喝采の自負

楠 夏目


電信柱の上部で浮かぶ、凡そ八本の細電線。澄み渡る青に亀裂を入れんと、線は空を斬っていた。その手前で光るのは、風吹かぬ宙で制止する青葉。辿ると見える木色の太枝は、魚鱗ぎょりんの如く細々とした切れ目を、隙間なく含み並べている。少年は地に尻を付けたまま、映える外界を眺め見ていた。

耳を掠める多大な蝉声。偶に過ぎ去る車の動作音。それから、確として鼓膜を揺らす素朴な風鈴。夏特有の熱ある景色に見惚れる時間は、子供ながらに幸せを覚えた。

再度電線を見上げると、今度は小さな鳥々と目が合う。上下する電線は、触れ合うこと無く疎らに並び───数十匹は下らないだろう、乗り連なる鳥は、一息つかんと羽休みしている。少年は我知らず感嘆の声を漏らすと、その姿を目に焼き付けんとしていた。一緒くたに響く鳥の鳴き声。自由気ままなその様子は、見ていてとても心地が良い。地を焦がす夏の日差しの下で、少年は小さく笑みを零した。若かりし頃は───


希望と期待に満ちていたのだ。


* * *


燦々と地を焦がす灼熱の太陽。

その光は、鳴り止まぬ蝉のうめき声と共に、四方八方へ広がり続ける。少々の熱風が木の葉を揺らし、枝と分離した一枚の青葉が、風に吹かれて宙を舞う。待ち行く人々は皆、異形な暑さに溜息し、炯々と天を睨みつけるばかりである。

無論───男もその一人だった。

薄暗い室内の中で、淡々と起稿にふけっている。その眼差しは冷静とは言い難く、逸る心中は不安と焦燥で満ちていた。

然し。夏の日差しは、窓の僅かな隙間でさえも見逃さない。光は熱を帯びたまま男の居る部屋へ差し込むと、薄暗い部屋を瞬く間に照らし、遂には内部をも暖めてしまった。

その堂々且つ淡々とした動作には、男の心中を構う気など、一切ありはしない。

「…………はあ」

鋭い光は、男の頬に直撃した。

肌の細胞を攻撃せんと"痛み"を帯びたその一閃。屋内の冷房をも掻き消す熱さに、男は態とらしく溜息を零す。目前まで伸びた前髪の奥で、目を光らせる二つの瞳。その色は、双方濁り果てている。

長い年月を経て───希望に満ち溢れていたかつての少年は、空虚な男へと成長したのだ。


男の居る部屋は、冷房に満たされた薄暗い空間。作業の効率化を図るべく借りた、古いアパートの一室だった。外装、内装は共に綺麗で、レトロな雰囲気を堪能出来ると、若かりし頃の少年心を、確として燃やしたこの部屋。然し、長い年月が経過した今では"男の気持ちを代弁する為"だけにあるような、暗い雰囲気に包まれている。男は、紺碧に輝くPC画面を、睨みつけては目を瞑る。

端的に述べば───スランプだった。

かつて"人気小説家"などと称えられていた栄光の面影は、今では何処にも見当たらない。疎らに生えた無精髭と、日を追う事に痩せる己の身体。食事を三食食べていたのは、もう何年も前のこと。

無論、男の指先が器用に動き出す様など、何ヶ月と見ていない。書けなかったのだ。

筆が進まなくなるにつれて、徐々に自信を失った。何を書いても心は震えず、PCに打ち出される並行的な物語ばかりが、ページを黒く濁していく。

やがて男は、外出をも拒むようになった。

そして、日々塞がっていく己の弱心を隠さんと、遂には家族を罵倒した。それだけには飽き足らず、友人も恋人もかつての恩師も、唯一無二の交わりでさえ、己の手で断ち切ってしまったのだ。

