サイトウさんは肉食獣

棚尾

サイトウさんは肉食獣

 オオカミの遠吠えが聞こえる。正確にはオオカミのような、だと思うが、高く透き通った獣の声が僕の耳を通り抜けていく。

 日本で野生のオオカミは絶滅しているはずだ。だから、夕暮れの山中とはいえこの声はオオカミではない。おおかた、ふもとの民家の飼い犬なのではないかと、楽観的な予想をめぐらせる。


 ふもとが近いと思いたかった。僕は絶賛遭難中である。


 どうしてこうなったのか。それはサイトウさんに山に行こうと誘われたからだ。


「君って“美味しそう“だよね」


 それがサイトウさんが僕に言った最初の言葉だ。言葉の意味をつかめず、焦って『それって性的な意味で?』と最低で下品なジョークを飛ばしてしまいそうになったが、すんでで飲み込み、無難に『どういう意味?』と返した。

 

「食欲的に美味しそうだなってことだよ」


 こちらの一瞬の思考を見透かしているのか、サイトウさんはニヤりと野生的に笑った。


 サイトウさんは野生的な雰囲気を持つ女性だ。健康的に日焼けした肌、スラリとした手足に170cmを超える長身。日頃から外を走っているらしく、アスリートも顔負けな筋肉を持っている。ショートカットを金髪に染めており、誰にでも分け隔てない態度と、どこかつかみどころの無い言動で男女問わずファンが多い。


 声をかけられたのは偶然だろう。サイトウさんは一限目の講義開始ギリギリに教室に飛び込んで、たまたま入口近くに座っていた僕の隣に滑り込んだにすぎない。


 だから、会話は続かずに講義が始まる。


 今日は何かと話題の“幹細胞”についてだ。


 ”幹細胞“は生物の肉体を作る、大元になる細胞だ。


 生物の肉体は、ひとつの受精卵から、そこに存在する幹細胞が様々な組織に分化し、発生と呼ばれる過程を経て形成されていく。幹細胞には肉体を形成する全ての種類の細胞に分化し、自己増殖する能力を持った全能性幹細胞があり、そこから分裂した多能性幹細胞が、やがて皮膚や筋肉、神経や内臓の組織を作る組織幹細胞に分化する。


 ひとつの受精卵から肉体が形づくられるのも、そしてその肉体が維持出来ているのも、幹細胞のおかげだ。


 よく話題になる”IPS細胞“は、分化の終わった皮膚などの体細胞を初期化して、人工的に作り出した多能性幹細胞のことだ。

 マウスを由来とする幹細胞ならマウスのあらゆる組織が、ヒトならヒトのあらゆる組織が作り出せる。

 今は再生医療に役立てられている技術だけど、将来的には“好きな肉体“を手に入れることが出来るようになるかもしれない。

 少し頼りない自分の身体を顧みつつ、そんなことを考えていると、サイトウさんが突拍子も無いことを言い出した。


「先生、ヒトはオオカミに変身できますか?」


 普通なら冷たくあしらわれるところだが、1限目の先生はまだ若い講師だ。サイトウさんの質問に研究者らしい知的思考を刺激されたのか、楽しそうに答える。


「いわゆるオオカミオトコだね。“オオカミ由来の幹細胞を持たないヒト“である限りそれは難しいけど、現代ではこんな技術があるんだ……」


 詳しくはもっと後の講義でと言いつつ、先生は“キメラ動物“について説明してくれた。


 キメラ動物は、ひとつの肉体に異なる遺伝子を持つ、2種類以上の細胞が混ざった動物のことだ。

 ライオンの頭、ヤギの胴体、ヘビの尻尾を持つギリシャ神話のキマイラにちなんだ名称で、これも幹細胞を使った再生医療で、研究されている分野らしい。


 先生は具体例のひとつとして、ヒト-ブタのキメラ動物のことを教えてくれた。

 ブタの受精卵に、ヒトのIPS細胞を導入する。するとブタの体内でヒト由来の臓器が出来上がる。


 動物をヒトの臓器工場にして、移植に役立てる。ちょっとマッドな発想だ。


 つまり、ヒトの受精卵をベースに“オオカミの幹細胞”があれば、オオカミ由来の組織が発生の過程で出来上がるかもしれない、とのことだった。


 もっとも自然発生することは無いこと、そもそもヒトとオオカミでは生物として遠いから、発生の過程で死んでしまうだろうと付け加えていた。


「サイトウさんは、オオカミになりたいの?」


 講義が終わったタイミングで、思わず話しかけていた。


「オオカミってさ、私にとっては完璧なんだよ」

 

