第5話 時波の遡硝子

 時はたぷりと揺れて広がっていく。

 寄せては返す波の、過去や未来すべてが重なって彩る景色は豪奢であり、退廃的でもあった。

 始まりと終わりが同じように存在しているここは、時の海。あらゆる場所から遠く、またあらゆる場所がここへ繋がり得る、狭間の世界。

(……なんて言い伝えられていても、実際ここへは何人なんぴとたりとも立ち入ることはできないのだけれど)

 単に可能性があったという話なのだ。しかしあらゆる可能性は潰えてしまい、ここは絶対的に隔絶された場所となっている。そういうふうに理を書き換えてしまった張本人が時折跳ねる飛沫しぶきにきゅっと目を瞑るのを、時の魔術師は不思議な心地で眺めた。

 時の波打ちぎわに腰掛け、時の砂を集めているらしいそのひとを。

「いったいなにを作るつもりなの、フェブリラ?」

 腰まである、昼夜さまざまな星の光を蓄えて豊かに波打つ白い髪を揺らし、フェブリラと呼ばれた少女は人形のように整った顔を時の魔術師へと向ける。その作り物めいた銀色の瞳が時を宿して鮮烈に輝く。

「とても面白いものだよ――」

 フェブリラが微笑むたびに瞬く光と影は、どこかでなにかが生まれ、なにかが死にゆく運命の残滓。

「そうだ、今回はね」

 ――キミにも手伝ってもらおうと思っているんだ、ミアナ。

 見た目にそぐわない口調で話すフェブリラの声は神秘そのもの。

 名を呼ばれたことに時の魔術師は己の耳を喜びに震わせ、しかし愛する者との会話を続けるために首を傾げる。

「……私も?」

「うん。いつだったか……いや、これからだったかな? とにかく、キミが作る天球儀の魔術具があるんだよ。あれに使っていた魔術が欲しいんだ」

 フェブリラはよく、時系列の曖昧な話しかたをする。彼女にとってすべてはすでに起こったことであり、同時にこれから起こることでもある。すべての今が彼女に繋がり、彼女はそれを司る。

 なぜならフェブリラは、時の魔女であるからだ。


 魔女がそんなふうにかき混ぜられた時を語るたび、ミアナは彼女をいっそう愛しく思えてならない。

(まるで迷子のよう)

 なにもかもを封じ込めたような鮮やかさで銀色の瞳はそこにあり、けれどもフェブリラ自身はなにもかもを持つことがない。どこにでもいるということは、どこにもいないことと同じだ。彼女はすべての時を司るがゆえに、時が成す波と波のあいだを彷徨い続ける。

 そうして見つめていると、無機物のような瞳に呆れの色が浮かんだ。

「…………そんなにボクの目が好き?」

「そりゃあ、綺麗だもの」

「飽きない?」

「飽きない。人間というのは、自分の身に余るような美しさを見つけてしまえばそれきり、囚われてしかたないのだから」

(そうして、手の中に宝物があることを誇りに思いながら生きてゆくのだ)

 ちっぽけで弱い生き物は、自分自身ではなく自分が持っているものによってその価値を決める。

(だけど、どれだけ時を経たとしても、この特別な宝物を本当の意味で手に入れることはできない…………)

 大きな事象を司る魔女というのはそういうものであると、ミアナは理解していた。


 ミアナがフェブリラに請われたとおりに魔術を練っていると、ふと笑みの零れる気配がする。

「どうしたの?」

「……人間というのは、本当に面白いね」

 その括りには自分も含まれていることを苦く思いつつ、時の魔術師は「どういうこと?」と続きを促す。どこか遠くにある時波へ思いを巡らせていた時の魔女は、言葉を探すように小さく唸った。

「ん……キミは、キミを知ってなにを成す?」

 彼女の抽象的な質問はいつものことで、初めに人間について言及したのだからこれは人間の話なのだろうと見当をつける。人間がミアナを知りたがるなら、その答えはひとつだ。

(私だってあなたを手に入れていないのに……)

 ミアナの考えを読むように、フェブリラは口の中で笑った。また時の飛沫しぶきは散っていく。

「ふ、ふふ。そうだね、ボクを手に入れるつもりなのかもしれない」

「させるものですか!」

「…………冗談だよ。が手に入れたいのはボクじゃあないから安心おし」

 面白がるようにからからと笑うフェブリラはやはり美しく、そして愛らしい。自分に見惚れる視線に気づきながら、時の魔女は人間の手からするりと魔術の細工を奪った。

「ああ、よくできているね。さすがだ。魔法だとこんなふうに細かな条件づけを行えないからね」

 ミアナが練り上げたのは、すべての時が混在する海から、ほんのひとすじだけ存在している真実の糸を紡ぐ魔術である。

 あるべき運命に従う者、抗う者、ただそこに在ることを知る者……。あらゆる事象や生き物の思いによって虚像が雑多に混じる時波からただひとすじを見つけることは、実は非常に難しい。