孤独に対する恐怖心など、微塵も感じていなかった。いや、考える余裕すら無かった。"生み出さなければ"と焦る心中が、男の判断を濁したのだ。過去に受けた 勝利の記憶 と 順調な毎日 が、脳裏にこびり付いて離れない。それ故に男は、例えどれだけ悪戦苦闘する日々だろうとも、いずれは"乗り越えられる"ものだと、自身を過信し続けた。

それが『最も愚弄な過ちだった』と悟った時には、無論───全てを失い果てていた。


他を羨み、己の地位を軽んじるのは、最早もはやヒトの性分か。長い間憧れ続けたこの職も、成った今では生活する為の"道具"に、成り下がっている。生み出せず、藻掻き苦しむ間に、己を越し去る他者を見た。その輝きを恨めしく思い、自責の念に駆られれば最後───己はそれ迄のヒトだったのだと、前触れもなく知ることになる。そして静かに落胆するのだ。

葛藤以前に気づいたのは、才能の有無でも、運の善し悪しでもない。精神の弱さ故に知る限界。若くしてソレを悟った少年は、拍手喝采を夢みて眠る事でしか、抵抗の手段を失っていたのだ。

空はまだ、依然として煌めいている。然し、家から出ない男にとって、外界の様子など関係の無いこと。男は大きな欠伸を落とすと、光差し込む部屋の中心で───倒れるように眠りについた。


* * *


『君が夢を叶えた時。それは───私の 願い が叶った時でもある』

久しい声を耳にした。

男は上下する浮遊意識の中を、一人静かに泳いでいた。ここは夢か、或いはあの世か。とても現実とは思えない、浮世離れした謎の空間。それは、まるで男の生活を代弁したような、妙な薄暗さを内包していた。然し、男には……己の居る場を思考するより先に、思い出すべき過去かこがあった。それは言わば声の主。忘れてはならない過去の記憶。

───それは、友の声だった。

男がそう悟った時。水の無い空間にも関わらず、白泡の粒が体内から零れた。それは暫く男の目前で留まっていたが"滞在の意味"を失ったのか、やがて天へと登り去っていく。

脱力した空間は、穏やかな雰囲気に包まれていた。

男が夢を叶えた時に"あの世"へ飛び去った『故人の記憶』は、今も尚鮮明に思い出せる。消えぬ記憶であるが故に、果てには夢にまで出て来ようとは。依然として変わらぬ、友の不思議な性分を思い出し、男はその場で小さく笑った。ここがあの世なら、きっと己は"友の姿"を目に出来たのだろう。然し、今目に映るのは空虚な平地のみ。鼓膜を揺らす事でしか、存在を感じ得ない友の声に「これが夢の限界なのだ」と、男は静かに目を<瞑る>。


友は───面白い人間だった。

蜘蛛の巣で埋まった古い屋根裏を見上げては『今日の天月は些か濁って見える』などと、平然とうそぶく男であった。見えるはずのないその先を、まるで"見えている"かのように言うのだ。否。男が疑問符を投げたとて、友は意図を述べようとはしない。然し男は、そんな友を気に入っていた。

己に見えぬ何かを知っている───それは、若き頃から"小説家"を目指していた男にとって興味をそそられる事柄だった。



友は最大の『資料』だったのだ。



然し。そんな壁じみた関係であった訳でもあるまい。矢張り両者は結局のところ、互いを友として認識していた。男の中にある"友の存在"は資料という壁ある隔てをも悠々と凌駕する程の力を持っていたのだ。利用せんとする腹黒い思考 や 興味心は、友の前では消え失せてしまう───それぐらいには。

己が起稿に耽っていると明かした時も、友は平然と頷いて聞くだけだった。理解し難いその存在は、幾ら時間を共有しようとも、その興味が尽きることは無い。男は己の行動を"嘲笑"する事なく、むしろ背を押してくれた友に対して、まず喜びを感じていた。そして次に、その存在に感謝した。生涯をかけてでも失いたくない、理解したい相手。何があろうとも助けてやりたい相手。

