後編
Tさんの指示に従い、車2台やっと停めれるような崖の上としか表現しようがない狭いスペースに駐車する。
「わあっ! すごい景色ですよ!」
車から降りたAさんがはしゃいでいる。
確かにこれは凄い。水位はかなり低いが、
「こんな綺麗な景色を見たのは初めてかもしれません。幽霊が出るなんて信じられないなぁ」
「いや、出たよ?」
Tさんの鋭いツッコミで一瞬空気が凍ったが、気を取り直して吊り橋へと向かう。全身に虫除けスプレーを拭きかけ、念のために懐中電灯を持っていく。
吊り橋と書かれたボロボロの看板の裏手から、道と言っていいのか怪しい自然そのままの斜面を下る。
「Tさん、本当にこんな道を行くんですか? これじゃあまるで……」
Aさんと同じ事を私も思っていた。まるで山道だ。人が通る為の配慮なんて一切されていない。上から見た感じだと、吊り橋まではかなり距離がある。仕事終わりにこんな険しい道を歩かされるなんて、控えめに言って最悪だ。
「うーん、Aちゃんが嫌ならやめとく? 無理矢理誘っちゃったわけだし、私は全然いいよ?」
「いやぁ、どうしましょうかね。無理だと思ったら引き返してもいいですか? あたし運動神経ゼロですから」
正直なところ、是非リタイアして欲しかった。意外と根性があるらしく、そのまま木々に囲まれた薄暗い道を進んでいく。湿気を含んだ生暖かくベトついた空気が気持ち悪く、木の葉の騒めきが不安を煽る。
まだ自分の目で視界が確保出来ている状態だが、夜の帳が下りて闇に包まれた時、今来た道はどう印象を変えるのだろうか。
「へ? へ? Iさん、今何か言いましたよね?」
「いえ、私は何も?」
「い、い、一旦戻ります! Tさんもお願いします! 戻りましょう! ね? いいですよね?」
「私にも聞こえなかったけど。まあ、そういう話だったし戻ろうか」
明らかに様子がおかしいAさんを先頭に来た道を戻る。どうしたのかと尋ねても、「いや、ちょっと……」としか答えない。
だんだんと空が暗くなり、営業車が見えた頃には懐中電灯の明かりが必要になっていた。
「Iさん、鍵開けてもらえません?」
「あ、はい。どうぞ?」
ワイヤレスキーでロックを解除する。Aさんは走り出し、逃げ込むように車の中へ。私とTさんも後を追う。
「……で、Aちゃん。何があったの?」
「分かりません。気のせいかもしれません」
「とりあえず、車出します」
俯くAさんから、これ以上何か出てくるとは思えない。ひとまずこの場を離れる。
行きとは打って変わり、帰りの車内に会話は無い。何か話題を振ることも出来た。しかし、私の長い営業経験が、今は黙っていろと言っている。
沈黙を閉じ込めた車が病院の駐車場に到着。外に出ると、じっとり不快な空気が頬を撫でる。
「まあ、Aさん。気のせいかもしれないですし……」
声を掛けると、こちらに背を向けたAさんの肩が震えている。
「Iさん、ありがとうございました。Tさん、せっかく誘って頂いたのになんかすみませんでした。……耳元で、呼吸するような音がしたんです。スゥー……ハァー……スゥー……ハァーって。その時、目眩のような症状に襲われて……怖くなって……あたし……」
泣き崩れたAさんを、Tさんが背中から優しく抱きしめる。子供をあやすように頭を撫で、落ち着く声色でなだめる姿に母親らしさを感じた。
しばらくして、平静を取り戻したAさんを見送る。
「じゃあ、今日はこれまでですかね?」
「何言ってるのI君? いい時間になったじゃない。行くわよ!」
「へ? マジで言ってます?」
「あれれ? もしかして……怖いの?」
「行きます! とことん付き合いますよ!」
男としてのちんけなプライドと、霊を見たらお客さんとの会話が盛り上がるかもしれないという損得勘定が恐怖に優ってしまう。