 言葉の意味が、よくわからなかった。だけど、これ以降、サイトウさんとはたびたび話をするようになった。週に一回、朝一番の講義がある日に、入口に近い席で、十分ほどの特別な時間。


 サイトウさんのことを知れば知るほど、オオカミは彼女のイメージにぴったりと合う。

 オオカミはイヌ科としては大型の部類に入る。サイトウさんは長身だし、無駄の無い筋肉質の身体は野生動物を思わせる。


「サイトウさんって、いつも、どれくらい走っているの?」

「朝と夕方に10kmずつくらいかな。走るのが好きなんだよ。あと山にも良く登る」


 想像以上の運動量だ。マラソンなど持久力の問われる競技が得意らしい。

 中学や高校のマラソン大会を何とか完走できるレベルの僕とは比べ物にならない。

 もし、追いかけられでもしたら、絶対に逃げきれない。

 

 サイトウさんは学内では常に複数名で行動する。

 男女合わせて6人くらい。サイトウさんはグループの中心的存在だ。

 みんなをぐいぐいと引っ張るという感じでは無いが、目配せは欠かさないし、勉強やプライベートで困ったことがあれば、みんなで助けるようにそれとなく誘導する。


 ただ、最終的にはサイトウさんの判断が絶対視されているようだ。

 人柄もあるが、誰かに噛みつかれているのを見たことが無い。


 群れのかたちは、そのリーダーの気質によって決まる。

 親切な独裁者。それがサイトウさんだ。


「君は、どこかのグループに入らないの?」

「ひとりの方が気楽なんだ。集団ってなんか落ち着かないんだ」


 サイトウさんとは反対に、僕は単独行動をすることが多い。

 ただのコミュニケーション下手である。こんなので社会でやっていけるのかと不安はあるが、今のところ学生生活に支障は無い。


「ひとりだと、何かあった時に困ったことにならない」

「普段ひとりなだけで、頼りになるヒトがいない訳じゃないよ。それに、ひとりでどうにかしなきゃいけない場面の方が、人生には多いんじゃないかなって思ってるし、なるべく自分だけの力で頑張りたいんだ」


 サイトウさんが心配してくれるのは嬉しく思うが、つい強がりが出てしまった。

 他人が不要だとは思っていない。けれど、自分の人生の責任は、自分でしか取れない。

 いざという時のためにも、自分で考えて、行動する癖をつけて置きたかった。


 サイトウさんは主に肉を好む。野菜はあまり好きでは無いらしい。

 肉と言っても、トンカツみたいな脂で揚げたものも好まない。赤身でレアなやつが最高なのだと、この前言っていた。

 サイトウさんが他人のことを話すとき、まず“美味しそうかどうか“が一番に出てくる。

 初めて僕にかけた言葉もそうだが、どういう基準があるのか気になって聞いてみた。


「サイトウさんにとって、美味しそうなヒトって何?」

「あんまり筋肉質なのはダメだね。硬くて食べられたものじゃないよ。かといって不摂生が過ぎるのも良くない。適度に運動して健康的なヒトが一番、何事も丁度良い感じが理想的」


 自分から聞いておいてあれだが、サイトウさんの口からはするっと食肉としての評価が出てきた。


 本当に“食欲的“な意味で、他人を見ているのだろうか。


 背筋がゾクっと冷えるの感じる。肌が粟立ってきた。サイトウさんがこちらの顔を覗き込んでくる。

 目が合った。視線が外せないし、身体も動かない。瞳には少し熱が帯びているように見えた。崖っぷちに立っているような、強い緊張を感じる。


「だけどね、そういうのとは別に“本能“が、ビビッとくる時もあるよ。君の場合は、それだね」


 それは一種の告白のようにも聞こえた。あまりにも都合が良すぎるのと、心臓を鷲掴みにされたような感覚に、冷静では居られなかった。言葉が出てこない。


 困惑している僕に構わず、サイトウさんが畳み掛ける。

 