幾ら他者と交流しようとも、男は友を一番に想っていた。


然し───人の気持ちなど、欲の前では飾りに過ぎない。


長年の夢を叶えるように……男が"小説"で輝かしい賞を受賞したトキ。それと同時に友は死んだ。その報告を聞いても尚───男は、己の努力が報われたことに安堵し、喝采の拍手を浴びては、笑った。小説に費やした時間と、友と過ごした時間が こういう形 となって、突如天秤に掛けられてしまった。

否。男の判断は一瞬だった───この日は、友を失った事に対する悲しみを、初の快挙が超えた瞬間でもあったのだ。


一人の友を失った"代わり"と言わんばかりに、多くの有名人が男の名を呼ぶようになった。一生をかけても話す機会がないだろう、憧れて続けた偉大な方々。自分の成し遂げた事の大きさに、男は多大な幸福を感じる事で、友への感情を断ち切ったのだ。

友の事など気にならぬ程。"過去"の世界は順調だった。そう、男がスランプに陥るまでは。故に───

『夢なら早く覚めて欲しい』

男は正気を取り戻したように目を<開く>と、夢から覚めることを望んだ。友の声を聞いた嬉しさよりも、居心地の悪さが勝ったのだ。友の死より、己の喜びを優先した結果……このような"有様"になっている事を、改めて感じたくはなかったのだろう。

惨めな想いは、もう懲り懲りだったのだ。

自分中心な男の心は、傷付くことを恐れていた。友を捨て、過去の栄光に縋り───もう己を見向きもしない天の人物と"交わした言葉"で心を温める。これは、どれ程の時間を費やそうとも『もう帰って来れない』友人に対する、最も惨めな拒絶であった。


そう。男は屑だったのだ。


* * *


夢から目を覚ました時───外は既に、墨色に染まりきっていた。部屋に差し込んでいた煩わしい太陽は、いつの間にか消え失せ、虫の音だけが弱々しく響く。

規則正しい"生活習慣"という言葉は、男の前ではその意味を失う。スリープ状態のPCを立ち上げ直すと、男は再び画面を睨んだ。夢で故人を思い出したせいか、余計に頭が働かない。文字を打とうと指先を伸ばせば、ソレはやがて痙攣を起こした。震えが止まらなかった。男は手を胸の前で交差させると、不意な痙攣に目を丸くさせる。心理的に書けなくなる事は何度もあったが、物理的に書けなくなったのは、今日が初めての事だったのだ。

「なんだ……これは」

未だ治まらぬ震えを前に、男は心を焦らせていた。

何故、そこまで落ち着きがないのか───それは、夢で聞いた 声の主 もとい かつての友人 が、自分を「呪っているのでは」などと、浅はかな思考をしたことにある。

男は全てを失った後に、やっと過ちに気付いたのだ。然し。己を過信し、過去の栄光に縋り続ける男にとって……それを悔やみ、後悔することは、己のプライドが許さなかった。

だから男は───目を背け続ける。

己に正しい道を論ずる"他者"など、もう何処にもありはしなかった。孤独の日々を薄暗い部屋で過ごす。それはある意味、男に課せられた罰とも言えよう。

それから男は、多大な恐怖から目を背けるよう、震える拳を握り締めた。汗は容赦なく額を濡らし、遂にはコメカミを通って消える。そして男は、細々しい人差し指を、怖々と画面に向けて差し出すと……負けじと文字を打ち出していた。