日に二度も同じ心霊スポットを訪れるなど聞いたことがない。そう考えると面白い経験になりそうだ……が、現在時刻は19時50分。冷静に考えると、私は何をしているのだろうか。今日は会社に泊まる事が確定した。
再び車を走らせる。
道路は嘘のように空いていて、他愛もない会話をしている内に40分かからず到着してしまった。
「うわぁ……。こんなに変わりますかね?」
「なんか寒いよね? 盛り上がってきたー!」
夜闇の中を揺れる禍々しい木々。黒く蠢く干からびる寸前の湖。その上に架かる古びた吊り橋が、星明かりでぼんやりと浮かび上がる。そして、体の底から冷えるような不思議な寒気。
美しいと感じた夕方の吊り橋だが、ここまで印象が変わるとは。
「じゃあ、行こっか!」
「……はい」
懐中電灯で足元を照らしながら進む。女性と二人きりなのに少しも楽しくない。
Aさんの話を聞いたからか、風で葉が擦れる音、虫や蛙の騒めき、足元を跳ねるバッタ、顔にぶつかる羽虫や蜘蛛の巣、そんな些細な物ですら私の感情を揺れ動かす。
「そろそろ吊り橋だよ」
「長かったですね。結構疲れました。スーツで来る場所じゃないですよここ」
足を滑らせたら下まで転がり落ちてしまいそうな細い曲がり道の途中、Tさんから終わりが近い事を知らされる。シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
「さっきから鳥肌が止まらないのよね。そろそろ
「私の肌は汗でベシャベシャですけどね。その時はカメラにバッチリ収めてみせますよ」
後ろを歩くTさんに冗談半分で返すが、彼女らしくない真剣な表情を見て血の気が引いていく。
額に滲む汗を拭いながら歩くこと数分。ついに吊り橋に到着した。
怨念が染みついたかのように黒く薄汚れた木製の橋。その両側には胸くらいの高さがある落下防止用の金網。足場は所々が破損しており、幽霊よりも板を踏み抜いてしまいそうな恐怖の方が強い。
そんな古い吊り橋が向こう岸まで続いていて……って、何だあれは?
橋の中央に何かある。赤い小さな光が点いては消え、点いては消え。蛍のようだが、光の色が違う。
「ねぇ、I君。吊り橋の真ん中にさ、誰か居ない?」
「え? あれ人ですか?」
懐中電灯の明かりを向けてみると、確かに人影がある。金網に背を預けてタバコを吸っているようだ。Tさんの反応を見るに、幽霊ではないと思われる。
「行ってみようか?」
「何かあった時に守れるほど喧嘩強くないですよ?」
「そうだよねぇ。でも、渡りたいじゃない? 吊り橋」
「まあ、そうですけど……」
全然渡りたくないが、Tさんが乗り気なので従うしかない。
最悪の場合、肉壁にしかならないだろうが、左手で金網を掴みながら私が先頭を歩く。足元が不安で、前など見れない。古い床板がみしみしと軋む。一歩進むたびに不快な揺れを感じ、三半規管が異常を訴えている。
「おうカップル! お化けでも見に来たんか?」
そうしている内に、影の正体に近付いていた。
50代くらいだろうか。黒いティーシャツ姿の浅黒く日に焼けたオジサンがタバコを吸っている。吹かした煙と共に話しかけてきた。
「こ、こんばんはぁ」
さすがTさん。物怖じせず挨拶を交わす。
「いやぁ、出るって噂だったんですけどね。暗いだけで幽霊なんて居ませんでしたよ!」
私も男だ。会話を試みる。
「あぁ、そうか。それは残念だったな。じゃあよ、俺がもっと面白いもん見せてやるよ!」
笑いながらそう言ったオジサンは、金網を乗り越えて真っ逆さまに落下していく。闇に飲まれて姿が見えなくなるまでずっと、笑顔で俺を見つめていた。
彼は待っていたのだ。幽霊より恐ろしい光景を見せるために。
湖に架かる古い吊り橋 伊藤ほほほ @hohoho-itou
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