 ミアナはそんな作業を任されたことについて喜ぶことこそあれ、不満などあるはずもないのだが、この魔術をフェブリラが使いたいと思う理由がわからなかった。

「こんな魔術、なにに使うの?」

「ちょっとした贈り物だよ。ここでは有り余って海になるほどだけれど、時波というのはほんのひとしずくだけでも貴重なのだろう?」

「まあ、そうだね」

「だから運よく飛沫に触れた者に、あるいは正しい歴史を真に知りたいと願う者に、与えてやるのだよ。持ち主の記憶を辿れるようにしてね」

 ――まあそれだって、時を都合よく解釈しただけにすぎないのだけれど。付け加えられた言葉の壮大さにミアナはくらりとした。

 すべての時はここにあるのだ。そう理解していても、川が流れるのと同じように時の流れというものを意識してしまう。時の魔術師でさえそうなのだから、はたしてこの真実を正しく理解できる者はいるのだろうか。

 たとえば、フェブリラが「面白い」と評した人間は。

「……その中に、私を知りたいと願う人間がいるというのね」

 フェブリラは時の魔女らしく、銀色の瞳を深く煌めかせて微笑んだ。


 ミアナの時波に未だ現れない事象を、フェブリラが不用意に語ることはない。

 正しい在りかたなのだとミアナは思う。

 時の魔女にもっとも近づいた人間だという自負はあるが、それでも魔女というのは人間とは根本的に異なる生き物で、その途方のなさには圧倒されるばかりだ。

(正しい在りかただとわかってはいるけれど)

 多くの魔女が長い時を生きる。司るひとつひとつの事象が簡単には失われないからであるが、フェブリラのそれは他の追随を許さない。彼女を構成する時が失われるとき、それはすなわち世界そのものが失われるときだ。

 駆け巡る風は時を削り、砂を生み出す。

 その砂もまた時を宿す。

 灯っては沈み、過ぎ去ったと思えば留まり続ける今たち。

 時の織り成すそんな光景を、人は今際のきわに見るという。ならば常に見続けている自分の死というのはどこにあるのだろうと、時の流れから切り離された場所で生きる魔術師は考える。

(私の命も永遠に続けばよいのに)

 ミアナの答えが出そうにもない疑問も、ミアナに手伝わせた魔法道具も、みな等しく。時の魔女は結末を知っているのだ。

 それでもフェブリラは、ミアナと言葉を重ねることをやめない。

 ただここに在るだけの時を確かなものにするかのように。

 すべてを知る時の魔女が新鮮な反応をしてみせるのは、今が確かに今だという証拠なのだとミアナは思う。

「キミはボクの物語を紡ぎたいと、そう思うかい?」

 だからミアナもそのとき感じたままに言葉を返すのだ。

「フェブリラの美しさを表現できる力が私にあるのなら、いくらでも」

 そう言えばフェブリラはわずかに目を大きくさせ、しかし溢れさせてしまった心を拾い集めるように首を横に振った。

「そうじゃないよ。ボクの、時の魔女の時波うんめいを結ってみたいかと聞いたんだ」

 そんな恐れ多い、と言いかけてミアナははっとする。

(まさか、例の人間はそう願ったのだろうか)

 魔女は魔女自身のものだ。

 たとえ語ることを許されたのだとしても、物語そのものに手を加えてよいわけではない。いくらフェブリラの傍にいようとも、彼女の生き様を変えることなどできはしないのだ。

 だからこそ、大それたことを成そうとする人間がいることに不快感が滲む。

 ひと粒ひと粒が豊かな魔法を含む砂がしゃらしゃらと音を立てた。時の魔女はそれを、海を透かして固めた硝子に詰めていく。

「……ふむ。ならボクたちには繋がらないようにしよう」

「え?」

 フェブリラの言葉が、ミアナの表情を見て発せられたことは明らかだ。なにか重大な間違いをしてしまったのではないかとミアナはぎくりとした。

「心配するようなことではないよ。ほら、この道具ができあがって、最初の持ち主になるのは誰?」

「フェブリラ?」

「と、ミアナだ」

 こんなときは時の魔女と同じ括りに入れてくれるのだと嘆息する人間を見つめながら、フェブリラは砂を詰め終わったばかりの硝子を指でなぞる。

「つまり、持ち主を辿っていけばボクたちの記憶も覗かれることになるわけだけれど。キミがそんな顔をするのなら、繋ぎは切ってしまおう。……時の魔術師の記憶を知るために大枚をはたいたのに、その一歩手前ですべてぱあだ」