過去の行いを「悔い改める」ことなく、取り憑かれたように薄暗い部屋へ篭っては、炯々と画面を睨み続ける。

そんな一人の哀れな男が、スランプから書き連ねていた"最期"の駄文は───



下記に示されている。



* * *


<日沈まぬ>暖かな日にて。

「今日の<天月>は些か濁って見える」

蜘蛛の巣に汚れた、木色の天井を見上げながら、男は静かに呟いた。窓の無い、古びた小家。無論、夜の光など差し込まぬ空間で、男はしかとそう言ったのだ。

「相も変わらず、貴方は虚言を言うのが好きなおヒトだ。空すら見えぬこの屋内で、どうして天月が見えると仰るのか」

男の隣で淡々と述べたのは、子の顔をした若い男だった。俗に言う"少年"の名が良く似合う小童。 少年は沸き上がる疑問符を先行させぬよう、依然として平然を装っている。

師弟関係にある両者は、談笑に花を咲かせている最中であった。

「そうか、お前にはまだ見えぬか。まあ無理もない───"天を突き抜けて天を見る"のは、オトナになったモノの証よ」

男の言葉は、少年にとっては理解し難い事柄であり"オトナ"という存在を憧れさせるには、十分効果的な発言だった。己よりも遥か上の存在。少年は、師がオトナである事を尊敬し、その生き様を目に焼き付けんと息巻いていたのだ。


そんなある日。

「欲に溺れることは、悪でしょうか」

少年は男に向かって、緊迫した表情のまま問いを投げた。己より生きた年数が異なるからこそ───オトナである師の言うことは、いつも決まって正しいに違いない、と。そう思考したからである。

「いや、善だ」

故に少年は、その問いを聞くや否や……安堵するように胸を撫で下ろした。その奥にある思惑は分からない。

少年は続ける。

「友を利用し、勝ち上がった人間は……報われるとお思いますか」

「無論、報われないはずがない」

少年は師の言葉に頷き、続ける。

「己を優先する心は、悪ですか?」

「悪では無い」

少年は続ける。

「己の行動は悪でしょうか?」

「悪では無い」

師の言葉はいつも正しい。

故に少年は安心出来た───己の生き方は間違ってなどいなかったのだ。何故なら"師"がそう仰ったから。夢に出て来るモノこそが全ての"悪"であり、それらは"誘惑"にほかならない。

無論───そうならば、そうであるならば。

俺は間違ってなどいない。

俺は間違ってなどいない。

俺は間違ってなどいn


* * *


それ以降は───幾ら文字を探そうとも、白紙が視界を覆うばかりであった。


読んでみて分かる通り。

その文章は、とても小説とは言い難く、まるで己を『正当化』する為だけに作られたような、酷く一方的な内容であった。無論、言葉も時分も全て疎らで、主語や内容に一貫性など感じられない。

まず前提として───この物語は"オトナは正しい"という男の固定概念と、二人が師弟関係であるという、大雑把な情報のみで構成された、非常に曖昧な物語である。

そして何より落胆すべきは、心揺さぶられぬ凹凸のない会話の交わり。それ故に、脳裏に浮かぶ二人の人物は、両者共に感情のない人形のように映ってしまう。


段々と乱雑に成るその文章は、男の焦燥を、確として代弁しているようだった。"間違いを認めたくない"と逸る想いが、文章となって叫び出たのだろう。プライドの高い男にとって、謝罪など以ての外。故に、後悔すらをも出来なかったはずだ。

否。男がこれを残すのも無理もない───何故ならその文は、男が"亡き友"を『師』として表す事で、無意識のうちに許しを乞わんとした、ただの謝罪文章であったのだから。

あの日。欲を優先し、友の死に耳を塞いだ男の行動は、現実逃避以外の何でもない。"今"の地位を守り続けたいと思う、保守的な欲が出てしまったのだ。然し、彼ら二人は"過去の中"では友に変わりない。故に男は、無意識のうちに文章で謝罪する事で、心苦しさを取り除かんとしていたのだろう。


外界の景色に一喜していた、あの光ある純粋な面影は、一体"いつ"黒く染ってしまったのか。

その決定的な瞬間は、何だったのか。

そして、なぜ男は突然『スランプ』に陥ってしまったのか。

他者を拒み、己の欲のまま、歩み続けた 孤独な男。そんな亡き男の手前。

それら全てを知る事が出来る者など、

もう───



誰一人として居るはずは無かった。








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