「今度さ、一緒に山に登らない?」

 

 僕は断らなかった。サイトウさんと仲良くしたいという下心は引っ込んでいる。

 ただ、サイトウさんの言葉の意図を知りたかった。

 僕はサイトウさんにとってどういう存在なのか。

 あの、見つめられた時の感覚の正体は何なのか。

 知りたいことがたくさんあった。


 連れて来られたのは都心から少し離れた場所にある、標高700mくらいの低山だった。

 地元の人間やよっぽどの山好きしか来ないのか、人の姿が見えない。サイトウさんのグループのヒトもいない。

 集団が苦手な僕を気遣ってくれたのか、別の思惑があるのか、ともかく二人きりだ。


 山を歩くにあたって、僕とサイトウさんの能力の差は歴然だった。

 季節はもう夏である。周りの樹木が日差しを遮ってくれているが、それでもかなり暑い。

 サイトウさんの後ろを僕は付いていく。汗だくで息も絶え絶えな僕に比べて、余裕の表情だ。木の根が張っていたり、石が転がっている道を、サイトウさんはひょいひょいと軽やかに進んでいく。

 しなやかに躍動する肉体に、思わず見入ってしまった。


「大丈夫? 休憩しようか」


 足が止まった僕を心配して、サイトウさんが振り返る。


「平気だよ。サイトウさんこそ、僕のことを気にせず先に行っていいよ」


 色々聞きたいことがあるが、山を歩きながら話を進める余裕が、正直無い。

 山頂でゆっくりと腰を据えて話すのが良い気がしてきた。

 それに、あんまり情けない姿をサイトウさんに見られたくない。


「誰かが側にいた方が心強いのに、君はひとりの方がいいの?」

「できることなら一緒にいたいよ。でも足を引っ張るのは嫌なんだ」


 強がりだ。サイトウさんに先導してもらった方が絶対に楽に登れる。

 何でもひとりでと考えてしまうのは、精神的には未熟な証拠なのかも知れない。

 サイトウさんはちょっと考える素振りを見せたが、僕の気持ちを尊重してくれた。


「わかった。じゃあ、先に行って待っているから、絶対“あきらめない“でね」


 サイトウさんはちょっと大袈裟な表現を使った。登山道があまり整備されていないとはいえ、岩場を登るだとか、道なき道を切り開かなければ進めないという感じではない。

 時間がかかるかも知れないが、自分のペースを守れば問題無いはずだ。


「大丈夫。話したいことがあるから、必ずサイトウさんのところに行くよ」




 ここが僕の運命の分かれ目だった。


 暑さにやられて、ふらついて、道を踏み外した。

 斜面をどれくらい転がったのかはわからない。気がつけば、周りは当然知らない景色で、方角もわからない。身体の節々が痛い。携帯電話もどこかに落としたようだ。 


 山頂を目指して、登るべきだろうか。

 尾根に出れば、だいたいの場所がわかるかも知れない。

 立ち上がって、登れそうな場所を探すが、視界に入る範囲は、傾斜がきつくて難しそうだ。

 移動しようと一歩踏み出した時、右足首に鋭い痛みが走った。落ちた時に痛めたようだ。この足では斜面を登るのは難しいかも知れない。

 そもそも、遭難した時に、迂闊に動いて良いのだろうか。


 悩んでいると、どこからかオオカミの遠吠えが聞こえた。

 山中を響き渡る透き通った獣の声。


 サイトウさんのことが、頭に浮かんだ。

 頂上には、もう向かえない。

 

 大きく深呼吸して、自分の状態を確かめる。

 足を痛めているけど、歩けないことも無い。あとは多少のすり傷だけだ。

 リュックは無事だから、飲み物と食料はある。しばらくは問題無く動けそうだ。

 この山は幸いにも電波が入る。山を下り、ふもとの民家で助けを求めて、サイトウさんの携帯電話に連絡する。

 ここに留まっていても、異変を感じたサイトウさんが警察にし連絡してくれるだろう。

 けれど、助けが来るまでどれくらい時間がかかるかはわからない。じっとしていても、この暑さで熱中症になる可能性もあった。


 だから、山を下りる決断をした。

 木々の間を抜けて、慎重に足を進める。急な斜面を降るのは難しいし、次に転げ落ちたら、動ける保証は無い。多少迂回することになっても、確実に進める道を選んでいく。

 

