


「……たとえば、だけど」


 たとえば。停まらない駅のホームで快速列車の来る方向をじっと見つめるサラリーマンがいるとしよう。


 ──腹のないカブトムシを見たことがある。

 それを、私は、


「すでに死が決まっているもの。その後押しをしちゃった、みたいな?」


 ようするに介錯。


 私は少年の緩やかに上下する腹部に靴底を乗せた。彼が着ているボーダー柄のシャツは、昆虫の節目のついた腹を想起させる。


 ブウン、と耳もとを何かが横切った。


 蜂の羽音に似ているが、耳に受ける音量と風量が違う。おおきいむし。カブトムシが飛ぶ姿を目にするのは、カマキリやバッタが飛べることを知ったときの衝撃に似ている。


 地を這い、緩やかに動くばかりと見くびっていた、自分の偏見を思い知るからだろうか。


 弾力に富んだ幼年期特有のイカ腹の下、圧力に従って骨が軋み、いくつかの臓器が潰れるのを靴裏に感じながら、私は思う。


 飛ぶのを待てばよかったのに、と。


 最中、少年の顔は見なかった。たぶん、見ていられない状態になっていただろうから。


 耳を澄ませて虫の息になったのを確認し、足を移動、頸骨を踏み砕く。


 子どもとはいえヒトひとりを埋めるのは一仕事だから、関節を砕いて畳みやすくする。


 少しばかりコンパクトになった体を運んで、服毒で心中した恋人か夫婦らしき腐りかけの死体ふたつのあいだに、丸めた死体を放り込んだ。


 溶けて癒着しかけた皮膚と皮膚が、衝撃でべり、と破ける音がした。


 一家心中。小学生の子持ち夫婦にしては若く見えるが、これで少しは紛れることだろう。


 GPSやらはスマホを置いてきたと言っていたので心配ないだろうが、行方知らずの児童ともなれば世間も行政も関心の度合いが成人とは段違いだ。


 身を隠すのには向かなくなったので、ここを離れることにした。


 自殺スポットに身を隠すというのは、悪くない考えだったが、ヒトの行動を読み切ることは難しい。まさか『ほかにヒトがいない』のを理由に樹海に虫を捕りにくる幼体がいるとは。


 役得ではあったが、いまは自分の首をしめることになるので、控えなければ。


 そして、私がふと顔を上げると、まさにいま木登りしている子どもがいた。


 ……考えたそばから、と億劫に思う心とは裏腹、どうしても顔がほころぶのを止められなかった。


 ああ、これでまた後押しができる。


「ねえきみ。さっき、あっちにカブトムシ飛んでったよ──」

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かいしゃくちがい さくご @sakugo_sakusaku777

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