 くふふ、と笑う時の魔女。

「…………性格が悪いよ」

 あまりに愉しそうな笑顔を見せられて言葉に詰まったミアナはしかし、我に返ってじとりとした目をフェブリラへと向けた。とはいえ効果がないことは本人がいちばんよく知っていて、その通りの返事が寄越される。

「なに言っているのさ、魔女なんてそんなものだよ。だいたいね、こんなところまで辿れる人間の性格がいいわけないだろう?」

「……それもそうかも」

 同じ人間を陥れることに対する罪悪感が引いていく。

 代わりに押し寄せるのは堪えようもない歓喜の波だ。そうして身体を震わせて笑うミアナを、フェブリラは不審がった。

「ミアナ……?」

 息を吸って、吐いて。生きていることを実感しながら、ミアナはゆっくりと言葉を紡いだ。

「こうしてあなたを大事にできることが、それをあなたが許してくれることが、私にはとても嬉しい」

「そんなの」

 フェブリラはふっと鼻で笑う。

「いくらでも自由にしたらいいだろうに」


 それからどれだけの時が経ったか、あるいは経っていないのか。

 時の魔女はぽつりと呟いた。

「ボクも、キミを大事にできることが、嬉しいよ」

 涙が溢れるように、フェブリラから時が溢れる。


 常に煌めいている瞳はさらに輝きを増し、ほのかに光る身体から溶け出すように波は高くなる。

 時が時を染めていく。

(飛沫なんて程度じゃない。宝石みたい……じゃなくて!)

「フェブリラ!?」

「……ああ、あまりに嬉しかったものだから」

 なんでもないよと安心させるように笑う時の魔女の顔は熱があるかのように上気している。

「いや、でも、すごく赤いよ。具合が悪いんじゃないの?」

「そういうのじゃなくて、これはっ」

 顔はますます赤く染まり、いつもは落ち着いているフェブリラの焦るような姿にミアナはなんとしてでも助けなくてはと気合いを入れた。

 なにより、時の魔女から時が溢れているのは確かなのだ。

「削られていたら大変だから」

「違うんだ。そうじゃないから……落ち着いて、ミアナ」

 名を呼ばれてようやくフェブリラのよく整った顔をしっかりと見たミアナは、熱っぽい表情の中にある真摯な色に気づいた。

「確かにこの時たちはボクから生まれたけれど、これは…………これはその、生き物が異性と交尾をするときに感じるのと同じ快楽のようなものなんだ」

「……え。あ、えっと」

 ひと息でこの現象について説明した時の魔女と、発せられた言葉に思考が止まる時の魔術師。

 しどろもどろになって返される反応に、フェブリラは「はぁ」と息を吐いた。

「だから言いたくなかったんだ……」

 理由を知ってしまえば、熱っぽさの意味はがらりと変わる。囁き声に近いその神秘に、ミアナはどうしようもなく情動が湧き上がった。

「――なっ、ミアナ!?」

 がばっと人形のような少女に抱きついた魔術師を、抱きつかれた魔女は驚きをもって硬直する。

「嬉しい!」

 そのあいだにも腕に力を込めるミアナ。

「私は、そういう方面であなたを悦ばせられないことを残念に思っていたから。でも、違った!」

「……それ、ひとを抱きしめて言うことじゃないだろう」

 口調は一瞬でいつも通りに戻ってしまったが、フェブリラの顔は赤いままで、時は溢れるばかりだ。

(か、可愛い……!)

 この変化の一端を自分が担ったのだと思えば、ミアナの身体まで熱くなる。その勢いで魔術を組み上げていく。

「え、キミ、なにしてるの」

「こちらの要素も切り出せば二人の子になるかなと思って」

「…………まったく、キミという人は……」

 呆れたように首を振る時の魔女の表情はしかしどこか緩んでいるようで、恐ろしいほどに愛らしい。

 絶えず時を溢しては悩ましげに寄せられる眉根。その欠片が時の魔術に絡め捕られるたびに吐き出される吐息。寄せては返す波はまた高くなっていく。

「今ので、例の人間の時がよきものになったけれど?」

「……それが、私たちの愛ゆえだというのなら」

 紛れもない、二人のが広がっていく。


 時の海はすべてを内包し、事象の時波を紡いでいく。

(それをフェブリラと二人で見られるなら、なんだっていい)

 微笑み合う魔女と魔術師。そこから滲んだ時が新たに紡がれ、竜のかたちを成す。

 その竜は、世界に「幸福」という事象をもたらしたという。

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揺らぐ夜の時波 ナナシマイ @nanashimai

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