 追い詰められた状況に、神経が過敏になっているのか、周りの音が良く聞こえた。

 風に揺られて木々がざわめく音だけじゃない。明らかに何かがいるのがわかる。おおかた、イタチなどの小動物やヘビなのだろうと思うが、姿が見えず、気配だけが周囲にあるというのは、想像以上に不安な気持ちになる。

 幽霊や神様みたいな存在は信じてはいないが、暗闇でこんな風に気配だけをたくさんぶつけられたら、何か超常のものを感じても不思議ではない。


 ヒトでは無い得体の知れないもの。山には確かにそれがいるのだろう。


 どれくらい歩いたのだろうか。太陽は既に真上を過ぎている。いつもは携帯電話で時間を確認していたから、それを無くした今では正確な時間がわからない。

 入山するときに確認した時間は9時、サイトウさんと別れたのは10時くらいだった。山頂でお昼を食べて、その後下山する予定だったから、サイトウさんはそろそろ異変に気づくかもしれない。

 すぐさま警察を呼ぶことは無いだろう。登山道を引き返して、僕の姿を探すはずだ。

 サイトウさんがこの山を颯爽と駆け抜ける姿が想像できる。今、僕が悪戦苦闘している道なき道も、彼女ならおそらく全く苦にしない。


 サイトウさんは、どうして僕を山に誘ったのだろうか。

 都合良く解釈すると、サイトウさんは僕に気があり、二人でお出かけしたかったとなるが、そんな話では無い気がする。


 僕が“美味しそう“だったから、だろうか。

 サイトウさんが僕を見つめた時の視線の熱と、それによって引き起こされた感覚を思い出す。

 突飛な想像だった。サイトウさんがいくら肉食獣のオオカミみたいだとはいえ、ヒトであることには変わらない。

 それにサイトウさんは群れの秩序というか、社会との関係性を大事にしているように思える。変わった言動こそあるが、ルールを逸脱したことは決してしない。

 

 だけど、ここは山の中だ。サイトウさんを縛るものは、ここには存在しない。


 足が止まった。だけど、座り込むことはしなかった。

 たぶん、立ち上がれなくなる。疲労が溜まっている。あきらめて、ここで助けを待つべきだろうか。


 オオカミの遠吠えが、また聞こえた。

 さっきよりも距離が近いのか、それとも心細さがそう感じさせるのか、高く透き通った声が、心にストンと入ってくる。もしオオカミの声帯があって、同じように声が出せたなら、応えたいと思ってしまう。

 誰かに呼びかけるような、仲間の背中を押すような、そんな声だった。


 とにかく、限界まで足を動かそう。

 サイトウさんに“あきらめない“でと言われたのだった。それに強がりとはいえ、僕はなるべくひとりで頑張りたいとも言ったし、必ずサイトウさんのところに行くとも言った。簡単にあきらめては、あまりにも格好が悪い。 


 歩いても、歩いても、景色は大きく変わらない。

 下っているのは間違いないとは思うが、光明は一切見えない。

 心が折れそうになる度、オオカミの声が聞こえた。

 疲れからくる幻聴もあるだろう。けれども、その声は、確かに僕の背中を押した。


 夕暮れ時も終わりに差し掛かり、太陽が沈んで、あたりが暗くなっていく。

 いつの頃からだろうか、背後から、何かが追いかけてくる気配を、ずっと感じていた。

 ヒトを付け狙う野生動物はいないはずだ。山に良くいる鹿は草食だし、雑食のクマはわざわざヒトを付け狙うようなことはしない。


 嫌な想像が浮かんだ。

 ヒトを食べる肉食獣。そんなものが、現代の山にも存在するとしたら。


 背筋がゾクっとして、肌が粟立つ。崖っぷちに立っているような、強い緊張を感じる。心臓を鷲掴みにされたような感覚に、身体が動かなかった。

 この感覚は、サイトウさんに見つめられた時と同じものだ。


 ここであきらめたら、全てが終わる予感があった。

 ここに来るまで、心が折れそうな時、何度も奮い立たせてくれたオオカミの声は聞こえない。


 自分の人生の責任は、自分で取るしかない。

 決めるのは自分自身だ。崖っぷちでこそ、これまで培ってきた人生が問われる。


 僕は何でもひとりでやりたがる未熟者だ。誰かを頼るのが苦手で、優しく差し伸ばされた手を素直に取ることが出来ない。強がって意地ばっかり張って、こんな状況になっているのも、自分のせい以外の何ものでもない。

 だから、この場面で出来ることも変わらない。強がって、意地を張って、前に進むのだ。


 ここまで何度も背中を押してくれたオオカミの声と、サイトウさんの姿を思い浮かべる。

 決断をするのは自分だ。けれども、自分の力だけで進める訳ではない。

 

 このピンチを抜けて、サイトウさんに再会出来たら、何を伝えようか。

 それを支えに、道なき道を歩く。“あきらめなければ“どこかに辿り着けると信じて進む。


 光が見えた。人魂でも幻覚でも、天国からのお迎えとかでもない。

 人工的に輝くその光が見える方向に進むと、サイトウさんが、ライトと携帯電話を持って立っていた。

 何とか、登山道に合流したようだ。


 安心して気が抜けたのか、立っていられず、膝から崩れ落ちる。

 ふわっと、汗がたくさん混じったワイルドな匂いがした。身体の前面に温もりを感じる。

 サイトウさんが、倒れそうになった僕を抱き止めてくれたのだ。


「良かった、無事で。警察と救急には、もう連絡したよ」

「サイトウさん、ごめん。せっかく誘ってくれたのに、迷惑ばかりかけて」


 ゆっくりと、サイトウさんが僕をその場に座らせる。

 心配そうに、サイトウさんが僕の顔を覗き込んだ。目が合った。けれど、強い緊張は感じない。


「こんなこと、今聞くことじゃないけどさ、教えて欲しいことがあるんだ」


 僕はサイトウさんにとってどういう存在なのか。聞いておきたかった。


「僕はやっぱり“美味しそう“?」

「そうだね。とっても“美味しそう“だよ」

 

 サイトウさんはニヤりと笑った。やっぱり“食欲的“な意味で見られているのは変わらないのだろう。でも、サイトウさんは僕を食べなかった。


 僕が“あきらめなかった“からだと思う。


 オオカミは、元気な獲物を狩ることは稀だ。追い回して、疲れさせて、動けなくなった獲物を喰らう。

 僕がもし、あそこで“あきらめて“いたら、食べられていたのだと思う。

 サイトウさんなのか、それとも別の肉食獣なのか。どちらになるのかはわからない。

 確かなことなど、何も無い。疲れから、突拍子もない想像をしているだけかもしれない。


「それとオオカミの声が聞こえたんだ。サイトウさん、何か心当たりはない?」

「それって、こんな感じの声でしょ」


 サイトウさんが空を見上げて、口を尖らせた。僕の背中を押したオオカミの声が、サイトウさんの口から出て、山の中を響き渡る。それがヒトの声帯から発せられたのか、“オオカミの声帯“から発せられたものなのか、正確なことはわからない。

 サイトウさんは肉食獣だ。けれど、ヒトでもある。僕を食べたいと思っているけど、僕が“あきらめなければ“食べられることはない。そして、どうしようもないピンチの時に、背中を押したのはこの声だ。だから大丈夫だと思える。

 今回みたいな目に合うのは、もうこりごりだった。サイトウさんに負けない体力を付けないといけない。

 その結果、僕は“美味しそう“で無くなり、サイトウさんに見向きもされなくなるかもしれない。

 

 未来のことなんて、何もわからない。

 けれど、“あきらめず“に進めば、どこかに辿り着ける。

 今はそう信じて、ヒトでも肉食獣でもあるサイトウさんとも一緒にいられたら良いなと、淡い希望を胸に抱きながら、僕は眼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

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